石を積んだ場所
ユウは、何も言わずに歩き出した。
どこへ行くのかは、言わなかった。
けれどユイには、分かった気がした。
少し見に行ってみる。
さっき、そう言った。
それだけで、野良犬の子供たちは分かった顔をした。
小さい子が一緒に行こうとしたが、鉄パイプを持った子がその肩を掴んで止めた。
「お前は来んな」
「なんでだよ」
「見張り」
「さっき終わったじゃん」
「終わってねえよ」
それだけだった。
ユウも何も言わなかった。
礼を言うことも、理由を聞くこともない。
ただ一度だけ、その子を見た。
鉄パイプの子は視線を逸らし、少しだけ顎をしゃくった。
ユウは歩き出す。
ユイは一拍遅れて、その後を追った。
止められなかった。
それだけで、ついてきていいのだと分かった。
路地は、先ほどまでより静かだった。
ゴブリンの声はもう聞こえない。
遠くで人の声と、何かを叩く音が混ざっている。
ガレージストリートの表通りのざわめきは遠く、ここまで来ると、生活の音より瓦礫の隙間を通る風の音の方が近い。
ユウは足を止めない。
途中で、ひび割れたコンクリートの隙間に目を向けた。
そこに、小さな花が咲いていた。
花壇ではない。
誰かが植えたものでもない。
錆びた配管の根元、湿った土と灰色の粉塵の間から、細い茎が一本だけ伸びている。
色も、鮮やかというほどではなかった。
薄くくすんだ、小さな花。
ユウはそれを見つけると、膝を曲げた。
ユイは少し離れたところで足を止める。
「……それ」
何のために、と聞きかけて、やめた。
ユウは答えない。
指先で茎を摘み、折る。
乱暴ではない。
けれど、丁寧というほどでもない。
ただ、そこにあったものを取った。
それだけの動きだった。
ユウは花を片手に持ち、また歩き出す。
ユイは黙ってついていった。
しばらく進むと、道はさらに細くなった。
崩れた壁と壁の間を抜ける。
足元に割れた床材が転がっていて、ユイは何度か靴先を引っかけそうになった。
ユウは振り返らない。
でも、速すぎる歩き方もしなかった。
やがて、少し開けた場所に出た。
そこは、広場と呼ぶには狭かった。
周囲を崩れた壁と鉄筋が囲っている。
割れたコンクリート片、錆びた金属板、古い配管、砕けた看板の破片。
そういうものが端へ寄せられ、中央だけが人ひとり通れる程度に空けられていた。
誰かが片づけた場所だった。
綺麗にするためではない。
暮らすためでもない。
ただ、何かを置くために、邪魔なものを脇へ寄せただけの場所。
上の崩れた天井の隙間から、細い光が落ちている。
その光は弱く、空気の中に浮いた埃を白く浮かび上がらせていた。
ユイは、そこにあるものを見た。
石積みだった。
数は多くない。
片隅に、数えるほどだけ。
小さな石をいくつか積んだもの。
瓦礫の破片を重ねただけのもの。
錆びた金属片が横に立てかけられているものもあった。
名前はない。
墓標らしい墓標もない。
誰のものかを示すものは、ほとんど何もなかった。
いくつかは、もう崩れていた。
石が落ち、ただの瓦礫と区別がつかなくなりかけている。
誰かが積んだものだったのだろう。
けれど、誰も戻らなかった。
戻るはずだった誰かも、もう戻れなくなったのかもしれない。
そうなれば、墓は墓でいられない。
ただの石に戻る。
ユイは、小さい子の言葉を思い出した。
――墓があるだけマシなんだぞ。
その意味が、今、少しだけ分かった。
ここにある石積みは、死んだ人の数ではない。
覚えていた誰かが、石を積めた数だ。
それだけだった。
ユウは、その中の一つの前で足を止めた。
ユイは、その石積みがキリカのものなのだと分かった。
名前が書かれていたわけではない。
特別に飾られていたわけでもない。
ただ、ユウがそこで止まった。
それだけで、分かった。
石積みは小さかった。
形は残っている。
けれど、端の石が一つ落ちていた。
足元の埃の上に、転がっている。
ユウは何も言わず、しゃがんだ。
落ちていた石を拾う。
掌で土を払う。
強く拭うわけではない。
ただ、乗せるのに邪魔な砂を落とすだけ。
それから、積まれた石の端へ戻した。
少しだけ角度を変え、指先で押さえる。
ぐらつかないか確かめるように、ほんの一瞬手を置く。
祈るような動きではなかった。
墓を整える作法でもなかった。
ただ、落ちていたものを、元の場所へ戻しただけだった。
それでもユイには、その動作がひどく静かに見えた。
ユウは立ち上がらない。
少しの間、そのまま石積みの前にいた。
手を合わせることはない。
目を閉じることもない。
名前を呼ぶこともない。
謝らない。
語らない。
何かを報告することもしない。
ただ、石の前で止まっていた。
ユイは、その横顔を見た。
ユウは何かを見ているようにも見えた。
何も見ていないようにも見えた。
そこに、キリカという女の子がいたのだろうか。
口が悪くて。
石を投げるのが上手くて。
小さい子に水を分けて。
ユウの近くにいて。
少しだけ笑うようになって。
次の日、死んでいた女の子。
ユイは、その姿を知らない。
けれど、今この石の前に立っているユウを見ていると、キリカという名前だけが、ただの知らない名前ではなくなっていく気がした。
ユウが自分を止める理由。
腕を引く理由。
前に立つ理由。
近づくなと言う理由。
隠せと言う理由。
それらが、ここに積まれている石の向こうに少しだけ見えた。
ユイは、自分の帽子の縁に触れる。
その下に隠した髪を思う。
白い髪。
長い髪。
タチバナが守り、サエが隠し方を整え、ユウが何度も注意してきたもの。
守られてきたから、今も残っているもの。
キリカは、ユウの近くにいた。
その事実が、ユイの胸の奥に静かに落ちる。
今まで、ユウの行動は自分に向けられたものだと思っていた。
危ないから止める。
心配だから引き寄せる。
守るために前に立つ。
それは間違いではない。
でも、それだけではなかった。
ユウの目にはきっと、自分の向こうに別の誰かも重なっている。
守れなかった誰か。
少し気を緩めた次の日に、もういなくなっていた誰か。
キリカ。
その名前を知ったことで、ユイは初めて、自分が今どこに立っているのかを少しだけ外から見た。
自分は、守られている場所にいるだけではない。
守られなければ、残らなかったかもしれない場所に立っている。
ユウが、手に持っていた花を置いた。
道端の隙間に咲いていた、小さな花。
それを、石積みの前にそっと置く。
それだけだった。
花は軽く、頼りなく、瓦礫の灰色の中で少しだけ色を持っていた。
ユウは立ち上がる。
まだ何も言わない。
ユイも、何も聞けなかった。
祈らないのですか。
そう聞くことはできたかもしれない。
けれど、聞いてはいけない気がした。
ユウは祈り方を知らないのかもしれない。
祈る相手を持っていないのかもしれない。
あるいは、祈ったところで何も変わらないことを、早くから知ってしまったのかもしれない。
でも、落ちた石を戻した。
花を置いた。
ここまで来た。
それが、この場所でできる全部なのだと思った。
風が、崩れた壁の隙間を抜けた。
積まれた石の前に置かれた小さな花が、かすかに揺れる。
ユウは踵を返した。
「戻るぞ」
それだけ言った。
ユイは少し遅れて頷く。
「……はい」
声は、小さかった。
ユウはもう歩き出している。
ユイも、その後を追った。
背後に、石を積んだ場所が残る。
振り返りたいような気がした。
けれど、ユイは振り返らなかった。
胸の中で、キリカという名前だけが、もう先ほどとは違う重さで残っていた。




