静かな一杯
マスターが卓へ来たのは、会話がちょうど一段落した頃だった。
足音はほとんどしない。
銀月の床板は古いが、鳴らない踏み方をこの男は知っている。
細いトレーの上に、グラスが二つ。
片方はタチバナの前へ。
琥珀色の酒が、氷の間で静かに揺れている。
もう片方が、ユウの前に静かに置かれた。
透き通った液体。
氷が二つ。
グラスの外側には、薄く水滴が浮き始めている。
ユウは一度だけグラスを見た。
「……酒じゃないな」
「炭酸です」
マスターは穏やかな声で言った。
「見れば分かる」
「念のためです。ここでは、言っておかないと飲んだことにする方もいますので」
そう言って、マスターはほんの少しだけ視線を店内へ流した。
入口寄りの卓から、誰かがわざとらしく咳払いをする。
別の誰かが小さく笑った。
マスターは表情を変えない。
「それに、明日お仕事でしょう」
「子供扱いかよ」
ユウが言うと、マスターは一拍だけ置いた。
「いえ」
いつもの柔らかい声だった。
「タチバナさんに怒られたくありませんので」
向かいでタチバナが、グラスを持ち上げる手を止めた。
「俺は怒ってない」
「そういうことにしておきます」
「してない」
「はい」
マスターは否定しなかった。
肯定もしなかった。
そのやり取りに、近くの卓で小さな笑いが起きる。
タチバナは面倒そうに目だけをそちらへ向けた。
笑っていた男が、咳払いをしてグラスに口をつける。
ユウは炭酸のグラスを手に取った。
冷たい。
指先に伝わる温度で、さっきまで膝の上で握っていた拳の熱をようやく自覚する。
一口飲む。
酒ではなく、薄く割った炭酸だった。
喉を焼かない代わりに、乾いていた口の中を静かに洗っていく。
強い味はしない。
だが、今はそれで十分だった。
向かいでタチバナが、ようやくグラスを持ち上げる。
「緊張してる顔してるな」
唐突でもなく、からかいでもない言い方だった。
ユウはグラスを置いた。
「してない」
「してる」
即答だった。
その短いやり取りに、ユウは目元だけで少しだけ嫌そうな顔をする。
タチバナは構わず酒を一口だけ飲んだ。
「まあ、してないならその方が困る」
「どっちだよ」
「してるのを隠せるなら上等だ。してないなら足りてない」
理屈が通っているのか通っていないのか分からない。
だが、タチバナが本気で絡んでいるわけではないことだけは分かった。
少し前まで卓の上を張っていた重さが、ほんのわずかに緩む。
店の中では、また別の卓で小さな笑いが起きていた。
入口寄りの常連たちは、さっきほど露骨には見てこない。
ただ、完全に興味を失ったわけでもないらしい。時折視線の端にこちらを掠める気配がある。
その中の一人、大柄な男がグラスを片手に声だけ飛ばしてきた。
「おい、坊主」
ユウはそちらを向かないまま返す。
「坊主じゃねえって言ったろ」
「まだ仮だろ、お前」
卓の向こうで低い笑いが起きる。
「マスター、こいつにゃ水で十分じゃねえのか」
「炭酸の方が高いかもしれませんよ」
カウンターの奥から、マスターが穏やかに返した。
その返しに、また小さく笑いが広がる。
露骨に品がいい笑いじゃない。
だが、下卑てもいない。
銀月の笑い方だった。
さっきからかってきた痩せた男が、椅子へ浅く腰掛けたままこちらへ顎をしゃくる。
「タチバナ。あんまり甘やかすなよ」
タチバナは視線を向けもせずに返す。
「甘やかして見えるか?」
「見えねえな」
「なら黙って飲んでろ」
「へいへい」
男は肩を竦め、素直に引いた。
ユウはそのやり取りを聞きながら、もう一口だけ炭酸を飲む。
冷たさが喉を落ちるにつれて、張っていた神経が少しずつ形を変えていく。
緊張が消えたわけじゃない。
だが、ただ張り詰めているだけの時間は終わった。
明日、動く。
戻る。
見られる。
やることが形になった分だけ、息がしやすい。
タチバナがグラスを置いた。
「装備は見た」
それだけで、ユウは顔を上げる。
「足りないのもあるが、今日ここへ来るために揃えてきたのは分かる」
褒めているわけでもない。
だが、見ていなければ言わない言葉だった。
「銃は何持ってる」
「SMGと、リボルバー」
「弾は」
「通常弾中心。リボは質のいい方を回してる」
タチバナは小さく頷いた。
「いい。最初から背伸びして妙なもんを持つよりましだ」
ユウはそこで少しだけ口を開きかける。
タチバナの目が、先を促す。
「……荷の中身、聞かない方がいいんだろ」
「聞かない方がいい」
「じゃあ聞かない」
その返答の早さに、タチバナの口元がほんのわずかだけ動く。
笑ったというほどではないが、さっきより少し温度があった。
「一応言っとくが、興味がないのと、興味を抑えてるのは違う」
「分かってる」
「ならいい」
店の中を、短い沈黙が通る。
居心地が悪い沈黙じゃない。
酒場には珍しくもない、会話がいったん途切れただけの静かな間だった。
ユウはその間に、店の中を改めて見た。
銀月は、綺麗すぎない。
だが、乱れてもいない。
テーブルも椅子も年季が入っているし、壁際の棚に並ぶ瓶のラベルも擦れている。
照明も明るすぎず、薄暗すぎず、客の顔が見える程度には保たれている。
店の奥には個室へ続く扉があり、入口からそこまでの見通しは完全には切れていない。
誰かが暴れればすぐ分かる。
けれど、暴れたくなるほど居心地が悪い空気でもない。
こういう店だから、人が残るのだろうと思った。
タチバナが、不意にそんなユウの視線の動きを見て言う。
「前より、店の見方が変わったな」
ユウは視線を戻した。
「そうか?」
「前は中に入っても、出口と人の手しか見てなかった」
「今も見てる」
「今はそれ以外も見てる」
言い切られて、ユウは返す言葉を少し失う。
否定したところで、この男にはたぶん意味がない。
見えているものを、見えていると言っただけだ。
タチバナはそこで、声の温度を変えずに続けた。
「悪くない」
その一言が、思ったより深く落ちた。
ユウはグラスに触れていた指先へ、少しだけ力を入れる。
表情は変えない。
変えないつもりだった。
だが、そこで何も感じないほど鈍くもない。
入口寄りの卓から、また声が飛ぶ。
「おい、坊主」
今度は、さっきとは別の女の声だった。
ユウが目だけ向けると、細身の女が脚を組んだまま、グラス越しにこちらを見ている。
「明日くたばるなよ」
軽い調子だった。
その卓の向かいにいた男が鼻で笑う。
「縁起でもねえこと言うな」
「先に言っといた方が効くだろ。生きて帰ってこいってやつ」
ユウは、ほんの半拍、間を置いた。
明日。
その響きが、舌の上に残った炭酸より遅れて、胸の奥へ届く。
次の日には、もういなかった女の子がいた。
名前を呼ぶには、まだ少し早い記憶。
薄暗い路地。
濡れた地面。
短く切った黒い髪。
強がるように睨む目。
助けたと思った。
少なくとも、その時は。
けれど次の日には、もういなかった。
グラスの中で、泡が小さく弾ける。
ユウはそれを見てから、残った炭酸を飲み込んだ。
「そっちこそ、俺が戻る前に飲み潰れるなよ」
卓の向こうで笑いが起きる。
女が片眉を上げた。
「言うじゃない」
「前よりマシになったな」
「口だけじゃなきゃいいけどな」
そこまで言って、向こうもそれ以上は引っ張らなかった。
それで十分だとでも言うように、また自分たちの酒へ戻っていく。
タチバナがその様子を見て、低く言う。
「ここじゃ、お前が明日死ぬかどうかを面白がってるんじゃない」
ユウはそちらを見る。
「分かってる」
「ならいい」
短い確認だった。
銀月の連中は優しくない。
甘くもない。
だが、どうでもいい人間にわざわざ声は掛けない。
それくらいの線引きは、ユウにも分かった。
カウンターの奥で、マスターが新しいグラスを拭いている。
手は止まらない。
けれど時々こちらへ流れる視線が、卓の空気を確かめているのが分かる。
タチバナは残っていた酒を一口だけ飲み、グラスを置いた。
「今日はもう帰れ」
ユウが一瞬だけ眉を動かす。
「飲んでかなくていいのか」
「明日動く奴に、今それを勧めるほど俺は暇じゃない」
もっともだ。
もっともすぎて、ユウは小さく息を吐いた。
「分かった」
「寝ろ。装備をもう一回見ろ。寝坊するな。出る前に頭を軽くしとけ」
言いながら、タチバナは一瞬だけ別の若い顔を思い出したように目を細めた。
すぐにその色は消える。
「子供扱いするなよ」
「子供じゃないなら言われる前にやれ」
返しが早い。
しかも正しい。
ユウはグラスの残りを飲み切った。
氷が軽く鳴る。
冷たさが喉を落ちる頃には、もう席を立つ理由は十分にできていた。
立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、静かに響いた。
タチバナは見上げない。
見上げないまま言う。
「ユウ」
呼ばれて、ユウは足を止める。
「戻ったら、まず報告だ」
「分かってる」
「荷より先に口を開け」
「……分かってるって」
タチバナがそこでようやく少しだけ顔を上げた。
「お前は、そういうのを分かったつもりで飛ばしそうだから言ってる」
ユウは一瞬だけ言い返しかけて、やめた。
思い当たる節が無いとは言えない。
その沈黙を、タチバナは否定とも肯定とも受け取らずに言った。
「行け」
それは追い払う言い方ではなかった。
明日へ向かわせる声だった。
ユウは小さく頷く。
卓を離れ、入口へ向かう。
途中でカウンターの前を通ると、マスターが手を止めずに言った。
「お気をつけて」
ユウは足を止めないまま返す。
「また明日」
「ええ」
その返事は静かで、店の灯りみたいに落ち着いていた。
扉の前で一度だけ振り返る。
銀月の中は、もうさっきと同じように回っていた。
常連は酒を飲み、笑い、値踏みし、でも騒ぎすぎず、マスターはその全部の真ん中で手を動かしている。
奥の席にはタチバナがいて、もうこちらを見てはいない。
まだ中に入ったわけじゃない。
正式に置かれたわけでもない。
それでも、扉を開けて入ってきた時とは違う景色に見えた。
戻る場所が欲しいだけなら、たぶん、もっと楽な言い方があった。
拾ってくれ。
置いてくれ。
ここにいさせてくれ。
そのどれも、言うつもりはなかった。
戻る場所が欲しいんじゃない。
戻せる場所が欲しかった。
ユウはそのまま銀月を出た。
外の夜気は、相変わらず鉄と油の匂いを含んでいる。
明日、またここへ戻る。
荷を持って。
見たものを、口で報告して。
自分の足で。
ユウは歩き出した。




