名乗れない名前
銀月の中は、いつも通り静かだった。
静か、と言っても音がないわけではない。
グラスが置かれる音。
低く交わされるロストたちの会話。
厨房側から微かに届く調理の音。
換気の奥で低く回る機械音。
それらが、店の空気を壊さない程度に重なっている。
ロストパラダイスのような喧騒ではない。
ガレージストリートの表通りのような生活音でもない。
ここには、騒ぎすぎないための秩序があった。
ユイは、いつもの席に座っていた。
タチバナは壁側。
サエは少し斜め。
レンジは椅子に浅く腰かけ、いつものように軽い姿勢を取っている。
ユウは入口側に近い席で、店内と扉の両方を見られる位置にいた。
それも、いつもの配置だった。
けれどユイの中だけは、少し違っていた。
昨日見た石積みの場所が、まだ消えていない。
瓦礫をどけて作られた狭い広間。
数えるほどしかない石積み。
崩れたまま放置されていたもの。
キリカの石積みの前に置かれた、小さな花。
ユウの部屋に置いた白いテーブルも、頭のどこかに残っている。
青いいるかの置物。
白い天板。
そこに置いたカップ。
それらは確かに、少し前ならもっと素直に嬉しかったはずのものだった。
ユイは、自分の帽子の縁へ軽く触れる。
その下に隠している髪を意識する。
白い髪。
長い髪。
守られてきた証であり、下層では危険札になるもの。
その意味が、以前より少しだけ重くなっていた。
「ユイ」
サエの声がした。
ユイは顔を上げる。
「はい」
「疲れてる?」
「……少しだけです」
「無理して話さなくていいわよ」
サエはそれ以上、聞かなかった。
その距離の取り方が、少しだけありがたかった。
レンジが何か言いかけて、ちらりとサエを見る。
それから、口を閉じる。
ユイはその小さな動きに気づいた。
レンジも、昨日のことを茶化さない。
少なくとも、今は。
その時、カウンターの奥からマスターが歩いてきた。
いつもの柔和な表情。
丁寧な足取り。
だが、そのまま注文を取りに来たわけではないことは、近づいてくる途中で分かった。
マスターは、タチバナの隣で足を止める。
「タチバナさん」
声は低く、穏やかだった。
「少し、お時間をいただけますか」
タチバナはグラスから手を離した。
「仕事か」
「仕事、というよりは……ご相談です」
その言い方に、サエの目が少しだけ細くなる。
レンジも、背もたれに預けていた身体をわずかに起こした。
マスターは続ける。
「できれば、皆様で奥へ」
タチバナは一拍だけ黙った。
客席で話せない内容。
タチバナ一人ではなく、ファミリー全員を呼ぶ内容。
軽い話ではない。
「分かった」
タチバナが立ち上がる。
サエもすぐに続いた。
レンジは「はいよ」と言いかけて、やめる。
ユウは黙って立つ。
ユイも、少し遅れて席を立った。
マスターに案内され、奥の個室へ入る。
銀月の個室は、必要以上に飾られていない。
テーブル。
椅子。
注文用の端末。
壁に埋め込まれた小さなモニター。
外の音は少し遠ざかり、店内にいるはずなのに、空気が一段閉じる。
全員が席に着くと、マスターは扉を閉めた。
それから、従業員用の通路側へ目を向ける。
「お連れしてください」
短い指示だった。
少し間があった。
通路の奥から、足音が近づいてくる。
一人ではない。
従業員らしい足音が一つ。
それより軽い足音が、もう一つ。
ユイは無意識に姿勢を正した。
ユウは入口ではなく、従業員用通路の方へ視線を向けている。
タチバナは黙っていた。
サエも同じだった。
扉が静かに開いた。
最初に入ってきたのは、銀月の女性従業員だった。
その後ろに、一人の少女がいた。
ユイは、息を止めた。
下層では、まず見ない色だった。
薄い金髪。
光の加減によっては、プラチナにも見える。
銀月の落ち着いた照明の下でも、その髪だけが奇妙に浮いて見えた。
染めた色ではない。
作った派手さでもない。
元からそうであることが、なぜか分かる色だった。
少女は小柄だった。
ユイよりもさらに小さく見える。
華奢で、顔色は悪い。
唇は乾いていて、目元にも疲れが滲んでいる。
けれど、背筋は折れていなかった。
服は、ドレスだった。
下層の服ではない。
ロストの実用服でもない。
花街の女たちが着る、見せるための服とも違う。
重厚なドレスだった。
薄い飾りを重ねたものではない。
布地そのものに厚みがあり、襟元や袖口には細かな刺繍が入っている。
裾は埃を吸い、ところどころ擦り切れていた。
装飾の一部も外れ、布には汚れがついている。
それでも、元が粗末な服でないことは一目で分かった。
下層で身を守るための服ではない。
隠すための服でもない。
見られる場所で、家の格を崩さないための服。
ユイは、自分の服を思った。
帽子。
髪を隠すための服。
身体の線を拾わない、ゆったりした服。
自分の服は、隠すためにある。
目の前の少女のドレスは、隠すためのものではなかった。
だからこそ、危なかった。
少女の指先が、ほんのわずかに震えた。
ユイは、それを見た。
けれど次の瞬間、少女は自分の手をそっと握る。
震えを隠すように、指を重ねる。
そして、何事もなかったかのように一歩前へ出た。
スカートの裾を軽く持ち上げる。
浅く、けれど崩れない礼。
カーテシー。
ユイはその言葉を、あとから思い出した。
少女は顔を上げる。
怯えていないように見えた。
少なくとも、そう見えるように立っていた。
怖くないわけではない。
さっきの指先が、それを教えていた。
でも、この子は怖さをそのまま出さない。
出さないように立つことを、知っている。
少女は、掠れた声で言った。
「ラヘル・フォン――」
「ラヘル様」
マスターの声が、静かに割って入った。
強くはない。
けれど、確かに止める声だった。
「ここでは、ラヘルで十分です」
少女――ラヘルは、一瞬だけ口を閉じた。
それから、すぐに浅く頷く。
「……失礼いたしました」
その声にも、乱れは少なかった。
ユイは、名前の意味を知らない。
ラヘル。
フォン。
その後に続くはずだった何か。
それがどれほど危険なものなのか、分からない。
けれど、タチバナの目が変わったのは分かった。
大きな反応ではない。
ただ、ほんの少し目が細くなった。
椅子に座る角度がわずかに変わり、視線がラヘルからマスターへ移る。
サエの指も止まっていた。
カップの縁に触れていた指先が、そのまま動かない。
レンジは何か言いかけた。
たぶん、いつもの軽口だった。
だが、タチバナの目と、サエの止まった指を見て、そのまま口を閉じる。
椅子の背にもたれていた身体を、少しだけ起こした。
レンジが茶化さない。
それだけで、個室の空気はさらに重くなった。
ユウには、名前の意味までは分からなかったのだろう。
ユイにも、それは分かった。
けれどユウの視線は、ラヘルの髪と、ドレスと、細い手首と、立ち方を見ていた。
名前ではない。
外に出したら狙われるものを見ている。
その見方を、ユイは今なら少しだけ分かる。
金髪。
小柄な身体。
汚れていても分かる上等なドレス。
弱っているのに、姿勢を崩さない所作。
下層では、どれも危険札になる。
ユウはたぶん、上層という言葉の意味を、タチバナやサエほど知らない。
それでも、あの少女をそのまま外へ出せないことは分かっている。
マスターは、静かに口を開いた。
「ご紹介いたします。こちらはラヘル様です」
それ以上の名前は出さない。
「事情があり、私の知人から預かりました」
タチバナは黙っている。
「ですが、銀月で長く抱えるには目立ちすぎます」
「……だろうな」
タチバナが低く言った。
「他に任せられるファミリーがありません」
マスターの声に、飾りはなかった。
「ですので、タチバナさんにお願いしたいのです」
空気が沈む。
依頼というより、保護案件。
それも、ただの保護ではない。
ユイにも、それだけは分かった。
ラヘルはその場で、何も言わなかった。
ただ、立っている。
疲れているはずだった。
座りたいはずだった。
怖いはずだった。
けれど、崩れない。
サエが静かに聞く。
「表は通していないのね」
「はい。従業員用の通路から」
「正解ね」
サエの言葉は短い。
ラヘルの指が、もう一度だけ重なった。
ユイはそれを見てしまう。
この子は、危険を理解している。
少なくとも、自分がどう見られるかを知っている。
怖いことも、それを見せてはいけないことも、今どう振る舞うべきかも。
ユイは、自分の胸の中が少しだけざわつくのを感じた。
ただ、目の前の少女は、自分がようやく輪郭を掴み始めたものを、最初から知っているように見えた。
守られること。
隠されること。
見られること。
名乗ること。
それら全部に意味があると、ラヘルは知っている。
マスターは女性従業員へ目配せした。
従業員が、小さな包みをテーブルの端へ置く。
畳まれた服と、帽子だった。
くすんだ色の厚手の上着。
身体の線を拾わないズボン。
髪を押し込めるための、深い帽子。
ユイが普段使っているものに、少し似ていた。
「まずは、こちらへ着替えていただきます」
マスターが言う。
「着替えは用意してあります。ですが、その前に一度、この姿を見ていただく必要がありました」
タチバナが短く返す。
「危険度を見せるためか」
「はい」
ラヘルは、畳まれた服と帽子を見る。
ほんの一瞬だけ、手が止まった。
汚れていても、裂けていても、今のドレスは彼女が着てきた世界のものだった。
家の中で、礼を失わずに立つための服。
自分が何者であったかを、辛うじて残しているもの。
それを脱ぐ。
その意味を、ラヘルは理解したのだろう。
けれど、止まったのは一瞬だけだった。
彼女は小さく息を吸い、差し出された服へ手を伸ばす。
「承知いたしました」
声はかすれていた。
それでも、言葉は崩れない。
マスターが、少しだけ表情を柔らかくした。
「ドレスはこちらでお預かりします」
ラヘルの手が、またほんの少し止まる。
「処分はいたしません。お好きなタイミングで、取りにいらしていただいて構いません」
ラヘルはマスターを見る。
その目に、初めて小さな揺れが見えた気がした。
すぐに消える。
彼女は、深くはないが丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その一言だけは、少しだけ細かった。
ユイは、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
帽子や服を渡されること。
隠すための服に着替えること。
ユイにとって、それはいつも用意されていたものだった。
父が整え、サエが選び、当たり前のように身につけていたもの。
けれどラヘルは今、自分の世界の服を脱いで、下層に紛れるための服へ変わろうとしている。
その一瞬の停止が、ユイには重く見えた。
ラヘルはもう一度だけ、汚れたドレスの裾に視線を落とした。
けれど次の瞬間には、顔を上げていた。
「承知いたしました」
同じ言葉を、もう一度。
今度は少しだけ、声が整っていた。
女性従業員が従業員用の通路を示す。
ラヘルは浅く礼をして、そちらへ歩き出した。
足取りは弱い。
それでも、姿勢は崩さない。
ユイは、その背中を見ていた。
薄い金髪。
汚れた重いドレス。
震えを隠した指。
名乗れなかった名前。
そして、隠すために差し出された服と帽子。
ラヘルはもう一度だけ立ち止まりそうになった。
けれど止まらなかった。
従業員用の通路の奥へ、静かに消えていく。
扉が閉まる。
個室には、しばらく誰も言葉を出さなかった。




