怪我はない
暗いダクトの中で、ユイは膝を抱えていた。
金属の冷たさが、手のひらと膝に染みている。
床には薄い布が敷かれていたが、それでも硬さは消えない。
油と埃と、古く湿った空気の匂いが鼻の奥に残っていた。
外の光は、細い隙間からしか入ってこない。
その向こうで、音だけが動いていた。
缶が鳴る音。
小さな足音。
何かが壁に当たる音。
ゴブリンの甲高い声。
そして、銃声。
乾いた音が、何度か路地に跳ねた。
ユイは肩を震わせる。
声を出してはいけない。
動いてはいけない。
出るな、と言われた。
だから、息を殺す。
けれど、音がするたびに身体が勝手に反応した。
今のは、ユウが撃った音なのか。
それとも、ゴブリンが撃った音なのか。
ユウは無事なのか。
子供たちは逃げられているのか。
自分がここで隠れている間に、外で何が起きているのか。
何も分からない。
それが、一番怖かった。
ユイは胸元で両手を握りしめる。
前にも、ユウは怪我をした。
血を流して、それでも何でもない顔をしていた。
あの時も、大丈夫だと言った。
でも、大丈夫ではなかった。
だから、信じるだけでは足りなかった。
銃声が止む。
ゴブリンの声も、少しずつ遠くなっていく。
そのあとに来た静けさは、安心ではなかった。
むしろ、何かが終わったのか、何かが近づいているのか分からない分だけ、胸の奥を強く締めつけた。
足音がした。
一つではない。
軽い足音が二つ。
少し遅れて、もう一つ。
それより重い足音がひとつ。
ユイは息を止めた。
ユウかもしれない。
でも、違うかもしれない。
声を出してはいけない。
出るな、と言われた。
隙間の向こうで、子供の声がした。
「出していい?」
少し間があく。
「待て。俺が見る」
ユウの声だった。
その瞬間、ユイの身体から力が抜けそうになった。
けれど、まだ動かない。
まだ、廃材は開いていない。
外で何かがどけられる音がする。
古い看板が擦れる。
曲がったパイプが揺れ、細い光が少しずつ広がった。
まぶしさに、ユイは目を細める。
光の向こうに、ユウの顔が見えた。
その瞬間、身体が先に動いた。
「ユウ!」
ダクトから出るというより、転がるように外へ出た。
膝が金属の縁に当たる。
服が廃材に擦れる。
帽子が少しずれる。
それでも止まれなかった。
ユイは立ち上がると、そのままユウの前へ駆け寄った。
ほとんど、抱きつくような勢いだった。
ユウが一歩だけ足を引く。
けれど、避けきるほどではない。
ユイの手が、ユウの腕を掴んだ。
「怪我は」
「ない」
即答だった。
けれど、ユイはその返事だけでは止まれなかった。
「本当に?」
「ない」
「見せてください」
「おい」
ユウの声が少しだけ困ったものになる。
でも、ユイの手は離れない。
肩。
腕。
胸元。
黒いプレートジャケット。
その端に、少し裂けた跡がある。
ユイの指が、そこへ伸びた。
「ここ、裂けてます」
「かすっただけだ」
「血は」
「出てない」
「動かないでください」
「動いてないだろ」
ユイは聞いていなかった。
胸元を見て、肩を見て、腕を見て、腰のホルスターのあたりを確認する。
脚も見る。
ブーツに血がついていないか。
歩き方が変ではないか。
呼吸が乱れていないか。
自分でも、少し必死すぎると思った。
でも、止まれなかった。
ダクトの中で聞いた銃声。
ゴブリンの声。
外で何もできなかった時間。
前に見たユウの怪我。
それが全部、今になって手を動かしている。
「本当に、どこも痛くないですか」
ユウは少しだけ黙った。
たぶん、「ない」ともう一度言おうとしたのだろう。
けれど、ユイの顔を見て、その言葉を一瞬だけ止めた。
「……ない」
今度の返事は、さっきより少しだけ低かった。
ユイはようやく、ほんの少しだけ息を吐く。
それでも、手はユウの腕を掴んだままだった。
「うわ」
横から声がした。
一番小さい子だった。
缶の紐を抱えたまま、目を丸くしている。
「兄ちゃん、めっちゃ心配されてる」
サビが口元を歪める。
「やっぱ兄ちゃんの女じゃん」
「違う」
ユウの声が即座に飛ぶ。
割れ瓶の子が笑った。
「まだ何も言ってねえじゃん」
「言っただろ」
「言ったけどさ」
「黙れ」
ユウの声は低い。
だが、さっきゴブリンを相手にしていた時ほど硬くはなかった。
子供たちはそれを分かっているのか、完全には黙らない。
少しだけ距離を取りながら、にやにやとこちらを見ている。
ユイはそこで、ようやく自分の距離に気づいた。
ユウのすぐ前にいる。
腕を掴んでいる。
ほとんど、胸元に手を置くような距離まで踏み込んでいる。
頬が熱くなる。
「……す、すみません」
慌てて手を離そうとする。
けれど、完全には離せなかった。
指先だけが、まだユウの袖を掴んでいる。
心配が、まだ残っていた。
ユウはそれを見た。
見たが、何も言わなかった。
代わりに、短く言う。
「終わった」
ユイは顔を上げる。
「ゴブリンは」
「散った。今はな」
「今は……」
「追ってこない。しばらくは」
完全な安全ではない。
その言い方に、ユイは小さく頷いた。
それでも、ユウがここにいる。
怪我をしていない。
それだけで、胸の奥に詰まっていたものが少しずつほどけていく。
鉄パイプの子が、奥の路地を警戒しながら言った。
「兄ちゃん、四つ落とした」
「数えるなって言っただろ」
「でも四つじゃん」
「弾が減った」
サビが頷く。
「赤字だって」
「赤字?」
ユイは思わず聞き返した。
ユウはそちらを見ずに答える。
「依頼じゃない」
「……あ」
そこでユイは、少しだけ理解する。
ゴブリンを倒しても、報酬はない。
誰かが褒めてくれるわけでもない。
弾は減る。
装備は傷む。
怪我をすれば治療費もかかる。
それでも、ユウは撃った。
自分を狙ったから。
子供たちの縄張りに入り込んだから。
それ以上踏み込ませないために。
ユイは、何かを言おうとして、言葉を見つけられなかった。
その間にも、子供たちは少しずつ元の調子に戻っていく。
「でも、あれでしばらく来ないだろ」
「来たらまた鳴らす」
「やめろ。次は逃げろ」
ユウが即座に言う。
小さい子が不満そうに口を尖らせた。
「でも、ユウ兄ちゃんいるし」
「俺がいつもいると思うな」
その言い方はぶっきらぼうだった。
けれど、冷たくはなかった。
ユイは、そのやり取りを見る。
アジトにいる時のユウとは、少し違う。
銀月で見るユウとも違う。
仕事中の、言葉を削ったユウとも違う。
ここでは、子供たちがユウを「兄ちゃん」と呼ぶ。
遠慮なく茶々を入れる。
ユウもそれを、本気で突き放しはしない。
雑で、荒くて、近い。
ユイは初めて、ユウがここにいた頃の空気を、ほんの少し見た気がした。
その時、一番小さい子がふと思い出したように言った。
「そういや、ユウ兄ちゃん」
「何だ」
「キリカ姉ちゃんのとこ、行った?」
空気が、少しだけ止まった。
大きく変わったわけではない。
誰かが声を荒げたわけでもない。
けれど、サビが一瞬だけ小さい子を見る。
鉄パイプの子も、目を細めた。
割れ瓶の子は、何か言いかけてやめた。
ユイは、その変化に気づいた。
キリカ。
知らない名前だった。
けれど、「姉ちゃん」と呼ばれている。
そして、「行った?」と聞かれている。
誰かのところへ行く、という言い方。
それは、今いる場所ではなく、どこか別の場所を指しているように聞こえた。
ユウはしばらく黙っていた。
本当に短い間だった。
けれど、ユイには長く感じた。
やがて、ユウが答える。
「後で行く」
それだけだった。
小さい子は、何の悪気もない顔で頷いた。
「そっか」
それで話は終わった。
子供たちにとっては、それ以上のものではないのかもしれない。
戻ってきたなら行くかと思った。
ただ、それだけ。
けれどユイは、そうは受け取れなかった。
ユウの声が、ほんの少しだけ違った。
顔は変わらなかった。
でも、一瞬だけ、そこに何かが落ちた。
聞いてはいけない。
そう思った。
サエに言われたからではない。
今のユウの横顔を見れば、分かった。
ユイは、まだ少しだけ掴んでいた袖から指を離す。
ユウはもう、いつもの顔に戻っていた。
子供たちへ短く指示を出し、周囲を確認している。
けれど、ユイの中には、その名前だけが残った。
キリカ。
ユイは、その名前だけを胸の中で繰り返した。




