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銀月のロスト  作者: taka
第1章 仮の席
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3/17

問い

「俺を、ロストとして使ってくれ」


ユウの声が、卓の上に落ちた。


店のざわめきは消えていない。

グラスの触れ合う小さな音も、誰かが椅子を引く気配も、遠くではちゃんと続いている。


なのに、この卓の周りだけ、別の空気で切り分けられたみたいに静かだった。


タチバナの顔に、すぐ変化は出ない。


驚きもしなければ、笑いもしない。

ただ、そう来たかとでも言うみたいに、ほんのわずかに瞼が下がっただけだった。


「そうか」


短い返事。


それで終わらせるには、この男は現実を知りすぎている。


タチバナはグラスに手を伸ばしかけて、やめた。

指先が木の天板を一度だけ軽く叩く。


義体の入った腕の、重すぎない音だった。


「ロストとして使え、か」


その言葉を、確認するみたいに繰り返す。


「お前なりに、準備してきたんだろうな」


責める調子ではない。

だが、甘くもなかった。


ユウは黙っていた。


そこで慌てて言葉を足すのは違うと分かっている。

ただ、黙って全部を飲むために来たわけでもない。


「準備はした」


ユウは短く言った。


「装備も揃えた。撃つ練習もした。走り方も変えた。前みたいに、ただ逃げるだけじゃない」


タチバナは黙って聞いている。


その沈黙に押される前に、ユウは続けた。


「下層で死なない方法なら、嫌でも覚えてる。迷えば死ぬ。止まれば食われる。見えたもの全部に手を伸ばしてたら、自分も沈む」


言ってから、喉の奥が少し乾いた。


自分で口にした言葉なのに、路地の暗さが一瞬だけ脳裏をよぎる。

薄い服の子供。動かない影。見て、それ以上を切った感覚。


タチバナの目は逸れない。


「だから、分かってるつもりか」


ユウは息を止めた。


「……違うのか」


「違う」


即答だった。


タチバナの声は荒くならない。

それなのに、言葉だけが正面から来る。


「それは、死なないための話だ」


ユウの指先が、膝の上でわずかに動いた。


「ロストの仕事は、それだけじゃ済まない」


その時だった。


タチバナの右手が、卓の下でわずかに動いた。


音はなかった。

少なくとも、普通の耳にはそう聞こえたはずだった。


けれどユウの体は、考えるより先に動いていた。


椅子の脚が床を擦る。

上体が半歩ずれ、右肩が沈む。

右手が腰へ落ち、視線だけが一直線に前を捉える。


遅れて、気配の正体に気づく。


銃口だった。


タチバナの手に握られた銃が、さっきまでユウの胸があった位置をかすめるように向いている。


撃たれれば終わる位置。

だが、撃つ前に潰せるかもしれない距離。


その二つを、体が勝手に計っていた。


店の音が、一拍だけ止まる。


からかっていた連中も、カウンターの常連も、こちらを見る。

マスターだけは、グラスに手を添えたまま動かなかった。


タチバナは片手で銃を持ったまま、何でもない顔で言った。


「……上げてきたか」


ユウは構えを解かない。


「いきなりやるなよ」


「撃ってない」


短い返しだった。


タチバナの目は銃口ではなく、ユウを見ていた。

反応そのものではなく、反応の後に何を選ぶかを見ている目だった。


タチバナの視線が、ユウの足元から腰、胸元へ流れる。


「神経、触ってるな。肋の裏も入れてる」


一瞬だけ、ユウの呼吸が浅くなった。


見ただけで分かるのか、と思った。

いや、見ただけではない。


歩き方。

肩の落とし方。

腰へ手を落とす時の速度。

逃げるための癖に、後から足した改造の癖。


タチバナは全部をまとめて見ている。


「……分かるのかよ」


「歩き方でな」


タチバナは銃を下げた。


それで、止まっていた店の音がゆっくり戻る。

誰かが息を吐く。

氷がグラスの中で小さく鳴る。


さっきまで軽口を叩いていた男たちの目の色が、少し変わっていた。


からかう相手を見る目ではない。

計る相手を見る目だ。


ユウはゆっくりと右手を膝に戻した。


構えを解く。

椅子に座り直す。


心臓の音だけが、少し遅れて耳の奥に残った。


タチバナは銃をしまい、何事もなかったように話を戻した。


「反応は悪くない。装備も、前に比べりゃ揃えてきた」


褒めているようには聞こえない。

ただ事実を置いているだけだった。


「だが、それで足りるかは別だ」


ユウは黙って聞いた。


タチバナは店の中を一度だけ見た。


常連たちはそれぞれの卓で酒を飲んでいる。

こちらを見ている者もいれば、見ていないふりをしている者もいる。


マスターはカウンターの奥で手を動かしていたが、その実、この卓の音はきちんと拾っているはずだった。


タチバナの目が、再びユウに戻る。


「今ので、お前は死ななかったかもしれない」


ユウは答えない。


「だが、隣に守る相手がいたらどうする」


ユウの喉が、わずかに動いた。


「お前一人なら、避ければいい。隠れればいい。相手より先に抜けばいい。死ななければ勝ちだ」


タチバナの声は低いまま続く。


「だが仕事は、それで終わらん」


卓の上に置かれたランプの淡い光が、タチバナの頬の線を鈍く照らしていた。


「荷を持って帰る。人を連れて帰る。撃つなと言われた相手を撃たずに止める。壊すなと言われた物を壊さずに奪う。死なせるなと言われた奴を、死なせずに戻す」


ユウは膝の上の拳を握った。


「……分かってる」


「分かってない」


また、即答だった。


ユウの目が細くなる。


タチバナはそれを見ても、声を荒げない。


「お前が知ってるのは、逃げ方だ。隠れ方、噛みつき方、見捨て方、拾い方。下層で生きるには必要だ。そこは否定しない」


否定しない。


その言葉が、かえって刺さった。


「だが、ロストは逃げるだけじゃ済まない。誰もやりたがらない危険を、金に換える連中だ」


タチバナは淡々と続けた。


「企業に使われる。だが企業の人間じゃない。裏の窓口からも仕事が来る。だが裏社会の身内でもない。何かが起きりゃ前に出される。都合が悪くなりゃ切られる。死んでも表じゃ大した話にならん」


ユウは黙って聞いていた。


「回収、護衛、輸送、駆除、破壊、隠蔽。仕事の名前はいろいろ付く」


タチバナの声に、余計な熱はない。

だからこそ、その一つ一つが重い。


「依頼書の文字なんざ当てにならん。簡単な回収だと言って中を開けりゃ、自立兵器がいることもある。輸送護衛のはずが、最初から囮にされてることもある。生け捕りで持ち帰れと言われて、運び込んだ先が地獄だったこともある」


「なら、疑えばいい」


ユウは口を挟んだ。


タチバナの目が、わずかに動く。


ユウは続ける。


「依頼も、相手も、場所も。全部そのまま信じなきゃいい。罠なら避ける。危ないなら引く。相手が嘘をついてるなら――」


「それで済むなら、誰も死なん」


タチバナが切った。


声は荒くない。

けれど、ユウの言葉を最後まで進ませる気もなかった。


「疑うのは前提だ。情報を洗うのも前提だ。危ないと分かったら引くのも前提だ」


タチバナの指が、卓の上を一度だけ叩く。


「問題は、疑っても分からない時だ。引けば死ぬ奴がいる時だ。罠だと分かっていても、踏まなきゃならん時だ」


ユウは言葉を失った。


「その時に、お前は何を捨てる。何を持って帰る。誰を切って、誰を連れて戻る」


そこで、タチバナの目がさらに細くなる。


「ロストの仕事は、危険を見抜くことじゃない」


一拍。


「見抜いた後に、間違えないことだ」


その顔には、見せつけるような凄みはない。

ただ、本当にそういう場所を歩いてきた人間だけが持つ、乾いた確かさがあった。


「生きて帰るだけでも評価になる。逆に言えば、それだけ死ぬ」


そこで、ほんの一拍、間が空いた。


ユウはその間の意味を読んだ。

読むしかなかった。


タチバナの目が少しだけ細くなる。


「ファミリーに入るってのは、稼ぎ口が増えるって話じゃない。寝床ができるって話でもない」


静かな声だった。


「自分の判断一つで、隣にいる相手を死なせる側にもなるってことだ」


ユウの指先が、膝の上でわずかに動いた。


「守るって言葉は軽い。だが現実は軽くない。お前が迷ったせいで死ぬこともある。お前を庇ったせいで死ぬこともある。逆に、お前が切らなきゃならん時も来る」


ユウの指が、膝の上でわずかに止まった。


「……切るのも、守るうちか」


タチバナは、少しだけ目を細めた。


「そう言えるようになるまでに、大抵は誰かが死ぬ」


店のどこかで、氷が鳴った。


遠い音なのに、妙にはっきり耳に残る。


「ロストは格好いい仕事じゃない。長くやれてる奴が上って言われるのも、強いからじゃない。崩れず、残り続けてるからだ。装備を手抜きしない。情報を軽く見ない。引く時は引く。生き残るためなら、みっともないことも飲み込む」


タチバナはそこで初めてグラスを持ち上げた。


だが、口はつけない。

ただ手の中で重さを確かめるみたいに持って、それからまた静かに置く。


「お前は下層を知ってる。ガキじゃない。そこまでは俺も分かってる」


その言葉に、少しだけ違う温度が混じった。

見極めるだけの声ではなくなる。


「だが、それで足りると思うな。下層で生き延びたことと、人を背負って仕事に出ることは別だ」


ユウは口を開いた。


今度は閉じなかった。


「……俺は、逃げに来たんじゃない」


タチバナはすぐに返した。


「知ってる」


その返しが早すぎて、ユウの方が一瞬詰まる。


「だから聞いてる。逃げずに、何を背負う気でいる」


言葉が、卓の上に落ちた。


ここに入るってのは、守られる側に入ることじゃない。

この卓の向こう側に座る側になるということだ。


そう言われているのと同じだった。


ユウがここへ来た理由を、まるで先回りして言葉にされたみたいだった。


拾われたいわけじゃない。

寝床だけ欲しいわけでもない。


それじゃ足りないから、ここへ来た。


タチバナが低く言う。


「今ならまだ引ける」


その一言で、空気がさらに静かになる。


「お前が来たことは無駄じゃない。準備してきたのも分かる。だが、ここで引くなら、それは逃げじゃない。分からないまま首を突っ込むより、よほどましだ」


ユウは息を吸った。


肺に入った空気が少し冷たい。


タチバナの目が、真っ直ぐこちらを射抜く。


「居場所が欲しいだけなら、やめとけ」


声は低いまま、少しも揺れない。


「お前は何を背負うつもりで、ここに来た」


問いが卓の上に落ちた。


軽くはない。

だが、脅しでもなかった。


最後の確認だ。


分からないまま入れる気はない。

だが、分かった上で言うなら聞く。


そういう問いだった。


ユウは自分の手を見た。


細かい傷跡。

擦れた拳。

汚れは落としてきたが、消せるものじゃない。


腰の重みも、肩に残る癖も、ここまで歩いてきた時間も、全部いまの自分に繋がっている。


少しだけ、息を吐く。


それから顔を上げた。


「居場所だけ欲しいなら、来てない」


言葉は短かった。

だが、迷いはない。

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