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銀月のロスト  作者: taka
第12章 石積みの墓

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キリカ姉ちゃん

 ユウは、すぐには戻らなかった。


 ゴブリンが退いたとはいえ、完全に消えたわけではない。


 路地の奥へ散っただけだ。


 今この場で気を抜けば、別の隙間から戻ってくるかもしれない。


 だからユウは、野良犬の子供たちに短く指示を出した。


「しばらく境目へ出るな」


「どれくらい?」


 鉄パイプを持った子が聞く。


「今日いっぱいは最低。夜はもっと駄目だ」


「飯は?」


「表の店から離れずに回せ。裏へ入るな」


「分かった」


 返事は軽かったが、目は真面目だった。


 ユウはそれを確認すると、サビと鉄パイプの子を連れて、少しだけ路地の奥へ向かった。


 倒れたゴブリンの位置。


 血の跡。


 袋が落ちていた場所。


 逃げた方向。


 そういうものを確認するためだろう。


 ユイはその背中を見送った。


「ここで待ってろ」


 ユウは最後にそう言った。


 ユイは頷いた。


「はい」


 今度は、素直に頷けた。


 自分がついていっても邪魔になる。


 それは、さっきダクトの中に隠れている間に嫌というほど分かった。


 ここでは、知らないまま動くことの方が危ない。


 ユウの背中が、細い路地の角を曲がって見えなくなる。


 残ったのは、ユイと、野良犬の子供たちだった。


 割れ瓶を持っていた子が、瓶を腰の布へ差し込む。


 一番小さい子は、缶の紐を抱えたまま、まだユイをじっと見ていた。


 見られている。


 それが分かって、ユイは少しだけ背筋を伸ばす。


 けれど、相手は大人ではない。


 自分より小さい子供たちだ。


 さっきまでゴブリン相手に音を鳴らし、走り、隠れ、ユウの戦いを助けていた子供たち。


 ユイはどう話せばいいのか、一瞬迷った。


 その前に、一番小さい子が口を開いた。


「姉ちゃん、ユウ兄ちゃんと一緒なの?」


 唐突だった。


 ユイは瞬きをする。


「一緒、というのは……」


「一緒に住んでんの?」


「えっと……同じアジトにはいます」


「アジトって、ロストの?」


「はい」


「すげえ」


 小さい子の目が丸くなる。


 割れ瓶の子が横から口を挟んだ。


「だからロストになったんだって言ったろ」


「でも、ユウ兄ちゃん、昔はこっちだったじゃん」


「今は違うだろ」


「でもユウ兄ちゃんだろ」


 そのやり取りに、ユイは少しだけ息を緩めた。


 彼らにとって、ユウはロストになっても、まだ「ユウ兄ちゃん」なのだ。


 それが少し不思議で、少しだけ温かく見えた。


 小さい子が、またユイを見上げる。


「姉ちゃん、名前は?」


「ユイです」


「ユイ姉ちゃん?」


 その呼び方に、ユイは少しだけ戸惑った。


「……はい。そう呼んでもらっても、大丈夫です」


「変な喋り方」


 割れ瓶の子が言う。


 ユイは思わず口を閉じた。


 小さい子は得意げに笑う。


「上っぽい」


「上ではありません」


「でも下っぽくねえよ」


 それは、責める声ではなかった。


 ただ見たままを言っている。


 ユイは返事に困る。


 下っぽくない。


 その一言が、帽子の内側に隠した髪や、色付きコンタクトの奥にある目を意識させた。


 さっきゴブリンに狙われたことも、同時に思い出す。


 小さい子は、そんなユイの沈黙を気にした様子もなく、すぐ別の話へ飛んだ。


「ユイ姉ちゃん、キリカ姉ちゃん知らないの?」


 ユイの胸が、少しだけ跳ねる。


 さっき聞いた名前。


 キリカ。


 ユウの声がほんの少し変わった名前。


 ユイは慎重に聞き返した。


「……キリカさん、ですか」


「さん?」


 小さい子が妙な顔をする。


 割れ瓶の子が吹き出した。


「さんって誰だよ」


「姉ちゃんだろ、キリカ姉ちゃん」


 小さい子が胸を張って言う。


 ユイは少しだけ頬を赤くした。


「すみません。キリカ姉ちゃん、ですね」


「うん」


 小さい子は満足そうに頷く。


「知らねえの?」


「はい。さっき、初めて名前を聞きました」


「えー」


 本気で驚いた声だった。


「ユウ兄ちゃんと一緒なのに?」


「……はい」


「じゃあ教えてやる」


 その言い方は、完全に得意げだった。


 年上なのに知らない。


 なら自分が教える。


 そういう顔をしている。


 ユイはその様子に、少しだけ困ったように笑う。


「お願いします」


「キリカ姉ちゃんはな、口悪かった」


 最初に出てきた説明がそれだった。


 ユイは思わず瞬きをする。


「口が、悪かったんですか」


「うん。すぐ睨むし、すぐ蹴るって言う」


 割れ瓶の子が頷く。


「石投げるの上手かったな」


「俺、頭に当てられた」


 小さい子が少し誇らしげに言う。


「それは……痛かったのでは?」


「痛かった。でも当てられる方が悪いって言われた」


「……そうなんですか」


 ユイはどう返せばいいか分からなかった。


 子供たちはそれを気にせず、次々に話す。


「足も速かった」


「飯見つけるのも上手かった」


「小さいやつには水ちょっと分けてくれた。でも文句言いながら」


「優しい方だったんですか?」


 ユイが聞くと、割れ瓶の子は首を傾げた。


「優しいっていうか……」


「キリカ姉ちゃんはキリカ姉ちゃんだった」


 小さい子が断言する。


 その言い方が、妙にしっくり来ているのだろう。


 割れ瓶の子も頷いた。


「そう。それ」


 ユイは、少しだけ想像する。


 口が悪くて、すぐ睨んで、石を投げるのが上手い少女。


 けれど小さい子には水を分ける。


 優しいと言われるのは嫌がりそうな、でも完全には冷たくなれない女の子。


 その輪郭は、ぼんやりとだけ浮かんだ。


「ユウとは……仲が良かったんですか?」


 聞いてから、ユイは少しだけ声を小さくした。


 聞いていいことなのか分からない。


 でも、子供たちはもう話す気になっている。


 それに、ユウ本人から聞き出しているわけではない。


 そう自分に言い訳をする。


 小さい子は、また得意げに胸を張った。


「ちょっとだけ一緒に動いてた」


「一緒に?」


「うん。水取りとか、見張りとか。逃げ道探すやつとか」


 割れ瓶の子が補足する。


「ユウ兄ちゃん、あの頃よくキリカ姉ちゃんの近くにいた」


 ユイの指が、少しだけ動いた。


 一緒に動いていた。


 水取り。


 見張り。


 逃げ道探し。


 今のユウが、自分の少し前を歩いていたように。


 危ない時に腕を引いて、走れと言ったように。


 昔、別の女の子の近くにいた。


「仲良かったってことですか?」


 小さい子は少し考える。


「たぶん」


「たぶん?」


「キリカ姉ちゃん、ユウ兄ちゃんにはあんま石投げなかったし」


 割れ瓶の子が笑う。


「それ、仲いいのか?」


「いいだろ。俺には投げた」


「お前がうるさかったからだろ」


「うるさくねえし」


 二人が少し言い合う。


 ユイはそのやり取りを聞きながら、胸の中に小さな引っかかりが生まれるのを感じた。


 嫉妬というには、まだ形がない。


 知らない頃のユウの隣にいた女の子。


 その事実を、ただ受け取っただけだ。


 けれど、それは何となく、胸の奥に残った。


「キリカ姉ちゃん、最初はずっと怖かったんだよ」


 小さい子が言う。


「怖い?」


「うん。すぐ睨むし、笑わないし。近づくと、あっち行けって」


「でも、ユウ兄ちゃんと一緒に動くようになってから、ちょっと変わった」


 割れ瓶の子が、少しだけ声を落とす。


「少し笑うようになった」


 ユイは顔を上げた。


「笑うように?」


「ほんのちょっとな」


「前はすぐ睨んでた。ユウ兄ちゃんにも蹴るぞって言ってた」


「でも、その頃は?」


「たまに笑ってた」


 小さい子は、指で小さな幅を作る。


「これくらい」


 ユイは、その小さな幅を見る。


 ほんの少し。


 それだけの変化だったのだろう。


 でも、下層で生きる女の子にとって、少し警戒を緩めることがどれだけ危ういのか。


 ユイは、今なら少しだけ分かる。


 長い髪を隠せ。


 帽子をかぶれ。


 一人で出るな。


 倒れている相手にも近づくな。


 人とは限らない。


 ユウが言ってきた言葉が、胸の中で一つずつ並ぶ。


「……それで?」


 ユイは、続きを促した。


 小さい子は、特に声を重くするでもなく言った。


「次の日、死んでた」


 ユイの息が止まった。


 あまりにも、あっさりしていた。


 少し笑うようになった。


 次の日、死んでいた。


 その間にあるはずのものが、何も語られなかった。


 割れ瓶の子が、少しだけ視線を逸らす。


「朝、いなくてさ」


 小さい子は続ける。


「探したら、裏の方にいた」


「もう冷たかった」


 その言葉を、別の子が継いだ。


 いつの間にか、サビが少し戻ってきていた。


 手には石袋を持ったままだが、顔はさっきより静かだった。


「服、ぐちゃぐちゃだった」


 ユイの手が、自分の服の裾を掴む。


「顔も腫れてた」


「サビ」


 割れ瓶の子が低く止める。


 サビは一度口を閉じた。


 けれど、少しだけ間を置いて続ける。


「男にやられたんだって」


 ユイの喉が、音もなく詰まった。


 言葉の意味は分かる。


 分かってしまう。


 下層で女の子がどう狙われるのか。


 売られる。


 攫われる。


 囲われる。


 消える。


 その言葉たちが、急に遠い話ではなくなった。


「前にも、捕まりかけたんだ」


 サビが言う。


「売られるとこだったって。ユウ兄ちゃんが助けた」


 ユイは何も言えない。


「それから、ちょっと一緒にいた」


「で、少し笑うようになった」


 小さい子が、また同じことを言う。


「そしたら、次の日死んでた」


 その繰り返しが、ユイの胸に刺さる。


 助けた。


 少し気を許した。


 少し笑うようになった。


 次の日、死んでいた。


 それが、下層では起こる。


 ユウは、それを見た。


 ユイの脳裏に、何度もユウの手が蘇る。


 ロストパラダイスで無言で前に出た背中。


 危ない時に引き寄せた腕。


 ピアースワームを踏み潰したブーツ。


 ローブの影へ近づこうとした自分を、反射的に抱き寄せた力。


 あれは、過保護ではなかった。


 口うるさいだけでもなかった。


 一度でも間に合わなければ、次の日にはいない。


 ユウは、その現実を知っていた。


「墓は……」


 ユイは、ようやく声を出した。


「墓は、あるんですか」


 小さい子が頷く。


「あるよ」


「石積んだやつ」


 サビが言う。


「ユウ兄ちゃんが積んだ」


「墓があるだけマシなんだぞ」


 小さい子が、また得意げに言った。


 その言い方に、ユイは何も返せなかった。


 墓があるだけ、マシ。


 それは、普通なら慰めにはならない。


 けれど、この場所では本当にそうなのだと分かってしまった。


 死体すら残らない。


 誰にも覚えてもらえない。


 昨日いた子が、今日はもういない。


 それで終わる。


 その中で、石を積んでもらえたこと。


 誰かに名前を覚えてもらえたこと。


 それは、たぶん、本当にマシな方なのだ。


 ユイは帽子の上から、自分の髪を押さえた。


 長い髪。


 白い髪。


 隠さなければならないもの。


 その下にある自分の身体も、同じだ。


 フレッシュ。


 女。


 守られてきた少女。


 さっきのゴブリンが、自分を見逃す理由はなかった。


 下層の男たちが、自分を安全なものとして見る理由もない。


 自分が無事なのは、自分が強かったからではない。


 タチバナが守ったから。


 サエが整えたから。


 アジトがあったから。


 銀月があったから。


 そして、ユウが止めたから。


「ユイ姉ちゃん?」


 小さい子が首を傾げる。


「顔、変だぞ」


 ユイは慌てて顔を上げた。


「……大丈夫です」


「大丈夫じゃない顔だけど」


「少し、驚いただけです」


「キリカ姉ちゃん知らないからだよ」


 小さい子は胸を張る。


「覚えとけよ」


 その言い方は、やはり得意げだった。


 ユイは少しだけ息を吸う。


 それから、静かに頷いた。


「はい。覚えます」


 小さい子は満足そうに笑った。


 その時、路地の奥から足音が聞こえた。


 ユウの足音だった。


 ユイには、もう少しだけ分かるようになっていた。


 重すぎず、軽すぎず、迷いなく近づいてくる足音。


 ユウが角を曲がる。


「何してる」


 声はいつも通りだった。


 サビが肩をすくめる。


「待ってただけ」


 小さい子は、余計なことを言いそうに口を開いた。


 割れ瓶の子が、その頭を軽く叩く。


「痛っ」


「黙ってろ」


 ユウの視線が、ユイへ向く。


 ユイは、さっき聞いた名前を口にできなかった。


 キリカ。


 聞きたいことはあった。


 でも、今は聞けない。


 ユウ本人から無理に聞き出してはいけない。


 それはもう、サエに言われたからではなかった。


 ユイは帽子の縁を、もう一度押さえる。


 隠すために。


 自分が今、何を隠して守られているのか。


 それを少しだけ、分かってしまったから。


 ユウはその動きを見たが、何も言わなかった。


「戻るぞ」


 短い言葉。


 ユイは頷く。


「はい」


 胸の中には、まだ石を積んだだけの墓という言葉が残っていた。


 そして、その前に立つユウの姿を、ユイはまだ見ていなかった。

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