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銀月のロスト  作者: taka
第13章 名乗れない名前

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一人では行けない

 シャワーを終えたあと、ラヘルは案内された部屋に入った。


 二階の端に近い部屋だった。


 扉を開けると、まず少しだけ埃の匂いがした。


 ただし、放置されていた部屋の匂いではない。


 荷物を急いで寄せ、床を拭き、使える形に整えた後の匂いだった。


 壁際には、移動させられた箱が重ねられている。


 古い布をかけられた機材。


 使っていない工具箱。


 何かの部品が入ったコンテナ。


 部屋の中央には簡易ベッドが置かれていた。


 その横に小さな台。


 空の棚。


 照明は白く、飾り気はない。


 上層の客室とは比べるまでもない。


 粗末。


 最初に浮かんだ言葉は、それだった。


 けれどラヘルは、その言葉をすぐに胸の奥へ押し込めた。


 粗末ではある。


 だが、扉がある。


 横になれる場所がある。


 外から見えない。


 窓もなく、侵入できそうな隙間も少ない。


 そして、廊下を挟んだすぐ隣に、ユウの部屋がある。


 それがどういう意味を持つのか、ラヘルにも分かる。


 安全のための配置。


 上層の作法ではなく、下層の現実に合わせた配置。


 ただ、それを理解しても、胸の奥の抵抗が消えるわけではなかった。


「急ごしらえだけど、今日はここを使って」


 サエが言った。


 ユウは部屋の奥で、最後の箱を壁際へ押し込んでいる。


 何も言わず、淡々と動いていた。


 レンジは下で車の確認をしているらしい。


 タチバナは別室でマスターから受け取った情報の確認をしている、とサエが言っていた。


 ユイは、ラヘルの少し後ろに立っている。


 シャワー室で見た白い髪は、もう帽子の下に収められていた。


 アジト内とはいえ、ラヘルの前ではまた被ることにしたらしい。


 その理由までは分からない。


 ただ、ラヘルが自分の金髪を隠したままでいることを、ユイは意識したのかもしれなかった。


「ありがとうございます」


 ラヘルはサエへ頭を下げた。


「十分です」


 そう言った。


 十分かどうかは、まだ分からない。


 けれど、そう言うべき場だと判断した。


 サエはその言葉をそのまま受け取らなかったようだった。


 少しだけ目を細め、部屋を見回す。


「足りないものはあるでしょうけど、今夜は最低限で我慢して」


「はい」


 ラヘルは頷いた。


 それから、部屋の中をもう一度確認する。


 寝具。


 台。


 棚。


 扉。


 照明。


 水回りはない。


 洗面用具もない。


 替えの下着も足りない。


 髪をまとめる道具も十分ではない。


 今渡された服は、あくまで緊急用のもの。


 生活を続けるには、いくつか足りない。


 ラヘルは頭の中で必要な物を並べた。


 洗面用具。


 替えの下着。


 髪をまとめるための紐かピン。


 最低限の身支度用品。


 できれば、自分で扱える簡易端末の周辺品。


 今の服に合わせた、もう一組の替え。


 状況を整える必要がある。


 そう考え、ラヘルは口を開いた。


「いくつか、必要なものがございます」


 サエが振り向く。


「そうでしょうね」


「明日、購入できる場所を教えていただけますか」


 部屋の空気が、一瞬止まった。


 ラヘルは、最初その意味が分からなかった。


 サエが黙る。


 ユイが少し目を見開く。


 奥で箱を寄せていたユウが、動きを止める。


 ラヘルは言葉を足した。


「洗面用具と、替えの下着、それから髪をまとめるものが必要です。可能であれば、今の服に合わせた予備も――」


「行くな」


 ユウの声が、途中で割り込んだ。


 短い。


 いつものように、説明を省いた声。


 ラヘルはユウを見る。


「ですが、必要なものです」


「だから一人で行くな」


「一人で、とは」


 言いかけて、ラヘルは気づいた。


 自分は当然のように、場所を聞けば自分で行けると思っていた。


 帽子を被る。


 服を替える。


 目立たないようにする。


 必要な物だけを買い、短時間で戻る。


 それが、最大限の警戒だと思っていた。


 サエが静かに言った。


「必要なものを揃えることと、あなたが外に出ることは別よ」


「……承知しております。ですが、場所と手順を教えていただければ」


「それで帰ってこられるなら苦労しない」


 ユウが言った。


 ラヘルの胸の奥が、少し硬くなる。


 まただ。


 この少年は、言葉を選ばない。


 こちらが何を考えたかを聞く前に、結論だけを投げる。


「私も、下層が危険であることは理解しております」


「理解してたら、一人で買いに行くって言わない」


 ユウは即答した。


 ラヘルは言葉に詰まる。


 失礼だと思った。


 強く思った。


 けれど、ユウの声に侮辱はなかった。


 ただ、事実として言っている。


 そのことが、余計に不快だった。


 サエが小さく息を吐く。


「ラヘル。品定めで済めば運がいい方よ」


 ラヘルはサエを見る。


「今のあなたが一人で外に出たら、買い物に行くんじゃない。攫われに行くの」


 攫われる。


 その言葉は、部屋の中でひどく重く響いた。


 ラヘルは反射的に背筋を伸ばした。


「そこまで、ですか」


 口にした瞬間、自分の声が少し硬いことに気づく。


 サエは表情を変えない。


「そこまでよ」


 ユウも続けた。


「戻ってこられない」


 あまりにも短い断言だった。


 ラヘルは返せなかった。


 知っているつもりだった。


 下層は危険。


 女は危険札になる。


 金髪も、所作も、服も、名前も危険。


 だから帽子を被り、服を替え、外では目立たないようにする。


 その程度の対策は考えていた。


 考えていたのに。


 周囲の反応は、それでは足りないと言っている。


 ユイが、少しだけ口を開いた。


「私も、一人では行きません」


 ラヘルはユイを見た。


 ユイは帽子の縁を軽く押さえている。


 声は大きくない。


 けれど、その言葉には迷いがなかった。


「ガレージストリートでも、ユウかサエさんが一緒です。銀月に行く時も、だいたい誰かと一緒です」


「あなたも……」


「はい」


 ユイは頷く。


「前は、そこまで分かっていませんでした。でも、今は……一人で行こうとは思いません」


 その表情が、少しだけ沈む。


 ラヘルはそこで、昨日のように残っている何かを感じた。


 ユイは何かを見たのだろう。


 聞いたのかもしれない。


 自分がまだ知らない、この家の中の別の出来事。


 その内容までは分からない。


 けれど、ユイですら、一人では外に出ないことを当然としている。


 ラヘルは、自分の認識がずれていることを少しだけ理解した。


「……認識が、少し甘かったようです」


 そう言った。


 ユウが、何とも言えない顔でラヘルを見る。


「少し?」


 サエが低く返した。


「だいぶよ」


 ユイは困ったように視線を落とした。


 ラヘルは、頬が熱くなるのを感じた。


 恥ではない。


 いや、恥かもしれない。


 ただ、それを表に出すわけにはいかなかった。


「失礼いたしました」


 ラヘルは頭を下げる。


「今後、外出の際は必ず確認を取ります」


「確認じゃなくて、許可」


 サエが言う。


「今のあなたは、まだこの街を歩けない。場所を知っていても、道順を覚えていても、歩き方が違う。視線も違う。立ち止まり方も違う。言葉遣いも違う」


 一つずつ、逃げ道を塞ぐような言葉だった。


「服は替えた。でも、あなた自身はまだ上のままよ」


 ラヘルは、その言葉を受け止めた。


 上のまま。


 自分の中に残っているもの。


 ドレスを脱いでも残るもの。


 帽子を被っても隠れないもの。


 歩き方。


 視線。


 言葉。


 反応。


 ラヘルは、それらを誇りとして教えられてきた。


 けれどここでは、危険札になる。


「……では、必要なものは、どうすればよろしいでしょうか」


 ようやく、それを聞いた。


 サエは少し頷く。


「明日、私が買ってくる。必要ならユウかレンジに持たせる。あなたが行く必要はない」


 ラヘルは一瞬、言葉を失った。


「ですが、自分のものです」


「だから?」


 サエの声は柔らかくない。


「自分のものだから、自分で選ばなきゃいけない段階じゃないの」


 ユウが箱から手を離し、部屋の入口側へ戻ってくる。


「今すぐいるのか」


 ラヘルはユウを見る。


「洗面用具は必要です。替えの下着も。髪をまとめるものも」


「洗面は借りろ。髪は紐で縛れ。替えは明日でいい」


「……下着は」


「今夜逃げる時に持ってくのか」


 あまりにも直接的な問いだった。


 ラヘルは一瞬、固まる。


 サエが眉間に指を当てた。


「言い方」


「必要か聞いただけだ」


 ユウは本当にそう思っている顔だった。


 ラヘルは、胸の奥でむっとした。


 けれど、同時に言葉の意味は理解できた。


 今夜逃げる可能性。


 それを前提にしている。


 ここは、生活を整える場所ではない。


 少なくとも今のラヘルにとっては。


 一晩、置かれる場所。


 必要なら逃げる場所。


 荷物を増やす段階ではない場所。


 サエが補足する。


「今のあなたは“住む”段階じゃないの。“逃げられる状態で一晩置く”段階。荷物を増やすのは、その後」


 ラヘルは静かに息を吸った。


 住む段階ではない。


 その言葉は、思っていたより深く刺さった。


 部屋を与えられた。


 ベッドがある。


 棚がある。


 シャワーも浴びた。


 だから、足りないものを揃えればいいと思った。


 でも違う。


 これは居場所ではない。


 まだ、避難の一時停止にすぎない。


「……承知いたしました」


 ラヘルは答えた。


 声は崩さなかった。


 けれど、その答えを出すまでに少し時間がかかった。


 サエはそれを見て、少しだけ声音を戻した。


「必要なものをリストにして。買うか、借りるか、代用するか、こっちで判断する」


「はい」


 ラヘルは頷く。


「支払いは、私がいたします」


 そこで、サエが顔を上げた。


「キャッシュはあるの?」


「はい」


 ラヘルは迷わず、自分の端末を取り出した。


 手の中に収まる薄型端末。


 逃げる中でも手放さなかったもの。


 小さな傷はついているが、筐体そのものは上等だった。


 下層で見る端末とは、質感からして違う。


 サエの目が、端末を見た瞬間に少しだけ変わる。


「見せて」


「はい」


 ラヘルは差し出した。


 サエは受け取ると、簡単な認証を求める。


 ラヘルが指先で操作する。


 画面が開く。


 サエは残高と設定を確認した。


 そして、黙った。


 その沈黙に、ラヘルはわずかに不安を覚える。


「……不足しておりますか」


「逆」


 サエは短く言った。


「多すぎる」


 ユウが首を傾げる。


「多いと駄目なのか」


「駄目ね」


 サエは端末の画面を閉じた。


「下層でこれをそのまま出したら、財布どころか金庫を首からぶら下げて歩いてるようなものよ。しかも足跡つきで」


「足跡」


 ラヘルが聞き返す。


「決済履歴、端末ID、認証規格。上の端末は便利だけど、便利な分だけ跡が残る。あなたを探している相手がどこまで手を伸ばせるか分からない以上、そのまま使うのは危ない」


 サエは端末を軽く持ち上げる。


「服は替えた。でも、持ち物がまだ上のままね」


 ラヘルは端末を見る。


 それは、今残っている数少ない所有物だった。


 自分のもの。


 家から持ち出せたもの。


 キャッシュが残っているもの。


 必要なものを買える手段。


 それすら、危険。


 ラヘルは、胸の中で何かが一段沈むのを感じた。


 ドレスを脱いだ。


 名前を止められた。


 髪を隠した。


 そして今、端末もそのまま使えないと言われている。


 自分はまだ、何も脱ぎ切れていない。


 そう思った。


 サエは少し考えるように端末を見た。


「別の端末を用意する。下層で使っても浮かないやつ。少額だけ移す」


「私の端末は、使えないのですか」


「使えるわよ」


 サエは端末を返しながら言った。


「あなたを探している相手に、ここにいますって教えたいなら」


 ラヘルは端末を受け取る。


 指先が強張り、強く筐体を握った。


「……承知いたしました」


 それ以外に、言葉がなかった。


 ユイが、僅かに心配そうにこちらを見ている。


「ラヘル」


 名前を呼ばれて、ラヘルは顔を上げた。


 ユイは何か言いたそうだった。


 けれど、言葉を探している。


 たぶん、慰めたいのだろう。


 でも、何を慰めればいいのか分からないのだろう。


 その不器用さが、少しだけ優しかった。


「必要なもの、私も一緒に考えます」


 ユイはようやくそう言った。


「サエさんに聞いたら、代わりになるものとか、教えてくれると思います」


 ラヘルは、少しだけ息を止めた。


 この少女は、そういう言い方をするのか。


 買えばいい、ではない。


 揃えればいい、でもない。


 代わりになるものを考える。


 それが、この家のやり方なのだろう。


 あるのが当たり前だった自分とは違う。


 ないなら、どうするか。


 買う前に、借りる。


 代える。


 減らす。


 持たない。


 逃げられる形を残す。


 ラヘルはまだ、それを自然には考えられない。


「ありがとうございます」


 ラヘルは丁寧に言った。


 ユイは遠慮がちに嬉しそうに頷く。


 その顔を見て、ラヘルは思う。


 この少女は、自分より下層の現実を知らないように見えた。


 守られていて、言葉にできず、危うさの扱いもまだ幼い。


 けれど、少なくとも一人で外に出てはいけないことは知っている。


 必要なものを、必ず買えばよいわけではないことも、少し知っている。


 ラヘルは、自分の甘さをようやく少しだけ理解した。


 少し。


 そう言えば、またサエに「だいぶよ」と返されるのだろう。


「では」


 ラヘルは姿勢を整えた。


「今夜必要なものだけ、教えてください。残りは、明日以降に判断を仰ぎます」


 サエは頷く。


「それでいいわ」


 ユウが部屋の入口に寄りかかる。


「今夜いるのは、寝る場所と逃げる時に持つものだけだ」


「……はい」


 ラヘルは答える。


 言い方はやはり雑だった。


 けれど、今度は最初ほど腹立たなかった。


 正しいからだ。


 それがまた、少々癪だった。


 サエはラヘルの端末を見ながら言う。


「端末は今日は使わない。通信も切る。必要なら私の方で隔離する」


「お預けするということですか」


「そう。嫌?」


 ラヘルは端末を見た。


 手放したくはない。


 だが、持っているだけで危険になるなら、選択肢は限られる。


「……いえ。お願いします」


 サエは僅かにだけ表情を緩めた。


「分かった。完全に取り上げるわけじゃない。必要な時は私の前で使うこと」


「はい」


 ラヘルは端末をサエへ渡した。


 指先から端末が離れる。


 ドレス。


 名前。


 髪。


 端末。


 一つずつ、自分を支えていたものが外されていく。


 けれど、それで裸になったわけではない。


 この部屋には扉がある。


 外から見えない。


 隣にユウの部屋がある。


 サエが端末を預かる。


 ユイが必要なものを一緒に考えると言った。


 自分が知っている形とは違う。


 だが、これも守るということなのかもしれない。


 ラヘルはまだ、そう思うことしかできなかった。


 まだ、身体では分かっていない。


 けれど、少なくとも一つは分かった。


 ここでは、必要なものがないことよりも、必要だからと外へ出ることの方が危ない。


 ラヘルは小さく息を吸う。


「ご迷惑をおかけします」


 それは、上層の礼儀としての言葉だった。


 けれど今度は、少しだけ本心も混じっていた。


 サエは端末をポケットに収める。


「迷惑かどうかは、明日以降に判断するわ」


 ユウがぼそりと言う。


「今日は寝ろ」


 ラヘルはユウを見る。


 粗野で、無礼で、下層の人間。


 それでも、また正しいことを言う。


 ラヘルは一瞬だけ目を伏せた。


「……承知いたしました」


 声は、先ほどより少しだけ小さかった。


 ユイが、棚の方へ歩く。


「とりあえず、タオルと、髪を結ぶ紐を持ってきます」


「ありがとうございます」


 ラヘルは答える。


 ユイは少しだけ笑った。


 それは、新しい友人に何かをしてあげられることを喜ぶような、危ういほど素直な笑みだった。


 ラヘルは、その笑みを見ながら思う。


 自分はまだ、この家のことを知らない。


 下層のことも知らない。


 守られる意味も、きっと上層で知っていたものとは違う。


 けれど今夜だけは、従うべきだ。


 外に出ず。


 荷物を増やさず。


 端末を使わず。


 この部屋で、眠る。

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