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銀月のロスト  作者: taka
第12章 石積みの墓

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石を積んだ場所

 ユウは、何も言わずに歩き出した。


 どこへ行くのかは、言わなかった。


 けれどユイには、分かった気がした。


 少し見に行ってみる。


 さっき、そう言った。


 それだけで、野良犬の子供たちは分かった顔をした。


 小さい子が一緒に行こうとしたが、鉄パイプを持った子がその肩を掴んで止めた。


「お前は来んな」


「なんでだよ」


「見張り」


「さっき終わったじゃん」


「終わってねえよ」


 それだけだった。


 ユウも何も言わなかった。


 礼を言うことも、理由を聞くこともない。


 ただ一度だけ、その子を見た。


 鉄パイプの子は視線を逸らし、少しだけ顎をしゃくった。


 ユウは歩き出す。


 ユイは一拍遅れて、その後を追った。


 止められなかった。


 それだけで、ついてきていいのだと分かった。


 路地は、先ほどまでより静かだった。


 ゴブリンの声はもう聞こえない。


 遠くで人の声と、何かを叩く音が混ざっている。


 ガレージストリートの表通りのざわめきは遠く、ここまで来ると、生活の音より瓦礫の隙間を通る風の音の方が近い。


 ユウは足を止めない。


 途中で、ひび割れたコンクリートの隙間に目を向けた。


 そこに、小さな花が咲いていた。


 花壇ではない。


 誰かが植えたものでもない。


 錆びた配管の根元、湿った土と灰色の粉塵の間から、細い茎が一本だけ伸びている。


 色も、鮮やかというほどではなかった。


 薄くくすんだ、小さな花。


 ユウはそれを見つけると、膝を曲げた。


 ユイは少し離れたところで足を止める。


「……それ」


 何のために、と聞きかけて、やめた。


 ユウは答えない。


 指先で茎を摘み、折る。


 乱暴ではない。


 けれど、丁寧というほどでもない。


 ただ、そこにあったものを取った。


 それだけの動きだった。


 ユウは花を片手に持ち、また歩き出す。


 ユイは黙ってついていった。


 しばらく進むと、道はさらに細くなった。


 崩れた壁と壁の間を抜ける。


 足元に割れた床材が転がっていて、ユイは何度か靴先を引っかけそうになった。


 ユウは振り返らない。


 でも、速すぎる歩き方もしなかった。


 やがて、少し開けた場所に出た。


 そこは、広場と呼ぶには狭かった。


 周囲を崩れた壁と鉄筋が囲っている。


 割れたコンクリート片、錆びた金属板、古い配管、砕けた看板の破片。


 そういうものが端へ寄せられ、中央だけが人ひとり通れる程度に空けられていた。


 誰かが片づけた場所だった。


 綺麗にするためではない。


 暮らすためでもない。


 ただ、何かを置くために、邪魔なものを脇へ寄せただけの場所。


 上の崩れた天井の隙間から、細い光が落ちている。


 その光は弱く、空気の中に浮いた埃を白く浮かび上がらせていた。


 ユイは、そこにあるものを見た。


 石積みだった。


 数は多くない。


 片隅に、数えるほどだけ。


 小さな石をいくつか積んだもの。


 瓦礫の破片を重ねただけのもの。


 錆びた金属片が横に立てかけられているものもあった。


 名前はない。


 墓標らしい墓標もない。


 誰のものかを示すものは、ほとんど何もなかった。


 いくつかは、もう崩れていた。


 石が落ち、ただの瓦礫と区別がつかなくなりかけている。


 誰かが積んだものだったのだろう。


 けれど、誰も戻らなかった。


 戻るはずだった誰かも、もう戻れなくなったのかもしれない。


 そうなれば、墓は墓でいられない。


 ただの石に戻る。


 ユイは、小さい子の言葉を思い出した。


 ――墓があるだけマシなんだぞ。


 その意味が、今、少しだけ分かった。


 ここにある石積みは、死んだ人の数ではない。


 覚えていた誰かが、石を積めた数だ。


 それだけだった。


 ユウは、その中の一つの前で足を止めた。


 ユイは、その石積みがキリカのものなのだと分かった。


 名前が書かれていたわけではない。


 特別に飾られていたわけでもない。


 ただ、ユウがそこで止まった。


 それだけで、分かった。


 石積みは小さかった。


 形は残っている。


 けれど、端の石が一つ落ちていた。


 足元の埃の上に、転がっている。


 ユウは何も言わず、しゃがんだ。


 落ちていた石を拾う。


 掌で土を払う。


 強く拭うわけではない。


 ただ、乗せるのに邪魔な砂を落とすだけ。


 それから、積まれた石の端へ戻した。


 少しだけ角度を変え、指先で押さえる。


 ぐらつかないか確かめるように、ほんの一瞬手を置く。


 祈るような動きではなかった。


 墓を整える作法でもなかった。


 ただ、落ちていたものを、元の場所へ戻しただけだった。


 それでもユイには、その動作がひどく静かに見えた。


 ユウは立ち上がらない。


 少しの間、そのまま石積みの前にいた。


 手を合わせることはない。


 目を閉じることもない。


 名前を呼ぶこともない。


 謝らない。


 語らない。


 何かを報告することもしない。


 ただ、石の前で止まっていた。


 ユイは、その横顔を見た。


 ユウは何かを見ているようにも見えた。


 何も見ていないようにも見えた。


 そこに、キリカという女の子がいたのだろうか。


 口が悪くて。


 石を投げるのが上手くて。


 小さい子に水を分けて。


 ユウの近くにいて。


 少しだけ笑うようになって。


 次の日、死んでいた女の子。


 ユイは、その姿を知らない。


 けれど、今この石の前に立っているユウを見ていると、キリカという名前だけが、ただの知らない名前ではなくなっていく気がした。


 ユウが自分を止める理由。


 腕を引く理由。


 前に立つ理由。


 近づくなと言う理由。


 隠せと言う理由。


 それらが、ここに積まれている石の向こうに少しだけ見えた。


 ユイは、自分の帽子の縁に触れる。


 その下に隠した髪を思う。


 白い髪。


 長い髪。


 タチバナが守り、サエが隠し方を整え、ユウが何度も注意してきたもの。


 守られてきたから、今も残っているもの。


 キリカは、ユウの近くにいた。


 その事実が、ユイの胸の奥に静かに落ちる。


 今まで、ユウの行動は自分に向けられたものだと思っていた。


 危ないから止める。


 心配だから引き寄せる。


 守るために前に立つ。


 それは間違いではない。


 でも、それだけではなかった。


 ユウの目にはきっと、自分の向こうに別の誰かも重なっている。


 守れなかった誰か。


 少し気を緩めた次の日に、もういなくなっていた誰か。


 キリカ。


 その名前を知ったことで、ユイは初めて、自分が今どこに立っているのかを少しだけ外から見た。


 自分は、守られている場所にいるだけではない。


 守られなければ、残らなかったかもしれない場所に立っている。


 ユウが、手に持っていた花を置いた。


 道端の隙間に咲いていた、小さな花。


 それを、石積みの前にそっと置く。


 それだけだった。


 花は軽く、頼りなく、瓦礫の灰色の中で少しだけ色を持っていた。


 ユウは立ち上がる。


 まだ何も言わない。


 ユイも、何も聞けなかった。


 祈らないのですか。


 そう聞くことはできたかもしれない。


 けれど、聞いてはいけない気がした。


 ユウは祈り方を知らないのかもしれない。


 祈る相手を持っていないのかもしれない。


 あるいは、祈ったところで何も変わらないことを、早くから知ってしまったのかもしれない。


 でも、落ちた石を戻した。


 花を置いた。


 ここまで来た。


 それが、この場所でできる全部なのだと思った。


 風が、崩れた壁の隙間を抜けた。


 積まれた石の前に置かれた小さな花が、かすかに揺れる。


 ユウは踵を返した。


「戻るぞ」


 それだけ言った。


 ユイは少し遅れて頷く。


「……はい」


 声は、小さかった。


 ユウはもう歩き出している。


 ユイも、その後を追った。


 背後に、石を積んだ場所が残る。


 振り返りたいような気がした。


 けれど、ユイは振り返らなかった。


 胸の中で、キリカという名前だけが、もう先ほどとは違う重さで残っていた。

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