受け渡し
夜明け前に、一度目が覚めた。
天井裏を走る鼠の音に、右手が枕元のリボルバーへ伸びていた。
掴む直前で、違うと分かる。
ユウは息を吐いた。
眠った気はしない。
それでも、体は動く。
紙片を開く。
スラム外れ。
今日の夕方。
合言葉を、声に出さずに繰り返す。
荷は軽いか。
持つまで分からない。
ユウはメモを畳み、ジャケットの内側へ戻した。
出る時間だった。
その日は、上から落ちる光が弱かった。
下層から空は見えない。
見えるのは、中層プレートの裏側と、配管と、ケーブルの影だけだ。
それでも、外の天気くらいは分かる。
換気塔から落ちる光が鈍く、広告ホログラムの輪郭が湿った空気に滲んでいた。
ユウは日が沈み切る前に寝床を出た。
指定された場所は、ガレージストリートからさらに外した、スラムの外縁寄りだった。
店の灯りは減り、建物の傷みが一段深くなる。
誰がどこで寝ていても不思議じゃない。
街の“まだマシ”が薄れ、“見ない方が楽”が濃くなっていく。
ユウは歩きながら、視線を散らす。
正面。
足元。
横。
上。
曲がり角の奥。
割れた窓。
暗いままの入口。
視線を長く止める場所は作らない。
だが、何も見落とさないようにはしている。
指定の場所は、使われなくなって長い雑居ビルの裏手だった。
正面の通りに面した入口は、とっくに半ば崩れている。
ガラスは割れ、看板の文字は剥げ、何の建物だったのかも今は分からない。
だが、裏へ回ると人が通れる細い通路があり、その奥にごみの回収口みたいな小さな空間が残っていた。
受け渡しなら、いかにもありそうな場所だ。
ありそうすぎる、とも言えた。
ユウは通路の入口を通り過ぎた。
そのまままっすぐ、何気ない顔で二十歩ほど先まで歩く。
壊れた自販機の影に寄り、そこで初めて振り返らずに後ろの空気を探る。
人の流れは薄い。
右手の通りの向こうで、女が一人、子供の手を引いている。
左では、配管の脇に座り込んだ男が頭を垂れたまま動かない。
通路の入口に、今のところ誰かが立つ気配はない。
ただ、完全に死んだ場所というほどでもない。
ユウはそこで一度だけ、上を見た。
二階の窓は割れている。
三階の一つだけ、内側に影が溜まって見えた。
人がいるかどうかまでは読めない。
だが、見られる場所ではある。
そのまま歩き出し、今度は自然な足で通路へ戻る。
曲がり角の手前で速度を落としすぎない。
止まると、“ここへ来た”と見せることになる。
見せていい時と、見せない方がいい時がある。
通路へ入る。
空気が一段冷たくなる。
壁と壁の間に湿気がこもり、日も風も入りにくい。
足元には砕けたガラスと濡れた紙屑。
上ではどこかの配管から、水が細く落ち続けていた。
その音に混じって、奥で人の気配が動く。
いた。
ユウは歩幅を変えないまま奥へ進んだ。
通路の終わり、半ば塞がれた搬入口の前に、男が一人立っている。
歳は三十代後半くらいか。
痩せた体。
色の抜けたパーカー。
顎に無精髭。
手ぶらに見えるが、袖口の落ち方で中に何か隠しているのは分かる。
地元の人間に見えなくはない。
だが、足元だけが少し浮いていた。
靴が新しい。
上は擦れているのに、ソールの端に泥の癖がない。
この辺りを普段歩く靴じゃない。
“こういう時の窓口”としては、少し力が抜けすぎている。
地元の汚れ方とも、仕事の汚れ方とも違う。
男はユウを見ると、少しだけ目を細めた。
「荷は軽いか」
ユウは答えた。
「持つまで分からない」
男の肩の力が、わずかに緩む。
言葉は合っていた。
男は笑おうとして、口元だけで失敗した。
それでも、それで終わりにはしない。
ユウは男の顔を見たまま、周囲を視界の端へ残す。
搬入口の奥。
左の壁。
右の積まれた廃材。
上。
臭い。
足音。
水の落ちる音。
何かがおかしいなら、今のうちに拾わなければならない。
男が振り返り、足元の古びたコンテナケースを引き寄せた。
片手で持てる程度の大きさ。
見た目は工具箱に近い。
汚れてはいるが、外装の傷が少なすぎる。
最近になって別の箱へ移されたか、持ち運びの回数がまだ少ないか。
男がケースを持ち上げた時、ユウは重さを見た。
軽い。
空箱みたいではない。
だが、持ち上げる腕に沈みが足りない。
工具でも、金属部品でもない。
中身は詰まっているが、密度が低い。
男が低く言う。
「これだ。持ってけ」
声は小さい。
小さいが、妙に急いている。
ユウはすぐには手を出さなかった。
「今日は早いな」
何気ない言い方で言う。
男の目が一瞬だけ揺れる。
「何がだ」
「受け渡しだよ。夕方指定にしちゃ、人が少ない」
「暗いからそう見えるだけだろ」
言い返しは早い。
だが、自然ではない。
ユウはケースを見たまま聞く。
「いつもここなのか」
「お前、聞きすぎじゃねえか」
そこで初めて、男の声に棘が出た。
ユウは男を見た。
たしかに聞きすぎだ。
だが、それで苛立つのは話が早すぎる。
受け渡しの窓口なら、もう少し無駄な反応を捨てていてもいい。
背中のどこかが、静かにきしむ。
怪しい。
その一方で、まだ決定打はない。
言葉は合っていた。
相手も一応は来ている。
荷もある。
空気が悪い。
だが、飛び退くほどではない。
そういう曖昧さが、一番質が悪い。
男が苛立ったようにケースを少し持ち上げる。
「持つのか、持たねえのか、どっちだ」
その時だった。
通路の入口の方で、何か硬いものが壁に触れる小さな音がした。
本当に小さい音だった。
だが、この狭さでは目立つ。
配管の水音の合間に、不自然に混じった一度きりの擦過音。
ユウの視線は動かなかった。
動かさないまま、頭の中で通路の形を描く。
入口側。
二人並べば詰まる。
右手の壁は崩れかけ。
左には廃材。
奥の搬入口は半ば塞がれ、抜けるには時間が掛かる。
男がその音に反応しなかったことも、逆に引っかかった。
聞こえていないのか。
聞こえた上で無視したのか。
どちらにしても、今ここで荷物だけ見ている余裕はない。
ユウはようやくケースへ手を伸ばした。
男の目がわずかに動く。
ユウはケースを掴む――その直前で、指先の角度を変えた。
持つ代わりに、ケースの取っ手だけを軽く引いて男の体勢を崩す。
「っ」
男の肩が前へ流れた。
その瞬間、ユウは半歩横へ切る。
通路の中央から壁際へ逃がし、入口と男を一直線に重ねない位置を取る。
次の瞬間、入口側の影が一つ、動いた。
やはりいた。
銃口までは見えない。
だが、ただの通りすがりじゃない。
こちらへ向いた重さがある。
ユウはケースから手を離した。
「悪いが、今日は切る」
男が顔を上げる。
「は――」
最後まで聞かない。
ユウはもう通路の奥へ踏み込まず、そのまま横の廃材を蹴り倒した。
崩れた板と金属パイプが狭い通路へ雪崩れ、視界と足場を一瞬で潰す。
入口側の影が反応するより早く、ユウは来た道を戻らず、通路の途中で見ていた横の亀裂へ身体を滑り込ませた。
元は配管用の整備隙間か何かだろう。
大人一人が無理をすれば抜けられる程度。
昨日のうちに場所を知っていたわけではない。
通ってきた時に、逃げ筋として頭へ置いただけだ。
ジャケットが壁に擦れ、肩口が軋む。
だが止まらない。
背後で怒鳴り声が上がる。
「待て!」
待つ理由はない。
狭い裂け目を抜けると、隣の建物との間にできた、さらに細い空間へ出る。
湿った壁。
積もった埃。
人が日常的に使う道ではない。
だからこそ今は使える。
ユウは振り返らずに走った。
ケースは持っていない。
受け渡しも成立していない。
失敗と言えば失敗だ。
だが、まだ終わっていない。
細道を抜け、崩れた壁の隙間から別の路地へ出る。
出た先は人の少ない裏通りだった。
洗濯物の残骸が風に鳴り、誰も使っていない屋台の骨組みが傾いている。
ここまで来れば、少なくともさっきの狭い通路よりはましだ。
ユウはそこで初めて速度を落とした。
息を整えながら、周囲を見る。
追ってくる足音はない。
さっきの連中がどこまで本気だったのかは分からない。
本気で狩るつもりなら、もっと前で挟む。
あれは脅し寄りか、荷を餌にした軽い漁りか。
どちらにしても、あの場へ戻る理由はもう無かった。
ユウは壁へ背を預け、数秒だけ目を閉じた。
失敗した。
だが、死んでいない。
手ぶらだ。
だが、見たものはある。
合言葉は合っていた。
相手は来た。
荷もあった。
一方で、周囲の空気は悪く、窓口の男は受け渡し慣れした反応ではなかった。
靴も、この辺りのものじゃない。
通路の入口には別の影がいた。
あれが最初から仕込まれていたのか、途中から見ていたのかまでは分からない。
分からないまま持ち帰るには、荷が軽すぎた。
ユウは目を開けた。
上から落ちる光は、さらに弱くなっている。
下層の夕方は、空の色ではなく、上の隙間から落ちる光の細さで分かる。
広告ホログラムの光が、湿った空気の中でぼやけていた。
戻る。
その判断だけは、はっきりしていた。
銀月へ向かって歩き出す。
足は速いが、走らない。
追われている顔で戻れば、それだけで余計なものを背負い込む。
報告は、ちゃんと口でやる。
荷より先に口を開け。
その順番を、今は崩す気がなかった。
ユウはジャケットの内側へ手を入れ、メモがまだあることを確かめた。
紙片は少し汗で湿っていた。
それでも文字は読める。
荷は軽いか。
持つまで分からない。
ユウは紙を戻し、小さく息を吐いた。
街はもう夜へ入ろうとしている。
光は薄い。
人の顔も、路地の底も、見えにくくなる時間だ。
だからこそ、見えたものを持って戻るしかない。




