下層の朝
下層の朝は、空で分かるものじゃない。
頭上を埋めた建造物と補強通路、無数の配管とケーブルの隙間で、ニューライフシステムズの広告が淡く滲んでいた。
清潔な食事と水を約束する声だけが、湿った空気の中で薄く伸びる。
その下で、飯屋の裏口から湯気が上がり、焦げた油と豆の匂いが通りへ流れていた。
壁際で夜を越した男が、濡れた毛布を抱えたまま身じろぎする。
修理屋のシャッターが、錆びた音を立てて上がる。
陽の光は差さない。
それでも、店を開ける音と、人が動き出す気配が、街の底へ朝を作っていた。
ユウは銀月へ向かう角を曲がる前で、一度だけ足を止めた。
迷ったわけではない。
今日はタチバナと落ち合い、そのまま昨日の続きを見に行く。
なら、その前に自分の装備の分は自分で終わらせておく。
昨日の夜にも見た。
それでも、動く前にはもう一度触っておく。
抜けるか。
引けるか。
戻れるか。
答えは、触ればだいたい分かる。
確認を終え、ユウは小さく息を吐いた。
朝の下層は、もう回り始めている。
飯屋から流れてくる油と湯気の匂い。
どこかで沸いた安いスープの塩気。
店を開ける金属音。
遠くの怒鳴り声。
夜を外で越したらしい男が、壁に背を預けたまままだ目を閉じている。
逆にもう動き出している連中は足が早い。
日雇いに向かうのか。
荷運びか。
それとも、顔を洗う前にどこかへ消えなければならない人間か。
通りの端で丸くなっていた子供が、足音にだけ目を開けて、すぐまた身を縮める。
夜みたいに露骨な危うさは少し薄い。
その代わり、朝は朝で、誰もが“今日を回すための顔”をしていた。
ユウはその中を抜け、銀月の前へ出る。
夜の銀月と、朝の銀月は少し違って見える。
看板の灯りは落ちている。
店先の空気も静かだ。
酒場というより、下層と中層の境目に置かれた、無口な拠点みたいに見えた。
その店の脇に、男が一人立っていた。
タチバナはもう来ている。
銀月の壁際に寄り、ジャケットの前を開けたまま、自分の装備を確認していた。
派手な動きはない。
だが一つ一つが無駄なく早い。
胸元の留め。
スリングの長さ。
マガジンの収まり。
義体側の腕を一度だけ軽く曲げ、可動の引っ掛かりを見てから、また元の位置へ戻す。
その所作だけで、この男が準備を雑にしない人間だと分かる。
ユウが近づくと、タチバナは顔を上げた。
「早いな」
それだけだった。
褒めたわけでも、驚いたわけでもない。
ただ確認しただけの声だ。
ユウは短く返す。
「待たせる気はない」
「そうか」
タチバナの目が、そこでユウの全身を一度だけ見る。
肩。
腰。
足元。
それから、ジャケットの内側へ落ちる。
「確認は済ませたか」
「今した」
「何を見た」
問いは短い。
だが意味ははっきりしている。
ユウは余計な飾りを足さずに答えた。
「メイン、予備、サブ。水と手当て道具。昨日の夜に一回見て、今朝もう一回」
タチバナは小さく頷いた。
「予備は」
「三本」
「足りなくはない」
足りる、とも言わない。
その物言いがいかにもタチバナらしい。
視線がユウの脇にあるSMGへ落ちる。
「まだメインはそれか」
ユウは反射的にそちらへ手をやった。
「今はこれが一番回る」
「だろうな」
否定はしなかった。
「路地と屋内なら間違っちゃいない」
そこで言葉が一度止まる。
その間が、逆に続きを匂わせる。
ユウが目を上げると、タチバナは平らに続けた。
「ただ、それじゃ足りなくなる場面はある」
それだけ言って、そこで止めた。
ユウもそれ以上は返さない。
言われなくても分かる部分はある。
昨日の通路だって、入口側がもう少し遠く、もう少し硬い相手なら、今の手持ちだけでどこまで押さえられたかは怪しい。
けれど、今ここでその話を膨らませるつもりは、どちらにもないらしかった。
タチバナはジャケットを閉じ、壁から離れる。
「行くぞ」
「徒歩か」
「当たり前だ」
即答だった。
「スラム外れに車置いて、戻ったら骨組みだけ残ってる方が間抜けだろ」
ユウの口元が、ほんの少しだけ動く。
「骨組みも残らないかもな」
「残れば親切な方だ」
その短いやり取りだけで、昨夜よりは少しだけ空気が軽い。
軽いが、緩んではいない。
仕事前の会話としてちょうどいい重さだった。
二人で銀月を離れる。
朝の通りを並んで歩くと、タチバナの歩幅は広すぎず、狭すぎもしなかった。
こちらを置いていく速さではない。
合わせているというほど露骨でもない。
だが、一人で行く時の速度ではないのは分かる。
通りの角を一つ抜けたところで、タチバナが言った。
「昨日、最初に違和感を拾ったのはどこだ」
ユウは少しだけ考え、すぐに答えた。
「場所へ入る前だな。通路に入る前」
「理由は」
「死んでる場所じゃないのに、人の流れが薄すぎた」
「薄すぎた、か」
「完全に誰もいないなら逆に分かりやすい。でも昨日は中途半端だった。通る奴はいる。でも、用がないのに残る感じが薄かった」
タチバナは前を見たまま歩いている。
「他は」
「上から見られる場所があった。二階三階の割れ窓。あと、窓口の男が急きすぎてた」
「受け渡し慣れしてない」
「そう見えた」
「荷が軽い」
「ケースも新しすぎた」
言葉を交わしながら歩くうちに、昨日の記憶がまた頭の中で組み直されていく。
夜に感じた違和感が、朝の稼働音の中で少し輪郭を持つ。
朝になっても、下層は綺麗にはならない。
ただ、夜の危うさの上へ、そのまま生活が重なっていくだけだ。
タチバナが不意に聞く。
「寝れたか」
ユウは一拍遅れて返した。
「少しは」
「足りてるか」
「動く分には」
「そうか」
そこへ余計な情は混ぜない。
けれど、聞くこと自体が無関心ではない。
タチバナが短く言う。
「今日の目的は、荷を拾うことじゃない」
「分かってる」
「ならいい」
一拍。
「昨日の続きを見る。誰がいたか。まだいるか。昨日の噛みが偶然か、仕込みか。それを拾う」
「深追いは」
「しない」
返答は早い。
「見る。拾う。戻る。今日はそこまでだ」
ユウは頷く。
「昨日よりは分かりやすいかもな」
「そうとも限らん」
タチバナは淡々と返す。
「朝になって綺麗に消えてるなら、それも情報だ。何も残ってない場所ほど、人が手を入れてることはある」
その言葉に、ユウは小さく息を吐いた。
簡単な朝ではない。
けれど、難しすぎるとも思わない。
昨日の自分の判断をもう一度、今度はタチバナと並んで確かめに行く。
そう考えると、足取りは不思議と重くならなかった。
二人はそのまま、朝の下層を抜けていく。
店が開き、人が動き、夜に沈んでいたものが昼の顔へ押し出されていく。
その中で、昨日の違和感だけが消えずに残っていた。




