条件
「まずは仮だ」
タチバナは、卓の上に置いたグラスへ指を添えた。
薄い氷が、かすかに鳴る。
ユウは待った。
ここで言葉を足しても意味がない。
聞くべきことを聞き終えた顔じゃないことくらい、目の前の男の空気で分かる。
店のざわめきが少しずつ耳へ戻ってくる。
入口寄りの卓で、誰かが低く笑った。
カウンターではマスターが何かを注ぐ音がしている。
銀月の中はいつも通り動いているのに、この卓だけはまだ先へ進んでいない。
タチバナが視線を外さずに言った。
「入れるかどうかの話なら、答えはまだだ」
ユウの肩が、目に見えない程度に固くなる。
拒絶ではない。
だが、受諾でもない。
「正式には置かん」
その言葉を、タチバナは淡々と置いた。
「お前が何を背負う気で来たかは聞いた。次は、お前がどう動くかを見る」
ユウはその言葉を腹の中で繰り返した。
どう動くか。
腕があるか、じゃない。
どう動くか。
「さっき言ったことを忘れるな。ファミリーに入るってのは、椅子が一つ増えるって話じゃない。お前を置いたせいで、こっちが死ぬようなら意味がない」
「……分かってる」
「分かってるって言葉は安い」
即座に返される。
タチバナはそこで初めてグラスを持ち上げ、一口だけ酒を含んだ。
喉を鳴らして飲むような真似はしない。
それだけで、この男が酒に飲まれる側じゃないことが分かる。
グラスを置き、短く息を吐く。
「だから見る」
店の灯りが、義体の輪郭を鈍く撫でた。
「大した仕事は回さない」
その一言に、入口寄りの卓から誰かが鼻を鳴らす気配がした。
聞き耳を立てているのか、ただ酒がうまいだけなのかは分からない。
タチバナは気にしない。
「スラムの外れで、荷を一つ受け取ってこい」
ユウは一度だけ瞬きをした。
思っていたより小さい。
けれど、だから軽いとも限らない。
「受け渡しだ」
タチバナはテーブルの上へ片手を置いたまま、言葉を切らずに続けた。
「指定の場所へ行く。指定の相手から荷を受け取る。銀月に持ち帰る。それだけだ」
「一人で?」
「一人でだ」
間を置かずに返ってくる。
「見張りも付けない。手取り足取りもやらん。道が分からんほど子供でもないだろ」
ユウは「分かる」とだけ返した。
タチバナの目がわずかに細くなる。
「だが、勘違いするな。これは荷運びの試験じゃない」
その声は低いまま、少しだけ硬かった。
「荷を持って帰ること自体は大事だ。だが、それ以上に見るものがある」
卓の上で、タチバナの指が一度だけ動く。
任務の手順を並べるというより、頭の中で線を引いているような動きだった。
「まず、指示を聞けるか。余計な詮索をしすぎないか。空気が怪しい時に、それを怪しいと判断できるか」
ユウは黙って聞いている。
「それと——」
そこでタチバナの声がわずかに落ちた。
「怪しいと思った時に、引けるかだ」
ユウの喉が動いた。
タチバナは続ける。
「ロストの仕事で一番安い死に方は、簡単そうに見える仕事を簡単だと思って死ぬことだ。受け渡しはそういうのが多い。路地一つ、時間一つ、顔ぶれ一つで、昨日までの話が全部変わる」
入口の方で、誰かがグラスを置く音がした。
小さいのに、妙に耳に残る。
「相手が本物か。尾けがあるか。場所が変わっていないか。周りに、いつもいない目があるか」
一つずつ、タチバナは置いていく。
「そういうものを見ろ」
ユウは短く息を吸った。
街を歩く時と同じように、頭の中で任務の輪郭をなぞる。
タチバナがそれを見て、さらに言う。
「荷物は受け取れるなら受け取れ。だが」
そこで一拍、間が入る。
「お前自身を荷より安くするな」
その一言は、静かだった。
静かなのに、重かった。
ユウは目を細めた。
「でも、荷を持ち帰れなきゃ仕事にならないだろ」
タチバナはすぐには返さなかった。
その沈黙の短さだけで、ユウは自分が踏み込んだことを知る。
「そう思う奴から死ぬ」
短い声だった。
ユウの指が、膝の上で止まる。
「荷より自分を優先しろってことか」
「違う」
タチバナは即座に否定した。
「お前一人の話じゃない」
ユウの目がわずかに上がる。
「お前が勝手に死ねば、それで終わりじゃない。誰が回収する。誰が後始末する。どこへ皺寄せが行く。誰が埋める。そういう話だ」
淡々とした口調のまま、言葉だけが冷たく正確だった。
「自分を雑に扱うってのは、自分一人の問題じゃない。ファミリーに入るなら、なおさらだ」
その言葉で、ユウの指が膝の上で止まった。
さっきまでの“自分の覚悟”の話が、そこで初めて“他人に及ぶ現実”へ変わった気がした。
タチバナはその反応を見逃さなかった。
「分かったならいい」
「……ああ」
声は低く、短い。
それ以上は要らないという返事だった。
タチバナはようやくテーブルの端に置いていた小さな紙片へ手を伸ばした。
いつの間に置かれていたのか、薄いメモ用紙が一枚。
たぶんマスター経由だろう。
銀月らしい手際だった。
タチバナはその紙片を見ずに指先で押さえ、ユウの前へ滑らせる。
「場所はここだ」
ユウは紙を取った。
スラムの外れ。
ガレージストリートからさらに外した区画。
表通りの灯りが薄くなる辺りの、古い建物群の一角だった。
「時間は明日の夕方」
「相手は?」
「行けば分かる」
ユウが紙から顔を上げる。
タチバナの目は揺れない。
「名前を知る必要はない。合言葉だけ渡す」
そこでタチバナは声を少し落とした。
店の中にいる誰かへ聞かせないためではなく、任務の言葉として切り替えた温度だった。
「向こうが『荷は軽いか』と聞く。お前は『持つまで分からない』と返せ」
ユウは一度だけ頭の中で繰り返す。
荷は軽いか。
持つまで分からない。
「逆なら?」
「切れ」
即答だった。
「言葉が違う。顔ぶれが違う。時間が妙にずれてる。場所が直前で変わる。周りの空気が悪い。どれでも一つあれば、無理に成立させようとするな」
ユウは紙を握ったまま、ゆっくり頷く。
「受け渡しの相手を助ける必要もない。深入りも要らん。拾える荷だけ拾って戻れ。拾えないなら戻れ」
その線の引き方が、いかにもタチバナらしかった。
優しさではなく、仕事として必要な範囲を切っている。
何も知らないまま突っ込ませるつもりなら、ここまで言葉を割かない。
「……見られてるかもしれないってことか」
ユウがそう聞くと、タチバナは少しだけ顎を引いた。
「かもしれん。違うかもしれん」
「どっちだ」
「それを見て来いって言ってる」
そこで初めて、タチバナの口元がほんのわずかに動いた。
笑ったと言うほどではない。
だが、試す側の顔になったのは分かる。
「答えを持たせて外へ出したら、試しにならん」
ユウはそれを聞いて、短く息を吐いた。
面倒な男だと思う。
思うが、嫌ではない。
最初から全部教えてもらえると思って来たわけでもなかった。
タチバナが最後に言う。
「これは大仕事じゃない。だからこそ、雑にやるな」
その一言で、任務の重さが決まる。
「小さい仕事ほど、癖が出る。舐めるな。気負いすぎるな。持ち帰ることばかり考えるな。戻ることまで含めて仕事だ」
ユウはメモをジャケットの内へしまった。
「分かった」
今度は、はっきり頷く。
タチバナはその動きを見て、そこでようやくグラスへ手を伸ばした。
一口だけ飲み、置く。
「明日、日が落ちる前に出ろ。戻ったら、まず報告だ。荷より先に口を開け」
「……先に荷じゃなくて?」
「荷物は喋らん」
それだけ言って、タチバナは少しだけ椅子に体重を預けた。
「お前は喋る。何を見たか、何を怪しいと思ったか、どこで迷ったか。そこまで聞く」
その言葉で、ユウはこの試しの本当の形を理解する。
ただ荷を運べばいいわけじゃない。
どう見て、どう判断して、どう戻ったか。
そこまで含めて見られる。
ユウは短く返した。
「ちゃんと戻る」
タチバナの目が一瞬だけ細くなる。
「口で言うな。戻ってから言え」
その返しに、ユウの喉の奥で小さく笑いになりかけたものが消える。
代わりに、胸の奥へ静かな熱が落ちた。
簡単な仕事ではない。
だが、無理な仕事でもない。
見られている。
試されている。
それで十分だった。
カウンターの方から、マスターが二つのグラスを運んでくる気配がする。
店のざわめきは変わらない。
銀月の夜は、何事もなかったみたいに続いている。
けれど、ユウにとっては違った。
扉の前で止まっていたものが、ようやく動いた。
試される。
それでいい。




