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銀月のロスト  作者: taka
第2章 拾った違和感
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9/19

再調査

 スラム外れへ近づくにつれて、朝の音は少しずつ痩せていった。


 夜ほど露骨な危うさはない。


 だが、朝だから安全とも言えない。


 ここでは、人目が増えることと、余計なことが減ることは同じ意味ではなかった。


 タチバナは昨夜ユウが通った道筋を、ほとんど言葉を挟まず辿っていく。


 歩幅は一定。


 視線はせわしなく動かない。


 けれど、見落としている様子もない。


 通りの幅。


 壁の染み。


 割れ窓の高さ。


 脇道の死角。


 そういうものを全部、歩く速度のまま拾っている。


 ユウは半歩後ろを歩きながら、昨夜の感覚と朝の景色を重ねていた。


 同じ道のはずなのに、夜とは印象が違う。


 濡れた壁の色。


 配管の位置。


 通りの先まで抜ける視線。


 夜にはただ黒く見えていた建物の輪郭が、朝の鈍い反射の中では少しだけ分かる。


 その分、昨夜の違和感が輪郭を持ち始めてもいた。


 例の場所が近づくと、タチバナが言った。


「止まるな。そのまま行け」


「分かってる」


 通りの真ん中で立ち止まって、あからさまに周りを見れば、それだけで“用のある人間”だと教えるようなものだ。


 二人は何でもない顔のまま、昨夜ユウが一度通り過ぎた辺りまで歩いた。


 そこから先。


 壊れた自販機の影。


 斜めに折れた配管。


 壁に貼られて、剥がれかけた古い求人紙。


 昨夜は色も形も曖昧だったものが、今はちゃんとそこにある。


 タチバナが視線を前へ残したまま、小さく聞いた。


「昨日、最初に薄いと思ったのはこの辺か」


「この先だな」


 ユウも前を見たまま答える。


「この通りに入ってから、人はいるのに流れが死んでた。用があって通る足はあるけど、残る空気がなかった」


「残る空気、か」


 タチバナはその言葉をそのまま受け取った。


 否定もしない。


 言い換えもしない。


 ただ一度、通りの左右へ視線を配る。


 右手、半分崩れた建物の前に、今日は婆さんが一人しゃがみ込んでいた。


 朝からジャンクを選っているのか、金属片を手元で仕分けている。


 左手の壁際には、昨夜はいなかった男が二人、煙草もどきを回していた。


 昨夜と同じではない。


 だからこそ、何が“同じように見せられているか”が見やすい。


「人が違うな」


 ユウがそう言うと、タチバナが短く返す。


「人は変わる。場所の癖は残る」


 その一言で、見るべきものが少し絞られる。


 二人はそのまま歩き、昨夜の通路の入口を通り過ぎた。


 真正面から入らない。


 入るとしても、まず周囲を切ってからだ。


 通りを二十歩ほど抜けたところで、タチバナが自然な動きで進路を変え、建物の陰へ入る。


 人目から消えすぎない。


 だが、通路の入口を斜めに見られる位置だった。


「ここからだ」


 ユウも壁際に寄る。


 通路の入口は、朝になってみると夜よりさらに狭く見えた。


 壁の剥がれ方。


 足元のゴミの寄り。


 踏み固められた箇所。


 人が通っているのか、そうでないのか。


 夜よりは少しだけ読める。


 タチバナが低く言う。


「見ろ。話すのは後だ」


 ユウは口を閉じた。


 入口の足元には、昨夜ユウが蹴り倒した廃材の残りがまだ寄っている。


 完全に片付けられてはいない。


 だが、倒れたままでもない。


 通れる程度には脇へ避けられている。


「……誰か通してるな」


 思わず漏れた言葉に、タチバナは「後だ」とは言わず、ただ聞き流した。


 それだけで、今のは的外れではないと分かる。


 通路の奥までは、ここからでは見切れない。


 ただ、入口側の壁に擦れた跡がある。


 昨夜は見えなかったが、何か硬いものが繰り返し触れたような細い傷だ。


 銃か。


 ケースか。


 金属の留め具か。


 断定はできない。


 だが、ただ人が出入りしてできる傷とは少し違う。


 タチバナがようやく口を開く。


「昨夜の音はこの辺だな」


「たぶん」


「向こうから来たか、こっちへ引いたか」


 ユウは傷の線を見る。


 浅い。


 だが、一方向だけではない。


「……両方あり得る。けど、入口で張ってた奴が壁に当てたなら、もっと低い位置になるかもな」


 タチバナがわずかに顎を引く。


「続けろ」


「今ある傷は少し高い。立ったまま持ってた長物か、ケースの角か。昨日の一回の音だけじゃなく、前から使ってた可能性もある」


「悪くない」


 それだけ言って、タチバナは通路の上を見た。


 二階。


 三階。


 割れ窓。


 手すりのない外廊下。


 朝の鈍い反射の中ではっきり見える分、昨夜ユウが感じた“見られる場所”の多さが余計に目につく。


 タチバナが壁際から一歩だけ位置を変える。


 その角度からだと、通路の入口だけでなく、二階の割れ窓も視界に入る。


「昨夜、上はどこを見た」


 ユウも同じ角度を取る。


「三階の右端。影が溜まってた。人影までは読めなかった」


「今は」


「空だな」


 実際、今は誰もいないように見える。


 だが、いないことと、使われていないことは別だ。


 タチバナは目を細めた。


「見張り場所としては悪くない。入口を押さえられるし、通りにも抜ける」


「逃げ筋も多い」


「そうだ」


 二人はそれ以上、しばらく黙った。


 黙っている間に、通りを一人の男が横切った。


 荷を背負っている。


 こちらも通路も見ず、そのまま角を曲がる。


 続いて、別の女が紙袋を抱えて通った。


 人の流れは死んでいない。


 だが、濃くもない。


 その半端さが、この場所の扱いを余計に嫌らしくしていた。


 タチバナがそこで言った。


「中を見る」


「正面からか」


「まさか」


 即答だった。


 タチバナは通路へ入らず、建物の脇をさらに回る。


 昨夜ユウが逃げに使った裂け目のある側だ。


 外壁の亀裂は、朝でも人一人が無理をすれば抜けられる程度しかない。


 だが、細道へ出られる。


 タチバナは亀裂の手前で止まり、足元を見た。


「昨日ここを使ったな」


「通った」


「跡が浅い」


 ユウは眉を寄せる。


「悪いか」


「逆だ。変に暴れてない」


 タチバナはしゃがみ込み、壁際の埃の乱れを指先でなぞる。


 昨日の自分の足跡なんて、もうとっくに周囲の細かい動きに紛れていると思っていた。


 だが、この男はそれでも何かを拾っている。


「他に通った奴は」


「二人。いや、三人か」


 ユウが息を止める。


 タチバナは立ち上がり、埃の付いた指先を軽く払った。


「昨夜の後だ。完全に塞がれてないってことは、向こうも逃げ筋か、別の出入りに使ってる」


 その言葉で、昨夜の通路がただの即席の罠ではなく、もともと使い慣れた場所である可能性が少し強くなる。


「行くぞ」


 今度は本当に中へ入るらしい。


 ユウも無言で頷いた。


 二人は正面の通路ではなく、裂け目から細い隙間へ滑り込んだ。


 湿った壁。


 積もった埃。


 朝でも空気は淀んでいる。


 だが、夜ほど気配が膨らまない分、どこまでが建物の癖で、どこからが人の痕かが少し分かりやすい。


 タチバナが前。


 ユウは半歩後ろ。


 速度は遅いが、止まりすぎない。


 この手の場所では、立ち尽くして考える時間そのものが隙になる。


 細道を抜けた先、通路の途中へ抜けられる位置でタチバナが止まった。


 正面の搬入口は見える。


 昨夜、男が立っていた場所だ。


 今は誰もいない。


 だが、空っぽではなかった。


 搬入口の脇、壁際に新しい擦れがある。


 靴跡も薄く残っている。


 それに、床にごく小さな紙片が一つ、湿気で壁へ張り付いていた。


 ユウがそれを見ようと一歩踏み出しかけると、タチバナが手で制する。


「目だけで見ろ」


 ユウは足を止めた。


 紙片は包装材の切れ端みたいに見える。


 白地に、かすかに青い印刷。


 工具箱に入れる緩衝材か、何かのラベルの端か。


 タチバナが低く言う。


「昨日の荷の色、覚えてるか」


「暗かったが……外装は鈍い灰色。角に剥げが少し」


「紙は」


 ユウは目を細めた。


「青……かもしれない」


「曖昧なら曖昧でいい」


 タチバナはそこでようやく一歩前へ出た。


 足元を見て、紙片を直接拾うのではなく、ナイフの先でそっとひっくり返す。


 裏は濡れていた。


 だが、表の印刷はまだ残っている。


 青い線。


 小さな英字。


 途中で破れた記号。


 端に、数字だけが残っている。


 管理番号か。


 ロットか。


 そこまでは分からない。


 タチバナの目が、ほんのわずかに細くなる。


「工業製品の緩衝材寄りだな」


「下層の手仕事の荷じゃない?」


「少なくとも、雑に詰めた布包みではない」


 それだけで十分だった。


 受け渡しに使われた荷が、ただの下層の流れ物ではない可能性が少し上がる。


 企業品そのものと断定はできない。


 だが、どこかでちゃんとした流通を経たものの一部かもしれない。


 タチバナは紙片を小さな袋へ入れ、ジャケットの内側へしまった。


「戻る」


 ユウが目を上げる。


「もうか」


「拾う分は拾った」


 タチバナの声は揺れない。


「これ以上見ても、今はこちらの足跡が濃くなるだけだ。向こうがまだ使っている場所なら、こっちの痕を残す意味がない」


 ユウは短く息を吐いた。


 物足りなさが無いわけではない。


 だが、それを押して奥へ入る理由もまた無かった。


 二人は来た道をそのまま引いた。


 裂け目を抜け、建物の陰へ戻り、再び何でもない顔で通りへ出る。


 そこまでやって、ようやくタチバナが歩きながら口を開いた。


「どうだった」


 問い返しだった。


 ユウは少し考え、答える。


「昨日の一件だけで作った場じゃない。何度か使ってる」


「根拠は」


「入口の傷、裂け目側の出入り、搬入口脇の擦れ。全部一回きりって感じじゃない」


「他は」


「荷は下層の雑な包みじゃないかもしれない。窓口の男が場に慣れてない感じはまだ消えない。だから、場所は慣れてる連中のもので、男だけ別に立てた可能性もある」


 タチバナはわずかに頷いた。


「いい。そこまで見えたなら十分だ」


 その“十分”は軽くなかった。


 拾えるものを拾って、踏み込みすぎずに戻る。


 昨日からの流れの中で、今一番必要な動きだった。


 下層の朝は、もう完全に動き出していた。


 店が開き、人が流れ、夜の気配の上へ生活が重なっていく。


 その中で、昨日の違和感はまだ消えていない。


 だが、もうただの“嫌な感じ”ではなくなっていた。


 形を持ち始めている。


 タチバナが最後に言う。


「銀月へ戻る。そこで詰める」


 ユウは頷いた。


 二人は、何でもない通行人みたいな顔でスラム外れを離れた。


 ユウの頭の中には、入口の傷と、裂け目の足跡と、濡れた紙片だけが残っていた。


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