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銀月のロスト  作者: taka
第12章 石積みの墓

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小さなテーブル

 戻ると、野良犬の子供たちはまだ同じ場所にいた。


 鉄パイプの子は、壁際に立ったまま路地の奥を見ている。


 サビは石袋を足元へ置き、何か拾った部品をいじっていた。


 割れ瓶の子は、廃材の陰から表側の気配を見ている。


 一番小さい子だけが、ユウたちに気づくとすぐ顔を上げた。


「戻った」


 その声に、他の子たちもこちらを見る。


 ユウは短く頷いた。


「しばらく裏へ入るな」


「分かってるって」


 鉄パイプの子が答える。


「今日いっぱいは境目も見るだけにしろ」


「飯は?」


「表で回せ。盗るなら店から離れてからにしろ」


「怒られねえ?」


「捕まるよりマシだろ」


「それはそう」


 会話は雑だった。


 けれど、そこには妙な実感がある。


 ユイは黙って聞いていた。


 さっき見た石積みの場所が、まだ胸の奥に残っている。


 それなのに、目の前の子供たちは、もう次の飯の話をしている。


 重い出来事があっても、腹は減る。


 危険があっても、今日を越えなければならない。


 それがこの場所なのだと、少しずつ分かってきた。


 一番小さい子が、ユイを見上げた。


「ユイ姉ちゃん、また来る?」


 急な問いだった。


 ユイは少しだけ言葉に迷う。


「……分かりません」


「なんだよ」


「でも、また会ったら……その時は」


 何と言えばいいのか分からなかった。


 よろしくお願いします、では少し違う。


 気をつけてください、も違う気がする。


 元気でいてください、はこの場所では軽く聞こえそうだった。


 ユイが言葉を探していると、ユウが横から言った。


「長生きしろ」


 子供たちが一瞬黙る。


 それから、サビが鼻で笑った。


「兄ちゃんに言われると変な感じだな」


「変じゃねえよ」


 小さい子が胸を張る。


「俺、長生きするし」


「なら裏に出るな」


 ユウが返す。


「それは無理」


「じゃあ死ぬな」


「分かった」


 軽い返事だった。


 けれど、たぶんそれで十分なのだろう。


 ユウはそれ以上言わず、表通りの方へ歩き出した。


 ユイも、子供たちへ小さく頭を下げてから、その後を追う。


 背後で、小さい子が声を上げた。


「ユイ姉ちゃん、帽子取るなよ!」


 ユイは思わず足を止めそうになった。


 けれど、振り返らなかった。


 帽子の縁に指を添えるだけにした。


「……はい」


 小さく答える。


 届いたかどうかは分からない。


 でも、背後で子供たちが笑う声がした。


 表通りへ戻ると、ガレージストリートは変わらず動いていた。


 飯屋の前では、鉄板に油が跳ねる音がする。


 金物屋の婆さんが、誰かと値段で揉めている。


 修理処の奥からは、金属を叩く硬い音が聞こえた。


 行き交う人々は、先ほど裏でゴブリンが出たことを知っているのかいないのか、それぞれの用事を抱えて歩いている。


 何もなかったわけではない。


 けれど、何かがあっても、通りは止まらない。


 ユイはその音を聞きながら、少しだけ足を遅らせた。


 さっきまでは、ここを生活の通りとして見ていた。


 雑貨屋があり、飯屋があり、修理処があり、人が暮らしている場所。


 危ないけれど、ユウと一緒なら歩ける場所。


 でも今は、その通りのすぐ裏に、瓦礫を片づけて作られた石積みの場所があることを知っている。


 そこに、名前も書かれないまま、誰かに覚えられた死だけが少し残っていることを知ってしまった。


 ユウは振り返らない。


 けれど、歩幅は少しだけ緩い。


 ユイが遅れていることには気づいているのだろう。


「行くぞ」


「はい」


 ユイは小さく返事をして、足を早めた。


 本来の目的地は、修理処だった。


 ウェイタンには、ちょうどいいテーブルがなかった。


 雑貨や小物は多かったが、ユウの部屋に置けるような小さな台は、形が悪いか、大きすぎるか、脚が頼りなかった。


 だから修理処へ向かっていた。


 その途中で、ローブを着た罠を見つけた。


 ゴブリンに追われた。


 野良犬に会った。


 キリカの話を聞いた。


 石を積んだ場所を見た。


 それでも、目的はまだ残っている。


 ユウは修理処の入口で足を止めた。


 店の中は、相変わらず物で埋まっていた。


 壊れた工具。


 古い椅子。


 直しかけのランプ。


 動くのか分からない小型機械。


 用途の分からない金属部品。


 その全部が、棚や床や壁際へ積まれている。


 奥で、年齢の分かりにくい老人が顔を上げた。


 片目の周りに古いサイバネの縁が見える。


 指先も、人のものというより工具に近い硬さがあった。


「何だ」


 声はしわがれている。


 ユウが答える。


「小さいテーブル」


「折り畳みか」


「邪魔にならないやつ」


「なら右の奥」


 老人はそれだけ言って、また手元の部品に目を戻した。


 ユイは促される前に、店の奥へ視線を向ける。


 右側の棚の陰に、いくつかの小さな家具が立てかけられていた。


 椅子。


 古い踏み台。


 金属脚の簡易台。


 そして、その中に一つ、木製の折り畳みテーブルがあった。


 白かった。


 ユイは、思わず足を止める。


 木製の小さな折り畳みテーブル。


 天板は広くない。


 カップを二つ置いて、小皿を一つ置けば、もうほとんど埋まるくらい。


 脚も細く、ところどころに傷がある。


 けれど、表面には白いペンキが塗られていた。


 新品のように綺麗ではない。


 刷毛の跡も残っている。


 角の一部は、下の木目が少し見えている。


 それでも、下層の中古品にしては妙に明るく見えた。


 ユイは、それを見た瞬間だけ、顔を上げた。


「これ……」


 声に、少しだけ昨日の続きのような響きが戻る。


 飲み物を置ける。


 小皿も置ける。


 ユウの部屋に、ちゃんとした置き場所ができる。


 昨夜、自分が言ったこと。


 テーブルが必要だと言ったこと。


 ユウが渋々ながらも、今度見ると言ってくれたこと。


 その全部が、一瞬だけ胸の中に戻ってきた。


 これがいいです。


 そう言おうとした。


 けれど、次の言葉が出なかった。


 白い天板の上に、さっきの花が重なった。


 瓦礫の灰色。


 崩れた石積み。


 ユウが戻した小さな石。


 その前に置かれた、くすんだ色の花。


 置く、ということ。


 ユウの部屋に、自分が選んだテーブルを置くこと。


 キリカの石積みの前に、ユウが花を置くこと。


 まったく違うはずなのに、同じ動きのように胸の奥で重なってしまった。


 ユイは、言葉を失う。


 嬉しい。


 それは嘘ではない。


 昨日なら、きっともっと素直に嬉しかった。


 少しだけ誇らしげに、これがいいです、と言えたはずだった。


 でも今は、白いテーブルを見ても、ただ明るいだけには見えなかった。


 ユウが横に立つ。


「それか?」


 ユイは少し遅れて頷いた。


「……はい。たぶん、これが……いいと思います」


 声が小さくなる。


 ユウは、ユイの横顔を見た。


 何を思い出したのかまでは分からない。


 ただ、さっき一瞬だけ戻った表情が、すぐに消えたことは分かったのだろう。


 ユウは何も聞かなかった。


 慰めもしない。


 理由も尋ねない。


 大丈夫か、とも言わない。


 ただ、老人の方を向いた。


「それで」


 老人は白いテーブルをちらりと見る。


「脚は直してある。天板は塗ったばかりじゃねえ。乾いてる。ガタは少ない」


「いくら」


 老人が値段を言う。


 ユウは少しだけ眉を動かした。


「高い」


「塗った」


「だから高いのか」


「白は汚れが目立つ。目立つようにしてある。汚ねえ部屋に置いたら分かる」


「余計だろ」


 老人は鼻を鳴らす。


「嫌なら汚いの買え」


 ユウは少し黙った。


 それから、腰の端末を取り出す。


「これで」


 老人がカウンター脇の古い決済端末を叩く。


 一度目は反応せず、二度目でようやくくすんだ画面に金額が浮かんだ。


 ユウが端末を近づけると、短い電子音が鳴った。


「受けた」


 老人はそれだけ言って、白いテーブルへ顎をしゃくる。


 ユウは白い折り畳みテーブルを手に取った。


 軽い。


 片手で持てる。


 脚の金具が少し鳴ったが、すぐに収まる。


 ユイはその音を聞きながら、少しだけ胸元を押さえた。


 自分が選びかけたものを、ユウはそのまま買った。


 理由を聞かずに。


 そのことが、少しだけ救いのようで、同時に少し苦しかった。


 アジトへ戻る道は、短く感じた。


 ユウはいつも通り周囲を見ていた。


 表通りに戻ってからも、完全には気を抜かない。


 ユイはその横を歩きながら、白いテーブルを持つユウの手を見ていた。


 何度も見慣れた手だった。


 自分の腕を掴んだ手。


 ピアースワームを踏み潰した時に身体を支えていた手。


 石を拾い、土を払って、元の場所へ戻した手。


 花を置いた手。


 その手が今、白いテーブルを持っている。


 それだけなのに、ユイには少し不思議に見えた。


 アジトへ戻ると、サエがリビング側から顔を出した。


「遅かったわね」


 いつもの声だった。


 けれど、すぐにユイの顔を見る。


 それからユウのジャケットの裂けた端を見た。


「……何があったの」


 ユウは白いテーブルを一度壁際へ置いた。


「ゴブリンが出た」


 サエの目が細くなる。


「ユイは」


「無事」


「怪我は」


「ない」


「ユウは」


「ない」


「ジャケット裂けてるけど」


「かすっただけだ」


 サエはユウを見たまま、少しだけ黙る。


 次に、ユイを見る。


 ユイは何か言おうとした。


 でも、言葉が出なかった。


 ゴブリンに狙われたこと。


 野良犬に会ったこと。


 キリカの話を聞いたこと。


 石積みの場所へ行ったこと。


 ユウが花を置いたこと。


 どこから言えばいいのか分からない。


 サエはその顔を見て、聞くのをやめたようだった。


「……分かった。詳しい話は後で聞くわ」


 それだけ言う。


「今は?」


 ユウが聞く。


「部屋に置いてきなさい。テーブル、買ったんでしょ」


 サエの声はいつもより少し柔らかかった。


 ユイは小さく頷く。


「はい」


 ユウは白いテーブルを持って、階段へ向かった。


 ユイも、その後についていく。


 ユウの部屋は、相変わらず簡素だった。


 壁。


 ベッド。


 低い台。


 棚。


 青い置物。


 クッション。


 そして今日、新しく白い折り畳みテーブルが増える。


 ユウは部屋の中央ではなく、ベッドと低い台の間にテーブルを広げた。


 脚を開き、床に置く。


 少しだけ押して、ガタつきを確かめる。


 ほとんど揺れなかった。


「ここでいいか」


 ユウが聞く。


 ユイはその位置を見る。


 ベッドに座れば、手が届く。


 クッションを床に置いても使える。


 カップを二つ置ける。


 小皿も置ける。


 昨日、自分が欲しいと言ったものが、ちゃんとそこにある。


「……はい。いいと思います」


 ユイは答えた。


 本当なら、もっと嬉しそうに言えたはずだった。


 ここにカップを置けますね。


 これなら飲み物もこぼれません。


 小皿も置けます。


 やっぱり必要だったじゃないですか。


 そんなふうに、少し得意げに言えたはずだった。


 でも、言葉はそこまで出てこない。


 ユウは何も言わず、部屋の隅に置いてあったカップを一つ取った。


 中身は空だ。


 それを、白いテーブルの上に置く。


 かたり、と小さな音がした。


 ただのカップを置く音。


 けれどユイは、その音を聞いた瞬間、別の光景を思い出した。


 瓦礫の灰色。


 石を戻す指。


 小さな花。


 それが、石積みの前に置かれた時の、音のない静けさ。


 ユイは白い天板を見る。


 カップは、ちゃんと置けていた。


 床に置く必要はない。


 手元に置いておける。


 自分が望んだ通りだった。


 小さなテーブルは、確かに部屋を少しだけ人の部屋らしくした。


 ユイが、そうしたかったことだった。


 この部屋に、少しずつ物を増やすこと。


 ユウが眠るだけではなく、飲み物を置いたり、座ったり、誰かが少し長くいられる部屋にすること。


 それは、今でも嬉しいはずだった。


 けれど、その嬉しさは、まっすぐには上がってこなかった。


 ユイはテーブルの端に、そっと指を触れる。


 白いペンキは乾いていて、少しざらついていた。


 新品の滑らかさではない。


 でも、誰かが塗った手の跡が残っている。


 壊れていたものを直して、白く塗って、また使えるようにしたもの。


 それを、ユウの部屋に置く。


 そのことが急に、とても小さくて、とても大事なことのように思えた。


「ユイ」


 名前を呼ばれて、ユイは顔を上げる。


 ユウがこちらを見ていた。


「座るなら座れ」


 いつものように短い声だった。


 でも、追い出す声ではなかった。


 ユイは少しだけ迷ってから、持ってきていたクッションを床に置いた。


 そして、白いテーブルの前へ座る。


 いつものように。


 昨日の続きのように。


 けれど、同じではなかった。


 ユウはベッドの端へ腰を下ろす。


 テーブルを挟む形になる。


 距離は近い。


 でも、今日はその近さが少しだけ違って感じられる。


 ユウはキリカの石積みの前で、何も言わなかった。


 今も、何も聞かない。


 その沈黙が、以前より少しだけ分かる気がした。


 ユイは白いテーブルの上のカップを見る。


「……置けましたね」


 ようやく、それだけ言った。


 ユウはカップを見る。


「そうだな」


 それだけ返す。


 会話は続かなかった。


 でも、途切れた沈黙は、昨日までのものとは少し違っていた。


 ユイは白いテーブルから視線を外し、棚の上を見た。


 青いいるかの置物が、前と同じ場所にあった。


 あれを置いた時は、もっと単純に嬉しかった気がする。


 ユウの部屋に、自分が選んだものが一つ増えた。


 それだけで、少しだけこの部屋に近づけたような気がしていた。


 けれど今、同じように白いテーブルが増えても、胸の中は同じ形にはならなかった。


 ユイは、もう一度テーブルの白い天板を見つめる。


 自分が置きたかったもの。


 ユウの部屋に増やしたかったもの。


 そして、瓦礫の中の石積みの前に置かれた小さな花。


 その二つが、胸の中で静かに重なったまま、離れなかった。


 小さなテーブルは、確かに部屋を少しだけ人の部屋らしくした。


 けれどユイには、その上に置いたカップよりも、瓦礫の中の石積みの前に置かれた小さな花の方が、ずっと長く残っていた。

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