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銀月のロスト  作者: taka
第1章 仮の席
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7/20

報告

銀月へ戻る頃には、下層はすっかり夜の色になっていた。


頭上を塞ぐ中層プレートの裏は暗く、配管の影だけが濡れた路面に落ちている。

広告の光は、隙間と湿った空気の中で薄く滲んでいるだけだった。


ユウは歩幅を崩さず、銀月へ向かった。


走って戻る必要はない。

だが、急がない理由もない。


ジャケットの内側にしまったままのメモが、歩くたび胸元でわずかに擦れる。


手ぶらだ。

荷は無い。

受け渡しは成立していない。


それでも足は止まらなかった。


通りの空気が変わる。


酒の匂い。

湿った木の匂い。

通りの真ん中より、少しだけ人の声が低くなる一角。


銀月の前まで来ると、店先の灯りがジャケットの端を静かに照らした。


扉を開ける。


外の夜気が背中から流れ込み、すぐに店の空気に押し返される。

木と酒と、薄い煙草の名残。


グラスの触れ合う音。

低い話し声。


何も変わっていないようでいて、ユウにとっては違う夜だった。


何人かの視線が、ユウの手元を掠めた。


荷は無い。


それだけで、店の空気がわずかに変わる。


入口寄りの卓の大柄な男が、グラスを持ったまま口の端を上げた。


「お。戻ったな」


向かいの痩せた男が肩を揺らす。


「荷物はどうした。食われたか」


ユウはそちらを見た。


「お前じゃあるまいし」


卓の向こうで小さな笑いが起きる。


「言うじゃねえか」


「で、どうなんだよ」


その問いには答えない。


ここで返す相手じゃない。


ユウがカウンターの方へ進むと、マスターがちょうどグラスを拭く手を止めた。


「お帰りなさい」


穏やかな声だった。


だが、目はユウの顔を見ている。


両手が空いていること。

歩き方が崩れていないこと。

呼吸が荒くないこと。


全部、拾っている目だった。


「タチバナは」


「奥です」


マスターはユウの空いた手を一度だけ見て、静かに付け足した。


「まず、口からでいいでしょう」


ユウは小さく「分かってる」と返し、そのまま奥へ向かった。


奥寄りのテーブル。


入口も店内も見える席。

タチバナは昨夜と同じ場所にいた。


だが今日は、グラスへほとんど手を付けていないらしく、酒の減りが遅い。


ユウが近づくと、タチバナは顔を上げた。


最初に見たのはユウの手。

次に腰。

最後に顔。


それだけで充分だったのだろう。


座れとも言わず、ただ一言。


「話せ」


ユウは椅子を引いて座った。


その音がやけに短く響く。


「受け渡しは切った」


余計な前置きは付けない。


結果から入る。


タチバナの表情は動かない。


「理由は」


「空気が悪かった」


「それじゃ足りん」


「分かってる」


ユウは息を一つ入れて、順に並べ始めた。


「場所は指定通り。スラム外れの雑居ビル裏。人通りは薄いが、完全に死んだ場所じゃない」


タチバナは口を挟まない。


ただ聞いている。


「着いてすぐは入らなかった。一回通り過ぎて、周囲を見た。上から見られる場所があった。二階三階の割れ窓。人影までは読めなかったが、見張るには使える」


「続けろ」


「通路に入って、奥に男が一人いた。合言葉は向こうから先に来た」


ユウは少しだけ息を整える。


「“荷は軽いか”って聞かれたから、“持つまで分からない”で返した。言葉は合ってた」


タチバナの指がテーブルの上で一度だけ動く。


確認の動きだ。


「荷もあった。小さいケース。工具箱くらいのサイズ。見た目の傷が少なかった。新しいってほどじゃないが、回ってる荷にしちゃ外装が綺麗すぎた」


「重さは」


「軽い」


ユウは即答した。


「空ではない。でも金属部品や工具の沈み方じゃなかった。中身は詰まってるが、密度が低い」


タチバナの目がわずかに細くなる。


「男の様子は」


「受け渡し慣れしてる感じが薄かった」


「どう薄い」


「急きすぎてた」


ユウは言葉を選びながら続ける。


「合言葉が合った後、すぐ荷を持ってけって出してきた。こっちが場所や時間に軽く触れたら、早い段階で苛立った。受け渡しの窓口なら、もう少し無駄な反応を捨てててもいい」


タチバナはそこで初めて小さく頷いた。


「そこで切らなかった理由は」


問いは鋭い。

だが、責める調子ではない。


本当に確認しているだけだ。


「決定打が足りなかった」


ユウは正直に言う。


「言葉は合ってた。相手も来てた。荷もあった。空気は悪いが、そこで即戻るには弱かった」


「それで」


「荷に手をかけたところで、入口側で音がした」


ユウは通路の形を頭に描きながら言う。


「壁か何かに硬い物が触れた、小さい音。配管の水音の合間に一回だけ。こっちからは聞こえる距離だった。相手の男は反応しなかった」


「聞こえなかったのか、流したのか」


「そこは分からない」


「いい。続けろ」


「そのまま持つふりをして、ケースじゃなく相手の体勢を崩した。入口と一直線にならない位置へ切って、次の瞬間に入口側の影が動いた」


「人数は」


「最低一人。奥にいた男を入れれば二人。三人目がいたかは見てない」


タチバナは短く息を吐いた。


だが、まだ評価の色は出さない。


「武器は見たか」


「はっきりは見てない。銃口までは確認できなかった。だが、通りすがりじゃない重さはあった」


「そこで切った」


「切った」


ユウは頷く。


「通路を塞ぐように廃材を倒して、来た道を戻らず横の裂け目へ入った。隣の細道へ抜けて、そのまま距離を取った。追いは深くなかった」


「追わなかったのか、追えなかったのか」


「そこも断定はできない。最初から脅しで止めるつもりだった可能性もあるし、荷を餌に軽く漁るだけだったのかもしれない。本気で狩るなら、もっと前で挟めたと思う」


銀月の中で、どこかの卓から笑い声が上がる。


遠い。


この卓には届かない。


タチバナはそれを無視して聞く。


「戻るまで尾けは」


「感じなかった。裏通りを一つ抜けてから速度を落とした。そこからは走ってない」


「なぜだ」


「追われてる顔で戻る方がまずい」


今度はタチバナの目が、ほんの少しだけ動いた。


それだけだったが、ユウには分かった。


そこは拾われた。


「……それで、荷は無し」


「無し」


「相手の顔は覚えたか」


「覚えた」


「書けるな」


「書ける」


そこで初めて、タチバナはグラスへ手を伸ばした。


一口だけ飲み、置く。


沈黙が落ちる。


ユウは待った。


言うべきことは言った。

足りないなら聞かれる。


誤魔化す気も、よく見せる気もない。


やがてタチバナが言う。


「切った判断は間違ってない」


その一言が、静かに落ちた。


ユウの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


抜けたことは表に出さない。

出さないが、自分では分かった。


タチバナは続けた。


「合言葉が合ってても、成立とは限らん。場所も荷も揃ってるならなおさらだ。揃えた上で噛ませることはある」


ユウは黙って聞く。


「決定打が弱いと思いながら、最後に一手だけ確かめに行ったのも悪くない」


そこで、ほんのわずかに声が硬くなる。


「ただし、近い」


ユウが顔を上げる。


「お前は一歩寄って見極める癖があるな」


図星だった。


「見ないで切るには、まだ惜しいと思った」


「そうだろうな」


タチバナは否定しない。


「だが、その惜しい一歩で頭を抜かれる仕事もある。今回は相手が甘かったか、浅かった。次もそうだと思うな」


ユウは短く頷いた。


「……ああ」


「通路の構造を見てたのはいい。逃げ筋を置いてたのもいい。追われてる顔で戻らなかったのもいい」


一つずつ、平らに置かれていく言葉。


褒められているというより、確認されている感触に近い。


「だが、報告はまだ甘い」


ユウの眉がわずかに寄る。


タチバナがすぐに続ける。


「軽い、急いてる、空気が悪い。そこまでは出た。じゃあ、ケースの金具はどうだ。男の手は。袖の落ち方は。荷を持つ時、肩は沈んだか。そういう細部が次に繋がる」


ユウは反射的に思い返す。


ケースの角。

取っ手の傷。

袖の重さ。

指の動き。

荷を持ち上げた時の肩。


「……ケースの金具は片側だけ擦れてた」


口に出しながら、記憶の像が少しずつ輪郭を持つ。


「何度も開け閉めしてるより、急いで別の箱に移した感じだ。袖の中は何か隠してたが、慣れてる隠し方じゃない。荷を持つ手に震えはなかった。ただ、急いてた」


タチバナの目がわずかに細くなる。


「最初からそう言え」


「今思い出した」


「だから甘い」


だが、その声は切ってはいない。


「報告ってのはな、頭の中に残ってる印象を吐くだけじゃ足りん。見たものを掘り返して、仕事に使える形にしろ」


ユウは黙って頷いた。


反論はない。


タチバナはカウンターへ目を向ける。


マスターが、短い鉛筆と安い紙を滑らせてきた。


用意していたのか、今そう判断したのか。

どちらにしても、銀月らしい早さだった。


「顔、靴、袖、ケース、位置関係」


タチバナが数えるように言う。


「思い出せる順でいい。印象で終わらせるな」


ユウは鉛筆を取った。


紙は安物だ。

鉛筆も短く、何人かの手を回ってきた長さしか残っていない。


だが、今必要なのはそれで十分だった。


ユウは書き始める。


痩せた男。

無精髭。

色の抜けたパーカー。

服に対して靴が新しい。

袖の落ち方が不自然。

小さなケース。片側の金具だけ擦れ。

通路入口側、壁へ何かが触れた音。

動いた影、最低一人。


書いていくうちに、頭の中の像が少しずつ固まる。


思い出しているのではない。

掘り返している。


タチバナはそれを黙って見ている。


手元を覗き込むでも、急かすでもない。

ただ、雑に流させないための沈黙をそこへ置いている。


銀月の中ではまた別の卓で、低い笑いが起きた。


誰かが酒を追加し、誰かが椅子を鳴らし、マスターはその全部の真ん中で静かに手を動かしている。


店は回っている。


だが、その回転の中で、必要な話だけが卓の上へしっかり残されている。


ユウが書き終えると、タチバナが紙を引き寄せた。


目を走らせる。


数秒。


それから紙を畳み、ポケットへ入れた。


「いい。最初よりましだ」


最初より、という言い方が妙にこの男らしかった。


褒めるにしても、そこへ甘さを足さない。


カウンターの方から、マスターがタイミングを見計らったみたいに近づいてくる。


「何かお持ちしますか」


タチバナはユウを見た。


「口は開いたな」


「荷より先に」


「そうだ」


それだけ言ってから、タチバナはマスターへ向く。


「炭酸でいい。あと何か腹に入るもんを軽く」


「かしこまりました」


マスターは静かに引く。


ユウはそこでようやく、小さく息を吐いた。


タチバナがその音を拾う。


「気を抜くな」


「抜いてねえよ」


「半分抜いた」


「……うるせえな」


その返しに、タチバナの口元がほんの少しだけ動く。


笑ったと言うほどではない。

だが、昨夜より明らかに硬さが薄い。


入口寄りの卓から声が飛んだ。


「どうだった、坊主。生きて帰れたか」


ユウはそちらを見ずに返す。


「死んでたら今誰が返事してんだよ」


「口は元気そうだな」


「荷は無いみたいだが」


「お前ら」


タチバナが低く言うと、卓の向こうがすぐ静かになる。


その早さに、銀月の中でのこの男の位置がよく出ていた。


やがて、マスターが炭酸と温かい皿を運んでくる。


湯気の立つ簡単な煮込みだった。


豪華ではない。

だが、空腹の腹には十分な匂いだ。


ユウが皿に目を落とすと、タチバナが言う。


「食いながら聞け」


「まだあるのか」


「ある」


即答だった。


「今日の受け渡しは失敗で終わりじゃない。誰が噛んだのか、元からおかしかったのか、どこで漏れたのか。明日から見る」


ユウはスプーンを持つ手を止める。


「どこで漏れたか、か」


「そこを見ないと次も同じことが起きる」


タチバナはグラスに指を添えたまま言った。


「銀月から出た話か。向こう側から漏れたのか。もっと手前で掴まれていたのか」


カウンターの奥で、マスターがグラスを拭く手を止めずに口を開いた。


「店の中で漏らしたのなら、私の責任ですね」


声は穏やかなままだった。


タチバナは驚かない。


「そうだな」


「今のところ、心当たりはありません」


「だろうな」


短い応酬だった。


マスターはそこでようやく目を上げる。


「ですが、絶対と言い切るほど、私は自分を買っていません」


タチバナの口元が、ほんのわずかに動いた。


ユウはそのやり取りを見て、少しだけ分かった気がした。


信用はある。

だが、盲信ではない。


長く持つ関係ほど、雑に信じて終わらせない。


それが、この店の強さなのだろう。


タチバナはユウへ視線を戻した。


「明日は昼過ぎに来い。そこから現場を見る」


「俺も行くのか」


「お前が見た場所だ。お前なしで行ってどうする」


そう言われれば、その通りだった。


ユウは煮込みを一口、口へ運ぶ。


塩気と熱が、空いた腹へ静かに落ちていく。


入口寄りの卓から、大柄な男が声を飛ばした。


「明日は荷、拾ってこいよ」


痩せた男が鼻で笑う。


「拾うより、また生きて戻ってくりゃ十分だろ」


細身の女がグラスを揺らす。


「どっちもやれ」


卓の向こうで小さな笑いが起きる。


ユウは、ほんのわずかだけ口の端を動かした。


「注文多いな」


「銀月だぞ」


大柄な男が肩を揺らす。


「安い酒で済ませてもらえる分、口は出る」


マスターがカウンターの奥から静かに言った。


「高い酒でも同じだと思いますよ」


また笑いが広がる。


「昼過ぎだ。寝坊するな」


「子供じゃねえって」


「子供じゃないなら、言われる前に来い」


ユウは言い返さず、ほんの小さく息だけで笑った。


仕事は終わっていない。


明日は、現場を見る。

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