三花街の門
三花街に近づくにつれて、道の空気が変わった。
下層の道は、どこも似ているようで違う。
崩れた壁。
剥き出しの配管。
古い看板。
勝手に増えた露店。
誰かが燃やした跡と、何かを捨てた跡。
そういうものが、道の端に積もっている。
けれど、その先に見えてきた区画の周囲だけは、妙に片づいていた。
綺麗なのではない。
片づけられている。
近づく者を見やすくするために。
隠れる場所をなくすために。
逃げ込める影を減らすために。
ラヘルは、車の後部座席からそれを見ていた。
窓の外へ顔を向けすぎないよう、帽子のつばを少しだけ下げる。
隣にはユイが座っている。
ユイも帽子を被り、膝の上で自分のSMGを抱えていた。
ユイの手つきは、まだ熟練したものではない。
けれど、ただ持たされているだけでもない。
自分のものとして、そこに置いている。
ラヘルは、それを横目で見る。
ユイは、時折窓の外を見ていた。
けれど、見すぎない。
誰かと視線が合いそうになると、すぐに目を落とす。
以前より慣れているのだろう。
少なくとも、ラヘルよりは。
前の席ではレンジが運転している。
軽い口調は少なく、今日は仕事の顔に近い。
助手席にはタチバナ。
サエは端末ケースを膝に置き、何かを確認している。
ユウは後部座席側の補助席に近い位置で、ARの吊り紐と予備弾倉を確認していた。
銃の金属音が、車内で小さく鳴る。
ラヘルは、その音にわずかに指を強張らせた。
ユウは気づいたのか、気づかなかったのか分からない。
ただ、確認を終えると短く言った。
「中では勝手に止まるな」
ラヘルは顔を上げる。
「承知しています」
「見るなら目だけで見ろ。顔を向けるな」
「……はい」
言い方は相変わらず短い。
けれど、もう少しだけ意味は分かるようになっていた。
三花街。
花街という言葉から、ラヘルが最初に思い浮かべたものは、店の灯りや着飾った女たちだった。
だが、車の窓の向こうに最初に見えてきたのは、壁だった。
高い壁。
その前に、堀。
そして、そこへ渡るための橋。
ラヘルは、思わず息を止めた。
「……花街、なのですよね」
小さく呟いたつもりだった。
けれど、レンジが聞いていたらしい。
「花街ですよ」
前を向いたまま、少しだけ笑う。
「下層の、ですけどね」
車は、一般客用の橋とは別の脇道へ入った。
駐屯者や納入業者が使う車庫らしい。
門から少し離れた位置に、コンクリートで囲われた車庫があった。
入口には詰所があり、武装した男が二人立っている。
車両番号と顔を確認され、タチバナが短く何かを言うと、ゲートが開いた。
車庫の中は広くない。
だが、整理されている。
壁際には物資用のコンテナ。
奥には整備用の工具。
外へ抜ける扉は二つ。
どちらにも監視カメラが向いていた。
レンジが車を止める。
「着きましたよ」
誰もすぐには降りなかった。
タチバナが先に外へ出る。
次にサエ。
レンジが運転席から降り、周囲をざっと見る。
ユウはARを肩に掛けてから、ドアを開けた。
「降りろ」
ユイが先に動く。
「はい」
ユイはSMGを抱え直し、車から降りた。
ラヘルも続く。
足を地面につけた瞬間、車内とは違う空気が肌に触れた。
湿った匂い。
水。
油。
古い鉄。
消毒液のような匂い。
そして、その奥にかすかに混じる甘い香料。
花街の匂いなのだろうか。
だが、甘さより先に、防壁の匂いがした。
車庫から出ると、三花街の門が見えた。
橋を渡った先に、厚い門がある。
門の左右には詰所。
上には監視用の歩廊。
壁の上には人影が動いていて、一定の間隔でサーチライトが外周を撫でていた。
堀の水は、暗かった。
流れがあるのかないのか、表面がわずかに揺れている。
幅は広い。
ただの飾りではない。
落ちれば簡単には上がれないだろう。
ラヘルは、堀の向こうの壁を見た。
壁は、内と外を分けている。
外のものを入れないために。
中のものを出さないために。
その両方を、同じ形で行っている。
「城塞のようですね」
ラヘルは、今度は声に出して言った。
サエがちらりと見る。
「実際、半分はそうよ」
「半分?」
「もう半分は檻」
その言葉に、ユイが少しだけ表情を変えた。
ラヘルも、壁を見上げる。
檻。
確かにそうだった。
守るための壁と、逃がさないための壁は、外から見れば同じだ。
タチバナたちは、詰所の方へ歩いていく。
門の前には、一般客の列ができていた。
下層の男たち。
少し身なりの良いロストらしい者。
作業帰りの男。
酒の匂いをまとった客。
その間に、店の使いらしい女が一人、札を受け取ってすぐ中へ戻っていく。
客たちは門で足を止められ、受付の端末に札を発行されていた。
札。
ただの入場許可ではない。
区画内で誰がどこへ入ったか、どの店で金を使えるか、どの範囲まで行けるかを管理するためのもの。
ラヘルは、札を受け取る客の手元を見る。
小さなタグのようなものだった。
腕に巻く者もいる。
首から下げる者もいる。
端末に連携させる者もいる。
札がなければ、店で相手にされない。
そして札がある限り、客はこの街に把握される。
門番の一人が、タチバナへ頭を下げた。
「銀月から話は通っています」
タチバナは短く頷く。
「駐屯任務だ」
「はい。責任者札を発行します」
通常客とは別の端末が出される。
タチバナ、サエ、レンジ、ユウ。
それぞれに札が発行される。
客札とは色が違う。
警邏と駐屯のための札。
ユイとラヘルは、その後だった。
「同行者二名」
門番が確認する。
「報酬対象ではない」
サエが言う。
「はい。控室使用許可と内部同行許可のみです」
ラヘルは、その言葉を黙って聞いた。
同行者。
保護対象。
仕事の人員ではない。
それは分かっている。
けれど、言葉にされると少しだけ胸の奥が沈む。
ユイは隣で小さく頷いていた。
慣れているのか。
それとも、まだ意味を深く考えていないのか。
ラヘルには分からなかった。
次に、銃の確認が始まった。
一般客は、門の前で銃に封印を受けている。
腰の拳銃。
懐の小型銃。
中には袖に隠した銃を見つけられ、門番に睨まれる男もいた。
封印タグが銃へ巻かれ、簡易ロックが掛かる。
客はそれを確認されてから、ようやく札を受け取る。
ラヘルは、その様子を見ていた。
「封印を破ると、どうなるのですか」
隣のユイへ小声で聞く。
答えたのはレンジだった。
「二度と入れません」
ラヘルはレンジを見る。
レンジは少しだけ肩をすくめる。
「三花街は下層だけど、商売の街ですからね。中で銃を抜く客なんか置いておけないんですよ。店にも女にも客にも迷惑がかかる」
「客同士の揉め事は」
「起きますよ。でも銃撃戦にはさせない。だから封印です」
サエが補足する。
「破れば店側からも用心棒からも敵扱い。客としての顔も潰れるわ」
ラヘルは、封印された銃を持つ男たちを見た。
客は銃を使えない。
けれど、ユウのARは封印されない。
ユイのSMGも。
ラヘルのために用意されているであろう武器も。
つまり、ここでは銃を持てること自体が、客ではない証になる。
門番がユウのARを見て、札の情報を確認する。
「内部警邏担当」
「そうだ」
ユウは短く答えた。
「発砲は非常時のみ。店側または責任者判断を優先。客への威圧は許可範囲内。ただし無用な接触は禁止」
「分かってる」
本当に分かっているのか疑わしいくらい短い返事だった。
だが門番は、それ以上言わなかった。
ユウの方が、そのあたりを分かっていない人間には見えなかったのだろう。
ユイのSMGにも確認が入る。
「同行者武装」
門番がサエを見る。
「許可済みよ。自衛用。発砲判断はユウとタチバナの管理下」
「了解」
ユイは少し緊張した顔でSMGを抱え直した。
ラヘルは、その手元を見る。
ユイは、ただ守られるだけではない。
少なくとも、自分の武器を持つことを許されている。
それがどれほど使えるかは別として。
門の手続きが終わると、内部側の詰所へ一度通された。
そこには武装ラックと、警邏用の確認端末がある。
壁には三花街の簡易図面。
北側の第一区画。
中央の第二区画。
南側に近い、より重い区画。
外周壁。
門。
壁上通路。
機銃座。
レンジは壁上通路の表示を見て、少しだけ嫌そうな顔をした。
「俺はこっちですか」
「壁上監視」
タチバナが言う。
「外から来るものを拾え」
「了解です」
軽い返事だったが、声は少し硬い。
サエは別の扉を見た。
そこからサーバー管理区画へ向かうらしい。
「私は後で向こう」
「サーバー室へはサエさんのみです」
門番が言う。
「分かってるわ」
サエは端末ケースを持ち直した。
タチバナは花街側の責任者と合流するため、別の部屋へ案内される。
残るのは、ユウ、ユイ、ラヘル。
そして一度だけレンジ。
レンジは内部側の通りをちらりと見てから、ユウへ言った。
「面倒になりそうなら、早めに切れよ」
「何を」
「女」
ユウは眉を寄せる。
「ユイとラヘルは連れて歩くんだろ」
「そっちじゃない」
レンジは小さく息を吐いた。
「まあ、歩けば分かるっす」
そう言って、壁上へ向かう通路へ消えていった。
ラヘルは、その言葉を聞き流せなかった。
女。
この街で、それは多すぎるほど意味を持つ言葉だった。
ユウは特に気にした様子もなく、ARの吊り紐を直す。
それから、自分の装備の一部を外した。
SMG。
ラヘルは、それが自分へ差し出されたのだと気づくまでに一拍遅れた。
「持ってろ」
ユウが言う。
ラヘルは思わず、ユウの顔を見る。
「私が、ですか」
「撃つな。持つだけでいい」
「……撃たないのですか」
「撃つな」
念を押された。
ラヘルは、差し出されたSMGを受け取る。
予想していたより重かった。
手の中にある金属の重さ。
銃という道具の冷たさ。
自分の指には、まだ馴染まない。
「落とすな」
「はい」
「構えるな」
「はい」
「引き金に指を入れるな」
「承知しています」
「本当に分かってるか?」
少しだけ腹が立った。
けれど、反論する前にユイが横から小さく言った。
「最初は、指を外に置いた方がいいです」
ユイは自分のSMGを少し持ち上げ、手の位置を見せる。
ラヘルはそれを見る。
ユイは自前のSMGを持っている。
ラヘルはユウのSMGを持たされている。
同じ武器に見えて、意味が違う。
ラヘルは、それを少し遅れて理解した。
これは、護身具ではない。
少なくとも、それだけではない。
三花街の中で、客の銃は封印される。
その中で武器を持つ女は、客ではない。
さらに、この銃はユウのものだ。
自分に手を出せば、持ち主が出てくる。
そう周囲に読ませるための札。
家の紋章ではない。
護衛の制服でもない。
紹介状でも、名前でもない。
くすんだ金属の銃。
この街では、それが所属を示す。
ラヘルはSMGを抱え直した。
「……これは、私があなたの管理下にあると示すためのものですね」
ユウは少しだけ目を細める。
「分かるならいい」
それだけだった。
ラヘルは言葉を失いかける。
説明しない。
褒めもしない。
ただ、必要なら持たせる。
それがユウだった。
ユイは、ラヘルの手元を見ていた。
自分のSMG。
ラヘルのSMG。
ユウのAR。
三人で歩く形が、そこで決まる。
ラヘルは、ユイが何かを考えているのに気づいた。
けれど、ユイはまだ言葉にしなかった。
内部への門が開く。
空気が変わった。
外の堀と壁の匂いから、今度は灯りと酒と香料の匂いへ。
三花街のメインストリートが、門の奥に伸びていた。
最初に見えたのは、光だった。
下層の薄暗い光ではない。
それよりも明るく、しかし中層のように澄んでもいない。
赤、橙、紫、青。
看板の光と、店先の灯りと、古いホログラムが混じり合い、通りを濡れたように照らしている。
道は思ったより広い。
両側には店。
呼び込みの女。
入口で客の札を確認する店員。
壁際に立つ用心棒。
酒の匂い。
甘い香料。
揚げ物の油の匂い。
そして、人の声。
笑い声。
誘う声。
値段を確認する声。
札を見せろと促す声。
けれど、無秩序ではなかった。
客は勝手に店へ入らない。
店員が札を見る。
女たちは通りへ出すぎない。
用心棒は、客と女の間に入れる位置に立っている。
笑っている女もいる。
けれど、その笑みは自由な笑みではなかった。
仕事の笑み。
客を見る目は、柔らかく見えて、どこか測っている。
札を見る。
服を見る。
酔い方を見る。
金払いの良さを探る。
ラヘルは、それを見た。
上層で教育された女たちとは違う。
だが、彼女たちもまた、見られるために整えられている。
ただし、それは家格のためではない。
店のため。
値段のため。
その夜を生き延びるため。
ユイは、隣で黙っていた。
何か言いたそうではない。
ただ、見ている。
キリカの墓を見た時とは違う沈黙だった。
死んだ者ではなく、生きている者たちがいる。
囲われ、守られ、管理されている女たち。
ユイは、その言葉をまだ持っていないのかもしれない。
ユウが歩き出した。
「行くぞ」
ARを肩に掛け、前に出る。
ユイは自分のSMGを抱え直して続く。
ラヘルも、ユウのSMGを持ってその後ろへ入った。
通りの女たちは、誰も声をかけてこなかった。
呼び込みの声は、客へ向けられる。
ユウたちへは向かない。
ただ、視線だけが一瞬ずつ触れた。
ARを持つユウ。
自前のSMGを持つユイ。
ユウのSMGを抱えるラヘル。
そして、三人が店側に止められず、警邏として通りを歩いていること。
誰も何も言わない。
言わないことにも、理由がある。
ラヘルはそれを感じた。
ここでは、余計な言葉は自分を傷つける。
警邏中のロストが連れている女に何かを言うことは、そのロストに喧嘩を売ることに近い。
三花街の女たちは、馬鹿ではない。
だから、口は閉じる。
けれど視線だけは、完全には隠せない。
ユイはまだ、その視線の意味までは掴んでいないようだった。
ラヘルは、自分の手の中にあるSMGの重さを意識する。
この武器が示しているもの。
ユウの管理下。
囲われているように見える立場。
守られているという表示。
それは、上層で守られていた時の印とはまるで違う。
家名ではない。
血筋でもない。
正式な護衛でもない。
この男に手を出すなら、この女にも手を出すな。
この街では、それで通じる。
背後で、門が重く閉まる音がした。
堀と壁の内側。
花街の灯りの中。
ユウが先頭を歩き、ユイとラヘルがその後ろをついていく。
三花街の内部警邏が、静かに始まった。




