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銀月のロスト  作者: taka
第1章 仮の席
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4/18

条件

「まずは仮だ」


タチバナは、卓の上に置いたグラスへ指を添えた。

薄い氷が、かすかに鳴る。


ユウは待った。


ここで言葉を足しても意味がない。

聞くべきことを聞き終えた顔じゃないことくらい、目の前の男の空気で分かる。


店のざわめきが少しずつ耳へ戻ってくる。

入口寄りの卓で、誰かが低く笑った。

カウンターではマスターが何かを注ぐ音がしている。


銀月の中はいつも通り動いているのに、この卓だけはまだ先へ進んでいない。


タチバナが視線を外さずに言った。


「入れるかどうかの話なら、答えはまだだ」


ユウの肩が、目に見えない程度に固くなる。


拒絶ではない。

だが、受諾でもない。


「正式には置かん」


その言葉を、タチバナは淡々と置いた。


「お前が何を背負う気で来たかは聞いた。次は、お前がどう動くかを見る」


ユウはその言葉を腹の中で繰り返した。


どう動くか。

腕があるか、じゃない。

どう動くか。


「さっき言ったことを忘れるな。ファミリーに入るってのは、椅子が一つ増えるって話じゃない。お前を置いたせいで、こっちが死ぬようなら意味がない」


「……分かってる」


「分かってるって言葉は安い」


即座に返される。


タチバナはそこで初めてグラスを持ち上げ、一口だけ酒を含んだ。

喉を鳴らして飲むような真似はしない。


それだけで、この男が酒に飲まれる側じゃないことが分かる。


グラスを置き、短く息を吐く。


「だから見る」


店の灯りが、義体の輪郭を鈍く撫でた。


「大した仕事は回さない」


その一言に、入口寄りの卓から誰かが鼻を鳴らす気配がした。

聞き耳を立てているのか、ただ酒がうまいだけなのかは分からない。


タチバナは気にしない。


「スラムの外れで、荷を一つ受け取ってこい」


ユウは一度だけ瞬きをした。


思っていたより小さい。

けれど、だから軽いとも限らない。


「受け渡しだ」


タチバナはテーブルの上へ片手を置いたまま、言葉を切らずに続けた。


「指定の場所へ行く。指定の相手から荷を受け取る。銀月に持ち帰る。それだけだ」


「一人で?」


「一人でだ」


間を置かずに返ってくる。


「見張りも付けない。手取り足取りもやらん。道が分からんほど子供でもないだろ」


ユウは「分かる」とだけ返した。


タチバナの目がわずかに細くなる。


「だが、勘違いするな。これは荷運びの試験じゃない」


その声は低いまま、少しだけ硬かった。


「荷を持って帰ること自体は大事だ。だが、それ以上に見るものがある」


卓の上で、タチバナの指が一度だけ動く。

任務の手順を並べるというより、頭の中で線を引いているような動きだった。


「まず、指示を聞けるか。余計な詮索をしすぎないか。空気が怪しい時に、それを怪しいと判断できるか」


ユウは黙って聞いている。


「それと——」


そこでタチバナの声がわずかに落ちた。


「怪しいと思った時に、引けるかだ」


ユウの喉が動いた。


タチバナは続ける。


「ロストの仕事で一番安い死に方は、簡単そうに見える仕事を簡単だと思って死ぬことだ。受け渡しはそういうのが多い。路地一つ、時間一つ、顔ぶれ一つで、昨日までの話が全部変わる」


入口の方で、誰かがグラスを置く音がした。

小さいのに、妙に耳に残る。


「相手が本物か。尾けがあるか。場所が変わっていないか。周りに、いつもいない目があるか」


一つずつ、タチバナは置いていく。


「そういうものを見ろ」


ユウは短く息を吸った。


街を歩く時と同じように、頭の中で任務の輪郭をなぞる。


タチバナがそれを見て、さらに言う。


「荷物は受け取れるなら受け取れ。だが」


そこで一拍、間が入る。


「お前自身を荷より安くするな」


その一言は、静かだった。

静かなのに、重かった。


ユウは目を細めた。


「でも、荷を持ち帰れなきゃ仕事にならないだろ」


タチバナはすぐには返さなかった。


その沈黙の短さだけで、ユウは自分が踏み込んだことを知る。


「そう思う奴から死ぬ」


短い声だった。


ユウの指が、膝の上で止まる。


「荷より自分を優先しろってことか」


「違う」


タチバナは即座に否定した。


「お前一人の話じゃない」


ユウの目がわずかに上がる。


「お前が勝手に死ねば、それで終わりじゃない。誰が回収する。誰が後始末する。どこへ皺寄せが行く。誰が埋める。そういう話だ」


淡々とした口調のまま、言葉だけが冷たく正確だった。


「自分を雑に扱うってのは、自分一人の問題じゃない。ファミリーに入るなら、なおさらだ」


その言葉で、ユウの指が膝の上で止まった。


さっきまでの“自分の覚悟”の話が、そこで初めて“他人に及ぶ現実”へ変わった気がした。


タチバナはその反応を見逃さなかった。


「分かったならいい」


「……ああ」


声は低く、短い。

それ以上は要らないという返事だった。


タチバナはようやくテーブルの端に置いていた小さな紙片へ手を伸ばした。


いつの間に置かれていたのか、薄いメモ用紙が一枚。

たぶんマスター経由だろう。


銀月らしい手際だった。


タチバナはその紙片を見ずに指先で押さえ、ユウの前へ滑らせる。


「場所はここだ」


ユウは紙を取った。


スラムの外れ。

ガレージストリートからさらに外した区画。

表通りの灯りが薄くなる辺りの、古い建物群の一角だった。


「時間は明日の夕方」


「相手は?」


「行けば分かる」


ユウが紙から顔を上げる。


タチバナの目は揺れない。


「名前を知る必要はない。合言葉だけ渡す」


そこでタチバナは声を少し落とした。


店の中にいる誰かへ聞かせないためではなく、任務の言葉として切り替えた温度だった。


「向こうが『荷は軽いか』と聞く。お前は『持つまで分からない』と返せ」


ユウは一度だけ頭の中で繰り返す。


荷は軽いか。

持つまで分からない。


「逆なら?」


「切れ」


即答だった。


「言葉が違う。顔ぶれが違う。時間が妙にずれてる。場所が直前で変わる。周りの空気が悪い。どれでも一つあれば、無理に成立させようとするな」


ユウは紙を握ったまま、ゆっくり頷く。


「受け渡しの相手を助ける必要もない。深入りも要らん。拾える荷だけ拾って戻れ。拾えないなら戻れ」


その線の引き方が、いかにもタチバナらしかった。


優しさではなく、仕事として必要な範囲を切っている。


何も知らないまま突っ込ませるつもりなら、ここまで言葉を割かない。


「……見られてるかもしれないってことか」


ユウがそう聞くと、タチバナは少しだけ顎を引いた。


「かもしれん。違うかもしれん」


「どっちだ」


「それを見て来いって言ってる」


そこで初めて、タチバナの口元がほんのわずかに動いた。


笑ったと言うほどではない。

だが、試す側の顔になったのは分かる。


「答えを持たせて外へ出したら、試しにならん」


ユウはそれを聞いて、短く息を吐いた。


面倒な男だと思う。

思うが、嫌ではない。


最初から全部教えてもらえると思って来たわけでもなかった。


タチバナが最後に言う。


「これは大仕事じゃない。だからこそ、雑にやるな」


その一言で、任務の重さが決まる。


「小さい仕事ほど、癖が出る。舐めるな。気負いすぎるな。持ち帰ることばかり考えるな。戻ることまで含めて仕事だ」


ユウはメモをジャケットの内へしまった。


「分かった」


今度は、はっきり頷く。


タチバナはその動きを見て、そこでようやくグラスへ手を伸ばした。

一口だけ飲み、置く。


「明日、日が落ちる前に出ろ。戻ったら、まず報告だ。荷より先に口を開け」


「……先に荷じゃなくて?」


「荷物は喋らん」


それだけ言って、タチバナは少しだけ椅子に体重を預けた。


「お前は喋る。何を見たか、何を怪しいと思ったか、どこで迷ったか。そこまで聞く」


その言葉で、ユウはこの試しの本当の形を理解する。


ただ荷を運べばいいわけじゃない。

どう見て、どう判断して、どう戻ったか。


そこまで含めて見られる。


ユウは短く返した。


「ちゃんと戻る」


タチバナの目が一瞬だけ細くなる。


「口で言うな。戻ってから言え」


その返しに、ユウの喉の奥で小さく笑いになりかけたものが消える。


代わりに、胸の奥へ静かな熱が落ちた。


簡単な仕事ではない。

だが、無理な仕事でもない。


見られている。

試されている。


それで十分だった。


カウンターの方から、マスターが二つのグラスを運んでくる気配がする。

店のざわめきは変わらない。


銀月の夜は、何事もなかったみたいに続いている。


けれど、ユウにとっては違った。


扉の前で止まっていたものが、ようやく動いた。


試される。


それでいい。


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