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銀月のロスト  作者: taka
第13章 名乗れない名前

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初日の夜

 夕食の席に着いた時、ラヘルはまず、席順を見た。


 タチバナは、リビング全体を見渡せる位置に座っている。


 背中を壁に近づけ、入口と廊下の両方を視界に入れられる場所。


 サエはキッチンに近い席だった。


 食事の様子も、誰が何を必要としているかも見える位置。


 ただ座っているだけではなく、全体を見ている。


 レンジは少し崩した姿勢で椅子に腰かけている。


 軽い。


 だが、完全に気を抜いているわけではない。


 ユウは、廊下側に近い位置だった。


 入口に背を向けない。


 すぐ立てる。


 食事の席でさえ、そういう位置を選んでいる。


 ユイは、ラヘルの近くに座った。


 少しだけ、気にしているのが分かる。


 どう話しかければいいのか。


 何か手伝えることはないか。


 そんな迷いが、視線の端に出ていた。


 ラヘルは、自分が示された席へ座る。


 客人として上座に据えられたわけではない。


 かといって、隅へ追いやられたわけでもない。


 出入口からは少し離れている。


 誰かがすぐ手を伸ばせる距離にいる。


 外から見えず、逃げ道も塞ぎすぎていない。


 拘束ではない。


 安全配置。


 そう判断した。


 けれど、その判断自体がまた少し苦かった。


 上層の食卓なら、席には序列があった。


 家格。


 年齢。


 役割。


 客の立場。


 誰がどこへ座るかには意味があり、それを間違えないことも礼儀だった。


 ここにも意味はある。


 だが、それは礼儀の意味ではない。


 危険に対する意味だった。


「食べられる?」


 サエが聞いた。


 ラヘルは顔を上げる。


「はい。いただきます」


 そう答えてから、少しだけ手元を見た。


 皿の上には、温め直したスープ。


 硬めのパン。


 加工肉と豆を煮たもの。


 小皿には、酸味のある保存野菜が少し。


 盛り付けに華やかさはない。


 器も揃っていない。


 上層で使っていた食器とは、厚みも重さも違う。


 けれど、湯気が立っていた。


 温かい。


 そのことに、ラヘルの身体が先に反応した。


 空腹だったのだと、そこでようやく気づく。


「無理に全部食べなくていいわ」


 サエが言う。


「胃が驚くかもしれないから、ゆっくり」


「ありがとうございます」


 ラヘルはそう答え、匙を取った。


 音を立てないように。


 姿勢を崩さないように。


 急いでいるように見せないように。


 そう思って口へ運ぶ。


 スープは、少し塩気が強かった。


 肉の脂と、保存野菜の酸味が混じる。


 上品とは言えない。


 けれど、身体には必要な味だった。


 喉を通った瞬間、胃の奥がじんわりと温まる。


 ラヘルは、思ったより深く息を吐きそうになった。


 それを途中で抑える。


 崩れてはいけない。


 ここはまだ、自分の場所ではない。


 ユイが隣から小さく言う。


「熱くないですか?」


「大丈夫です」


「水、いりますか?」


「いただけますか」


「はい」


 ユイはすぐに立ち上がりかけた。


 だが、サエが先に手を伸ばし、水差しを寄せる。


「座ってていいわ、ユイ」


「あ、はい」


 ユイは少しだけ照れたように座り直す。


 ラヘルはその様子を見る。


 この家の中で、ユイは守られている。


 けれど、何もさせてもらえないわけではない。


 手伝おうとする。


 気にかけようとする。


 それを周囲が、危なくない範囲で受け止めている。


 その距離感は、ラヘルの知る使用人との関係とも、護衛との関係とも違っていた。


「口に合わなかったら言ってください」


 レンジが言った。


「サエさんの味付けに文句言える度胸があればですが」


「レンジ」


 サエの声が飛ぶ。


 レンジは肩をすくめた。


「冗談ですって」


「冗談に聞こえるくらいには言い方を選びなさい」


「はいはい」


 そのやり取りに、ユイが少しだけ笑う。


 タチバナは何も言わない。


 ただ、ラヘルの食べる速度を一度見た。


 ユウは、ほとんど会話に加わらず食べている。


 早い。


 だが、雑に流し込んでいるわけではない。


 周囲を見ながら、必要な分を淡々と口に運んでいる。


 ラヘルは、そこにもまた下層を見た。


 食卓を楽しむというより、食べられる時に食べる。


 身体を動かすために、必要なものを入れる。


 そういう食べ方だった。


 そして、それは少しだけ怖かった。


 自分の食事は、育ちの一部だった。


 礼儀の一部だった。


 誰と食べるか。


 どう口へ運ぶか。


 どの順で手をつけるか。


 そういうものすら、家の中では意味を持っていた。


 ここでは違う。


 食事は、まず生きるためのものだった。


 ラヘルは、もう一口スープを飲む。


 温かさが、身体の内側へ落ちていく。


 それは粗末で、けれどありがたいものだった。


 食事が終わる頃には、ラヘルの身体から少しだけ力が抜けていた。


 それを自覚した瞬間、また背筋を正す。


 ユウが、ちらりとこちらを見た。


 ラヘルは見返さない。


 見られたくなかった。


 だが、見られているのは分かった。


 食後、サエはラヘルから預かった端末をテーブルの上に置いた。


 ただし、ラヘルの前ではなく、自分の手元に近い位置だった。


「端末の件だけ、少し補足しておくわ」


 ラヘルは姿勢を整える。


「はい」


「キャッシュ自体は綺麗ね」


 その言葉に、ラヘルは少しだけ安堵しかけた。


「それなら――」


「逆」


 サエはすぐに遮る。


「綺麗すぎるのよ」


 ラヘルは言葉を止めた。


「綺麗すぎる、ですか」


「都市の正規網を通った、安全なキャッシュ。上や中層で使うなら信用になる。でも下層でそのまま使えば、どこから来た金かが見える」


 ラヘルは端末を見る。


 安全なキャッシュ。


 その認識は、ラヘルの中にもあった。


 不正な資金ではない。


 出所を問われても説明できる。


 都市の決済網に乗っている。


 だから安全。


 そう教えられてきた。


 だが、ここでは違う。


 サエは続ける。


「あなたを探している相手が、どこまで手を伸ばせるか分からない。だから、そのままでは使わない」


「では、使えないということですか」


「そのままではね」


 サエは少し考えるように画面を見る。


「小分けにして、下層で流通しているキャッシュと入れ替えることはできる。手数料は取られるし、全部を一度には無理。でも、使える形にはできるわ」


「入れ替える……」


「綺麗な金を、下で使える汚れ方にするってこと」


 ラヘルは黙った。


 上層では、綺麗であることが価値だった。


 出所が明確で、正規網に乗っていて、説明できる資金であること。


 けれどここでは、その綺麗さが目印になる。


 使うためには、わざわざ汚さなければならない。


 その事実が、少しだけ胸の奥に沈んだ。


「あなたの持っているものは、だいたい上等すぎる」


 サエが言う。


「そのままだと、全部が目印になるわ」


 ラヘルは、膝の上で手を重ねた。


「承知いたしました」


 声は崩さない。


「端末は、引き続きお預けします」


「必要な時は、私の前で使いなさい」


「はい」


 サエは端末を仕舞った。


 その瞬間、ラヘルはまた少しだけ、自分が軽くなったような気がした。


 軽くなったというより、削がれた。


 持っていたものが、一つずつ遠くなる。


 それでも、抵抗する言葉はなかった。


 正しいからだ。


 そして、正しいことを飲み込むのは、いつも少し苦い。


 レンジが、そこで少しだけ空気を変えるように息を吐いた。


「しかし」


 全員の視線が、なんとなくそちらへ向く。


 レンジは椅子の背に身体を預け、わざと軽い調子で言った。


「ユウの隣にお嬢様ですか」


 ラヘルの指が、ほんのわずかに止まる。


 お嬢様。


 その言い方には、からかいが混じっていた。


 悪意ではない。


 だが、軽い。


 ラヘルは反応を表に出さない。


 ユウは、まるで意味が分からないという顔でレンジを見た。


「何だよ」


「いや、隣の部屋イベントってやつですね?」


「意味が分からん」


「分からないでしょうね」


 レンジは肩を揺らした。


 ユイが一瞬、何か言いかける。


「ユウは、そういうのじゃ……」


 そこで言葉が止まった。


 そういうの、とは何か。


 自分でもうまく言えなかったのだろう。


 ユイの視線が、少しだけ揺れる。


 ラヘルは、それを見た。


 やはり、この少女はユウを庇う。


 そして、庇い方がまだ定まっていない。


 レンジはユイの反応を見て、少しだけ口元を緩めた。


 だが、そこを強く突つきはしなかった。


「で、ユウ」


「何だ」


「隣の金髪お嬢様、どうですか」


「どうって」


 ユウはラヘルを一瞥した。


 値踏みする視線ではなかった。


 興味を持った男の視線でもない。


 家名を測る目でもない。


 ただ、帽子。


 髪。


 顔色。


 座り方。


 立てるかどうか。


 その辺りを見ている目だった。


「外に出したら危ない」


 ユウは言った。


 レンジが少し黙る。


 それから、深く息を吐いた。


「そこですか」


「他に何がある」


「いえ、まあ……あるでしょう、いろいろと」


「ない」


 即答だった。


 ラヘルは、そのやり取りを聞いていた。


 不快ではあった。


 自分が話題にされている。


 しかも、まるで物の配置か護衛対象のように。


 上層の礼儀なら、本人の前で口にする話ではない。


 だが、同時に奇妙な感覚もあった。


 ユウは、自分に興味を示していない。


 家名にも。


 血筋にも。


 上層の価値にも。


 金髪にも。


 小柄な身体にも。


 ドレスにも。


 少なくとも、浮ついた興味はない。


 彼にとって今の自分は、外に出したら危ない相手。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 失礼だった。


 けれど、少しだけ安全にも思えた。


 ラヘルはその感覚を、すぐには理解できなかった。


 これまで、守りは価値と結びついていた。


 家名。


 血筋。


 婚姻。


 政治的価値。


 役割。


 あるいは給与。


 命令。


 契約。


 誰かが自分を守る時、その背後には必ず理由があった。


 なのに、ユウは理由を深く見ていない。


 価値も測っていない。


 ただ、危険だから危ないと言う。


 それは粗野で、乱暴で、あまりにも短い。


 だが、嘘ではなかった。


 レンジが面白そうにユウを見る。


「そう言うところですよ」


「何が」


「いえ、なんでもありません。ユイが苦労しますね」


「何でユイが出てくる」


「そこもですか」


 ユイの顔が、少しだけ赤くなった。


「レンジ」


 サエの声が飛ぶ。


 レンジは両手を上げる。


「はいはい、ここまでにします」


 空気が少しだけ緩む。


 けれどラヘルの中には、今のやり取りが残った。


 ユイはユウを庇う。


 レンジはそれを知っている。


 サエも止める位置を分かっている。


 ユウだけが、あまり分かっていないように見える。


 この家の中にある距離感。


 ラヘルはまた一つ、情報を得た。


 そして同時に、そこへ自分がどう入るべきかを考える。


 ユイの感情には気づき始めている。


 だが、遠慮してユウを避けることはできない。


 外で前に立つのが彼なら、頼る必要がある。


 危険を拾う目が彼にあるなら、その近くにいた方が生き残れる。


 ただし、踏み荒らすべきではない。


 無駄に敵を作る余裕もない。


 ラヘルは、その判断だけを静かに胸に置いた。


「今日はここまでにしましょう」


 サエが言った。


「ラヘルは寝なさい」


「ですが、まだ確認事項が」


「明日」


「……はい」


 返事はすぐに出た。


 だが、ほんの少しだけ遅れた。


 まだ話せる。


 まだ整理できる。


 まだ自分の価値を示せる。


 そう思う自分がいる。


 けれど、身体は別のことを言っていた。


 椅子から立ち上がる時、膝に一瞬だけ力が入らなかった。


 ラヘルはすぐに姿勢を戻す。


 ユウが見た。


 まただ。


 ラヘルは、その視線に気づく。


 悔しい。


 そう思うより先に、もう隠しきれていないのだと分かった。


「部屋まで、送ります」


 ユイが立ち上がった。


 案内はもう必要ない。


 部屋の場所は、ラヘルも分かっている。


 けれどユイは、少し心配そうにこちらを見ていた。


 一人で戻らせるのが、何となく不安なのだろう。


 ラヘルは、その不安を断らないことにした。


「ありがとうございます」


 サエが付け加える。


「何かあったら、廊下に出て呼びなさい。ユウの部屋は隣。私たちは下にいる」


「はい」


「勝手に外へは出ない」


「出ません」


 ラヘルは即答した。


 それを聞いて、ユウが短く言う。


「窓もないから出られないけどな」


「ユウ」


 ユイが小さく注意する。


 ラヘルは少しだけ目を伏せた。


 確かに窓はない。


 外へ出られない部屋。


 それを上層なら不自由と呼ぶかもしれない。


 でも今夜は違う。


 外から入れない部屋でもある。


 その違いを、ラヘルはようやく少しだけ理解した。


 二階へ上がる。


 廊下は静かだった。


 ユイが横に並ぶ。


 ラヘルはその半歩後ろを歩く。


 ユウは下に残った。


 だが、隣の部屋にいるのだと分かっている。


 部屋の前で、ユイが足を止めた。


「何かあったら、呼んでください。下にサエさんもいますし、隣はユウですから」


「ありがとうございます」


「あと、水、足りなかったら言ってください」


「はい」


 ユイはまだ何か言いたそうだった。


 けれど、結局それ以上は言わず、小さく笑った。


「おやすみなさい、ラヘル」


 その呼び方には、少しだけ迷いが残っていた。


 様をつけるべきか。


 さんをつけるべきか。


 けれど結局、名前だけになった。


 ラヘルは一瞬だけ目を細める。


「おやすみなさい、ユイさん」


 同じように返した。


 ユイの表情が、少し明るくなる。


 それから、ユイは廊下を戻っていった。


 ラヘルは部屋へ入る。


 扉を閉める。


 かちり、と音がした。


 その音を聞いた瞬間、身体から力が抜けそうになった。


 ラヘルは壁に手をつく。


 思っていたより、足に力が入っていなかった。


 誰も見ていない。


 それでも、崩れた姿勢のままでいることはできない。


 すぐに背筋を戻す。


 部屋の中は、静かだった。


 簡易ベッド。


 小さな台。


 水の入った容器。


 髪を結ぶ紐。


 たたまれたタオル。


 ドレスはない。


 銀月に預けた。


 端末もない。


 サエに預けた。


 自分のものと呼べるものが、驚くほど少ない。


 帽子を外す。


 薄い金髪が肩へ落ちる。


 乱れている。


 上層の部屋なら、誰かが整えた。


 道具も、鏡も、手順もあった。


 ここにはない。


 ラヘルは小さな台に帽子を置いた。


 その帽子は、今の自分にとって必要なものだった。


 外に出るなら、必ず被らなければならないもの。


 ドレスではなく。


 家名ではなく。


 端末でもなく。


 くすんだ帽子。


 それが今夜の自分を守るものの一つだった。


 隣の部屋から、小さな音がした。


 何かを置く音。


 足音。


 それから、静かになる。


 ユウの部屋だろう。


 ラヘルはそちらの壁を見る。


 粗野で無礼な少年。


 下層の人間。


 近づくべき相手ではないと、反射的に思ってしまう相手。


 けれど、外で顔を上げれば止めた。


 騒ぎを見れば引いた。


 足を止めれば戻した。


 髪が見えれば注意した。


 膝が揺れれば座れと言った。


 そして、自分には興味がない。


 その無関心が、失礼で。


 少しだけ、安全だった。


 ラヘルはベッドに腰を下ろす。


 寝るつもりは、まだなかった。


 状況を整理しなければならない。


 明日話す内容をまとめなければならない。


 何を伏せ、何を話し、何を確認するか。


 自分がどこまで価値を示せるか。


 考えるべきことは山ほどあった。


 けれど、身体はもう限界に近かった。


 温かい食事。


 シャワー。


 閉まる扉。


 外から見えない部屋。


 預けた端末。


 隣の気配。


 安心したわけではない。


 ただ、逃げる準備をしたまま眠れる場所が、今夜はここにあった。


 それを認めた瞬間、瞼が重くなる。


 ラヘルは横になった。


 背筋を伸ばしている必要は、もうなかった。


 誰も見ていない。


 けれど、それでも最初は姿勢を整えようとする。


 その途中で、力が抜けた。


 眠るつもりはなかった。


 けれど、目を閉じた次の瞬間には、ラヘルの意識は静かに沈んでいた。


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