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銀月のロスト  作者: taka
第2章 拾った違和感
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下層の朝

下層の朝は、空で分かるものじゃない。


頭上を埋めた建造物と補強通路、無数の配管とケーブルの隙間で、ニューライフシステムズの広告が淡く滲んでいた。

清潔な食事と水を約束する声だけが、湿った空気の中で薄く伸びる。


その下で、飯屋の裏口から湯気が上がり、焦げた油と豆の匂いが通りへ流れていた。

壁際で夜を越した男が、濡れた毛布を抱えたまま身じろぎする。

修理屋のシャッターが、錆びた音を立てて上がる。


陽の光は差さない。


それでも、店を開ける音と、人が動き出す気配が、街の底へ朝を作っていた。


ユウは銀月へ向かう角を曲がる前で、一度だけ足を止めた。


迷ったわけではない。


今日はタチバナと落ち合い、そのまま昨日の続きを見に行く。

なら、その前に自分の装備の分は自分で終わらせておく。


昨日の夜にも見た。

それでも、動く前にはもう一度触っておく。


抜けるか。

引けるか。

戻れるか。


答えは、触ればだいたい分かる。


確認を終え、ユウは小さく息を吐いた。


朝の下層は、もう回り始めている。


飯屋から流れてくる油と湯気の匂い。

どこかで沸いた安いスープの塩気。

店を開ける金属音。

遠くの怒鳴り声。


夜を外で越したらしい男が、壁に背を預けたまままだ目を閉じている。

逆にもう動き出している連中は足が早い。


日雇いに向かうのか。

荷運びか。

それとも、顔を洗う前にどこかへ消えなければならない人間か。


通りの端で丸くなっていた子供が、足音にだけ目を開けて、すぐまた身を縮める。


夜みたいに露骨な危うさは少し薄い。

その代わり、朝は朝で、誰もが“今日を回すための顔”をしていた。


ユウはその中を抜け、銀月の前へ出る。


夜の銀月と、朝の銀月は少し違って見える。


看板の灯りは落ちている。

店先の空気も静かだ。


酒場というより、下層と中層の境目に置かれた、無口な拠点みたいに見えた。


その店の脇に、男が一人立っていた。


タチバナはもう来ている。


銀月の壁際に寄り、ジャケットの前を開けたまま、自分の装備を確認していた。


派手な動きはない。

だが一つ一つが無駄なく早い。


胸元の留め。

スリングの長さ。

マガジンの収まり。


義体側の腕を一度だけ軽く曲げ、可動の引っ掛かりを見てから、また元の位置へ戻す。


その所作だけで、この男が準備を雑にしない人間だと分かる。


ユウが近づくと、タチバナは顔を上げた。


「早いな」


それだけだった。


褒めたわけでも、驚いたわけでもない。

ただ確認しただけの声だ。


ユウは短く返す。


「待たせる気はない」


「そうか」


タチバナの目が、そこでユウの全身を一度だけ見る。


肩。

腰。

足元。

それから、ジャケットの内側へ落ちる。


「確認は済ませたか」


「今した」


「何を見た」


問いは短い。

だが意味ははっきりしている。


ユウは余計な飾りを足さずに答えた。


「メイン、予備、サブ。水と手当て道具。昨日の夜に一回見て、今朝もう一回」


タチバナは小さく頷いた。


「予備は」


「三本」


「足りなくはない」


足りる、とも言わない。

その物言いがいかにもタチバナらしい。


視線がユウの脇にあるSMGへ落ちる。


「まだメインはそれか」


ユウは反射的にそちらへ手をやった。


「今はこれが一番回る」


「だろうな」


否定はしなかった。


「路地と屋内なら間違っちゃいない」


そこで言葉が一度止まる。


その間が、逆に続きを匂わせる。


ユウが目を上げると、タチバナは平らに続けた。


「ただ、それじゃ足りなくなる場面はある」


それだけ言って、そこで止めた。


ユウもそれ以上は返さない。


言われなくても分かる部分はある。

昨日の通路だって、入口側がもう少し遠く、もう少し硬い相手なら、今の手持ちだけでどこまで押さえられたかは怪しい。


けれど、今ここでその話を膨らませるつもりは、どちらにもないらしかった。


タチバナはジャケットを閉じ、壁から離れる。


「行くぞ」


「徒歩か」


「当たり前だ」


即答だった。


「スラム外れに車置いて、戻ったら骨組みだけ残ってる方が間抜けだろ」


ユウの口元が、ほんの少しだけ動く。


「骨組みも残らないかもな」


「残れば親切な方だ」


その短いやり取りだけで、昨夜よりは少しだけ空気が軽い。


軽いが、緩んではいない。

仕事前の会話としてちょうどいい重さだった。


二人で銀月を離れる。


朝の通りを並んで歩くと、タチバナの歩幅は広すぎず、狭すぎもしなかった。


こちらを置いていく速さではない。

合わせているというほど露骨でもない。


だが、一人で行く時の速度ではないのは分かる。


通りの角を一つ抜けたところで、タチバナが言った。


「昨日、最初に違和感を拾ったのはどこだ」


ユウは少しだけ考え、すぐに答えた。


「場所へ入る前だな。通路に入る前」


「理由は」


「死んでる場所じゃないのに、人の流れが薄すぎた」


「薄すぎた、か」


「完全に誰もいないなら逆に分かりやすい。でも昨日は中途半端だった。通る奴はいる。でも、用がないのに残る感じが薄かった」


タチバナは前を見たまま歩いている。


「他は」


「上から見られる場所があった。二階三階の割れ窓。あと、窓口の男が急きすぎてた」


「受け渡し慣れしてない」


「そう見えた」


「荷が軽い」


「ケースも新しすぎた」


言葉を交わしながら歩くうちに、昨日の記憶がまた頭の中で組み直されていく。


夜に感じた違和感が、朝の稼働音の中で少し輪郭を持つ。


朝になっても、下層は綺麗にはならない。


ただ、夜の危うさの上へ、そのまま生活が重なっていくだけだ。


タチバナが不意に聞く。


「寝れたか」


ユウは一拍遅れて返した。


「少しは」


「足りてるか」


「動く分には」


「そうか」


そこへ余計な情は混ぜない。

けれど、聞くこと自体が無関心ではない。


タチバナが短く言う。


「今日の目的は、荷を拾うことじゃない」


「分かってる」


「ならいい」


一拍。


「昨日の続きを見る。誰がいたか。まだいるか。昨日の噛みが偶然か、仕込みか。それを拾う」


「深追いは」


「しない」


返答は早い。


「見る。拾う。戻る。今日はそこまでだ」


ユウは頷く。


「昨日よりは分かりやすいかもな」


「そうとも限らん」


タチバナは淡々と返す。


「朝になって綺麗に消えてるなら、それも情報だ。何も残ってない場所ほど、人が手を入れてることはある」


その言葉に、ユウは小さく息を吐いた。


簡単な朝ではない。

けれど、難しすぎるとも思わない。


昨日の自分の判断をもう一度、今度はタチバナと並んで確かめに行く。


そう考えると、足取りは不思議と重くならなかった。


二人はそのまま、朝の下層を抜けていく。


店が開き、人が動き、夜に沈んでいたものが昼の顔へ押し出されていく。


その中で、昨日の違和感だけが消えずに残っていた。


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