隠された髪
銀月からアジトまでの距離は、短かった。
それでもラヘルは、その短い道の中で三度止められた。
一度目は、裏口を出てすぐだった。
銀月の裏手は、表の落ち着いた空気とはまるで違う。
細い通路。
壁に這う配管。
足元に残る黒い水跡。
遠くから届く怒鳴り声と、金属がぶつかる音。
ラヘルは、無意識に顔を上げた。
どこを歩いているのか。
何が近くにあるのか。
誰がこちらを見ているのか。
確認しようとしただけだった。
だが、その前に、ユウの声が飛んだ。
「顔上げるな」
低く、短い声。
ラヘルは一瞬、足を止めかける。
次の瞬間、ユウの手が帽子のつばを軽く押し下げた。
強い力ではなかった。
けれど、許可を待つ手でもなかった。
「目立つ」
それだけ。
ラヘルの胸の奥に、反射的な硬さが生まれた。
無礼。
まず、そう思った。
彼女の髪に触れるに等しい行為だった。
帽子越しとはいえ、断りもなく顔の位置を変えられる。
上層の廊下では、あり得ない。
けれど、ラヘルはすぐに反論を飲み込んだ。
ユウは彼女を辱めようとしたのではない。
見せないために、押し下げた。
その程度のことは分かった。
二度目は、通りの向こうで揉め声がした時だった。
誰かが叫び、何かが倒れる音がした。
ラヘルは反射的にそちらへ視線を向ける。
直後、腕を引かれた。
「見るな」
ユウの声。
ラヘルの身体が半歩、ユウの側へ寄る。
「足止めるな」
言い方は相変わらず雑だった。
けれど、その瞬間、通路の向こうからこちらへ向いた視線が、すぐに逸れたのが分かった。
見ていたら、見返されていた。
止まっていたら、拾われていた。
それを理解して、ラヘルは何も言えなくなる。
三度目は、アジトのシャッターが見える少し手前だった。
道の端に、布をかぶった人影が座り込んでいた。
老人か。
怪我人か。
あるいは、ただの酔漢か。
ラヘルは、ほんのわずかに足を緩めた。
すると、また腕を引かれる。
今度は少し強かった。
「止まるな」
ラヘルは、ユウを見る。
「ですが――」
「人とは限らない」
言葉が、そこで途切れた。
人とは限らない。
その意味を、完全には理解できない。
けれど、問い返す余裕はなかった。
タチバナが先に進み、サエがユイを寄せ、レンジが周囲を見ている。
誰もその人影へ近づかない。
それが答えだった。
ラヘルは、唇を結ぶ。
下層の歩き方を、知らない。
その事実を、短い距離で三度突きつけられた。
ユウは粗野だった。
礼儀を知らない。
断りもない。
こちらを丁重に扱う気配もない。
けれど、三度とも間違っていなかった。
それが、ひどく腹立たしかった。
アジトのシャッターが開く。
中へ入った瞬間、外の空気が切れた。
油と金属の匂いはある。
床も壁も、上層の建物とは比べものにならないほど粗い。
照明も華やかではなく、必要な場所を照らすだけの白い光だ。
それでも、外とは違った。
見られていない。
まず、そう感じた。
窓がない。
外から内部を覗けない。
車両が隠され、扉が閉まると、通りのざわめきが一段遠くなる。
ラヘルは、ほんの少しだけ息を吐きそうになる。
だが、すぐに止めた。
まだ安全だと決めるには早い。
ここは彼らの場所だ。
自分の場所ではない。
タチバナは車庫からリビング側へ進みながら、短く言った。
「サエ」
「分かってる。二階の空き部屋を使うわ」
サエはすでに考えていたようだった。
「ユウ、隣の空き部屋。荷物を寄せるのを手伝って」
「隣?」
ユウが聞く。
「あなたの部屋の隣」
ユウは一瞬だけ眉を動かした。
「……ああ」
それだけ言って、階段へ向かう。
ラヘルは、その言葉を聞き逃さなかった。
ユウの部屋の隣。
一瞬、胸の奥に別の硬さが生まれる。
異性の部屋の隣。
しかも、先ほどから何度も自分を引き戻した、あの下層の少年の隣。
上層の感覚なら、配慮が必要な配置だった。
年頃の少女を置く場所としては、説明がいる。
けれど、ここでは意味が違うのだろう。
危険が来た時、最も早く動く者の近くに置く。
そういう配置。
ラヘルは理解する。
理解はするが、胸の奥の抵抗は消えない。
「ラヘル」
サエの声がする。
ラヘルは顔を上げた。
「はい」
「部屋の準備をしている間に、先に身体を流しなさい。外の匂いも落とした方がいい」
「承知いたしました」
サエはユイを見る。
「ユイ、シャワー室へ案内してあげて。タオルと着替えも」
「はい」
ユイはすぐに頷いた。
その返事は、少しだけ明るかった。
ラヘルは、そこに気づく。
警戒ではない。
むしろ、役目を与えられて少し安心したような声。
この少女は、ラヘルを敵とは見ていない。
少なくとも、今は。
「こちらです」
ユイが言う。
「ありがとうございます」
ラヘルは丁寧に礼を返した。
ユイは少しだけ瞬きをする。
それから、なぜか少し困ったように笑った。
「いえ、その……大丈夫です」
大丈夫。
何が大丈夫なのかは、少し曖昧だった。
けれど、悪い言葉ではなかった。
ユイに案内され、ラヘルは車庫から居住側へ入る。
リビング。
キッチン。
奥に廊下。
壁には配線が走り、ところどころ補修の跡がある。
上層の屋敷とはまるで違う。
だが、荒れた場所ではなかった。
使うものが置かれている。
掃除もされている。
生活の匂いがある。
下層に無理やり作った、小さな安全圏。
ラヘルはそう判断した。
「ここが、シャワー室です」
ユイが扉の前で止まる。
「タオルはこっちにあります。着替えは、サエが後で持ってきてくれると思います。あ、でも、今すぐ必要な分は……」
ユイは棚の中を探し始めた。
その動きは慣れている。
けれど、説明は少しぎこちない。
誰かを案内することに慣れていないのだろう。
ラヘルはそれを見ながら、静かに情報を拾う。
この少女は、この家の内側にいる。
物の場所を知っている。
帽子を脱げるほどには安全を許されている。
だが、人を導く側としてはまだ慣れていない。
守られている側。
けれど、完全な客ではない。
ユイは棚からタオルを出す。
その拍子に、ふと帽子へ手をやった。
アジトの中だからなのだろう。
何気ない動きだった。
外であれほど隠していたものを、ここでは当然のように外す。
帽子が取れる。
白い髪が、肩へ落ちた。
ラヘルの目が、ほんの一瞬だけ止まった。
白。
銀ではない。
老いでもない。
染めた色でもない。
光を受けて、柔らかく流れる白い髪。
上層であれば、それが何を意味し得るかを、ラヘルは知っていた。
遺伝子工学。
調整。
研究。
保護された血筋。
あるいは、表に出すべきではない個体。
少なくとも、下層で自然に守られるものではない。
だから隠していた。
ラヘルは一瞬で理解する。
この少女も、ただ守られているだけではない。
隠されている。
ユイはタオルを持ったまま、こちらを見る。
ラヘルの視線に気づいたのだろう。
少しだけ恥ずかしそうに、白い髪へ触れる。
「……外では、隠してます」
その声は、小さい。
言い訳のようでもあり、説明のようでもあった。
ラヘルはすぐに視線を整える。
「その方がよろしいと思います」
言ってから、少しだけ硬すぎたかもしれないと思った。
だがユイは、責められたとは受け取らなかったらしい。
小さく頷く。
「はい。最近、前より分かってきました」
最近。
ラヘルは、その言葉を内側で拾う。
この少女は、危険を最初から理解していたわけではない。
守られながら、少しずつ知っている。
「こちらでは、帽子を外されるのですね」
「はい。アジトの中では、大丈夫なので」
大丈夫。
またその言葉。
ユイにとって、この場所は髪を見せられる場所なのだ。
つまり、ここは本当に内側だ。
ラヘルは、まだ帽子を外さない。
自分の帽子の奥に押し込めた金髪を意識する。
さっきユウに雑に注意され、サエに直された位置。
ここなら外してよいのか。
判断はまだつかない。
シャワーを浴びるには外さなければならない。
だが、それは「許されている」ことと同じではない。
ユイは、ラヘルの手が帽子の縁で止まったのに気づいたらしい。
「あの、ここなら大丈夫だと思います」
少し迷ってから、そう言った。
「でも、外へ出る時は、絶対に隠した方がいいです」
その言い方は、思ったより真剣だった。
先ほどまでのぎこちなさとは違う。
その言葉だけは、どこか自分の経験に触れているようだった。
ラヘルは、ユイを見る。
白い髪を下ろした少女。
守られている側。
けれど、少しずつ守られる意味を知り始めている少女。
「ありがとうございます」
ラヘルは言った。
帽子は、まだ外さない。
その代わり、質問を一つ置いた。
「あの方は」
ユイが顔を上げる。
「ユウ様は、いつもあのような言い方をなさるのですか」
ユイは一瞬、きょとんとした。
それから、少しだけ困った顔になる。
「……たぶん、いつもです」
その答えに、ラヘルは一拍置いた。
「そうですか」
予想はしていた。
だが、実際に近しい相手からそう言われると、やはり少し納得してしまう。
ユイは慌てたように続ける。
「でも、悪い人じゃないです」
その言葉は早かった。
少し、早すぎるくらいだった。
ラヘルは内心でそれを記録する。
この少女は、あの少年を庇う。
「それは、分かります」
ラヘルは答えた。
半分は本心だった。
もう半分は、ユイの警戒を生まないための言葉だった。
「銀月からこちらへ来るまでに、何度も止められました」
「すみません」
なぜかユイが謝る。
ラヘルは少しだけ目を細めた。
「ユイ様が謝ることではございません」
「でも、ユウ、言い方が短いので」
「短い、というより……」
無礼です。
そう言いかけて、やめる。
それはユイに言うべき言葉ではない。
「率直な方ですね」
言葉を選ぶ。
ユイは少しだけ考えてから、頷いた。
「はい。危ない時は、特に」
「危ない時」
「説明より先に動きます」
ユイの声が、少しだけ柔らかくなる。
「だから、最初はびっくりするんですけど……でも、だいたい正しいです」
ラヘルは黙って聞く。
やはり、そうなのだ。
あの少年は、礼を知らない。
丁重さもない。
下層の荒い人間で、ラヘルが本来近づく相手ではない。
けれど、危険を見る。
そして、先に動く。
「先ほども、間違ってはいませんでした」
ラヘルは言った。
ユイの表情が、少しだけ緩む。
その反応も、ラヘルは見逃さなかった。
この少女は、あの少年が正しく見られることを喜ぶ。
友人。
あるいは、それ以上になる前の何か。
ラヘルは、その可能性を胸の内に置く。
だからといって、遠慮するつもりはなかった。
あの少年に頼る必要があるなら、頼る。
外で前に立つのが彼なら、その背に入る。
ユイの感情に配慮して距離を取るほど、ラヘルには余裕がない。
遠慮して死ぬわけにはいかない。
ただし、無駄に刺激する必要もない。
ラヘルは、会話の角度を変えた。
「皆様は、長くご一緒なのですか」
ユイはタオルを棚の上に置きながら答える。
「父……タチバナとサエとレンジは、前からです。私は……ずっと父と一緒に」
「タチバナ様は、お父様なのですね」
「はい」
父。
やはり。
ラヘルは内心で頷く。
タチバナがユイを守る理由。
サエがユイを気にかける理由。
配置の中心にユイが含まれる理由。
それが一つ繋がる。
「ユウ様も、最初からこちらに?」
ユイは少しだけ首を振った。
「ユウは、後からです」
「後から」
「はい。父に助けられたことがあって……でも、そのまま一緒にいたわけじゃなくて」
そこでユイは少しだけ言葉を探す。
「下層で、自分で生きていて。それから、ロストとしてここに来たんです」
ラヘルはその説明を受け取る。
下層で生きていた。
後から自分の意思で来た。
血縁ではない。
だが、ファミリーの中にいる。
タチバナの庇護下にあるのではなく、選んでここへ来た人間。
「そうですか」
ラヘルは短く返した。
ユイは少しだけ不安そうにこちらを見る。
「ユウは、少し言い方が怖い時もありますけど、本当に危ない時は……ちゃんと守ってくれます」
その言葉に、ラヘルは一瞬だけ返事を遅らせた。
守ってくれます。
迷いのない言い方だった。
ユイは、自分がそうされていることを知っている。
ただ、それをどういう意味で受け取っているのかは、まだ不安定に見える。
ラヘルは、ユイの白い髪を見る。
帽子を外し、アジトの中でだけ見せている髪。
この少女も、隠されてきた。
守られてきた。
そして今、その意味を少しずつ知っている。
ラヘルは、自分の胸の内で評価を修正する。
ユイは論外ではない。
守る側ではない。
生存上の柱にもならない。
けれど、この家の内側へ入るには、無視してよい相手ではない。
そして、おそらく敵に回してはいけない相手でもある。
何より。
ユイの声には、警戒よりも期待が混じっていた。
ラヘルに対する期待。
新しい誰か。
同じように髪を隠す少女。
近い年頃の相手。
友達になれるかもしれない。
たぶん、そう思っている。
ラヘルは、それに気づいた。
その期待を利用するべきか。
壊さないようにするべきか。
答えは早かった。
壊さない方がいい。
少なくとも、今は。
「ユイ様」
「はい」
「ご案内、ありがとうございます」
ラヘルは丁寧に頭を下げた。
「分からないことばかりですので、助かりました」
ユイの顔が、少しだけ明るくなる。
「いえ。私も、分からないことは多いですけど……ここなら、聞けばサエが教えてくれます。ユウも、言い方は短いですけど、教えてくれます」
「では、私もそういたします」
「はい」
ユイは頷いた。
その素直な返事に、ラヘルは少しだけ胸の奥が緩むのを感じた。
打算だけではなかった。
白い髪を見たからかもしれない。
自分の金髪を隠す帽子の重みを、まだ感じていたからかもしれない。
あるいは、この少女の期待があまりに真っ直ぐだったからかもしれない。
ラヘルは、帽子へ手をかけた。
今度は、外す。
押し込めていた薄い金髪が、少し乱れて肩へ落ちる。
鏡はない。
けれど、乱れていることは分かった。
ラヘルは、すぐに整えようとする。
ユイが棚から櫛を取り出しかけて、少し止まる。
「使いますか?」
控えめな問い。
ラヘルは一瞬だけ迷った。
自分の髪に触れる道具。
知らない場所のもの。
本来なら、簡単には受け取らない。
けれど、今は違う。
「お借りしてもよろしいでしょうか」
「はい」
ユイは少し嬉しそうに櫛を差し出した。
ラヘルはそれを受け取る。
友人。
その言葉が、頭のどこかをかすめる。
今の自分に許されるものかは分からない。
友人を作る余裕があるのかも分からない。
生き残ることが先。
守られる場所を確保することが先。
この家での立ち位置を間違えないことが先。
それでも、目の前の少女の期待を、すぐに切り捨てる気にはなれなかった。
ラヘルは櫛を手に、シャワー室の扉の前へ立つ。
「すぐに済ませます」
「急がなくて大丈夫です」
ユイは言った。
「サエが、たぶん部屋の準備をしてくれてますから」
部屋。
ユウの隣の部屋。
ラヘルはその言葉を受け止める。
「ありがとうございます」
もう一度、礼をする。
それから、シャワー室へ入る。
扉を閉める前に、ユイが少しだけこちらを見ていた。
白い髪を下ろしたまま。
少し不安そうに。
でも、どこか期待するように。
ラヘルは、その視線に気づいた。
そして、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
作った笑みではない。
けれど、完全に自然な笑みでもない。
その中間。
今の自分に出せる、最も壊れにくい形。
「また、後ほど」
「はい」
ユイの返事は、少しだけ弾んでいた。
ラヘルはシャワー室の扉を閉める。
薄い金髪が肩に落ちている。
下層の服は、まだ肌に馴染まない。
指先には、帽子の縁を押さえていた感触が残っている。
外では、ユウが自分の隣の部屋を片づけているのだろう。
サエが指示を出し、タチバナが配置を決め、レンジが必要なら手を貸す。
ユイは、扉の向こうでまだ少しだけ待っているかもしれない。
ラヘルは、目を閉じた。
ここが安全かどうかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、ここには隠された髪を見せられる少女がいる。




