問い
「俺を、ロストとして使ってくれ」
ユウの声が、卓の上に落ちた。
店のざわめきは消えていない。
グラスの触れ合う小さな音も、誰かが椅子を引く気配も、遠くではちゃんと続いている。
なのに、この卓の周りだけ、別の空気で切り分けられたみたいに静かだった。
タチバナの顔に、すぐ変化は出ない。
驚きもしなければ、笑いもしない。
ただ、そう来たかとでも言うみたいに、ほんのわずかに瞼が下がっただけだった。
「そうか」
短い返事。
それで終わらせるには、この男は現実を知りすぎている。
タチバナはグラスに手を伸ばしかけて、やめた。
指先が木の天板を一度だけ軽く叩く。
義体の入った腕の、重すぎない音だった。
「ロストとして使え、か」
その言葉を、確認するみたいに繰り返す。
「お前なりに、準備してきたんだろうな」
責める調子ではない。
だが、甘くもなかった。
ユウは黙っていた。
そこで慌てて言葉を足すのは違うと分かっている。
ただ、黙って全部を飲むために来たわけでもない。
「準備はした」
ユウは短く言った。
「装備も揃えた。撃つ練習もした。走り方も変えた。前みたいに、ただ逃げるだけじゃない」
タチバナは黙って聞いている。
その沈黙に押される前に、ユウは続けた。
「下層で死なない方法なら、嫌でも覚えてる。迷えば死ぬ。止まれば食われる。見えたもの全部に手を伸ばしてたら、自分も沈む」
言ってから、喉の奥が少し乾いた。
自分で口にした言葉なのに、路地の暗さが一瞬だけ脳裏をよぎる。
薄い服の子供。動かない影。見て、それ以上を切った感覚。
タチバナの目は逸れない。
「だから、分かってるつもりか」
ユウは息を止めた。
「……違うのか」
「違う」
即答だった。
タチバナの声は荒くならない。
それなのに、言葉だけが正面から来る。
「それは、死なないための話だ」
ユウの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「ロストの仕事は、それだけじゃ済まない」
その時だった。
タチバナの右手が、卓の下でわずかに動いた。
音はなかった。
少なくとも、普通の耳にはそう聞こえたはずだった。
けれどユウの体は、考えるより先に動いていた。
椅子の脚が床を擦る。
上体が半歩ずれ、右肩が沈む。
右手が腰へ落ち、視線だけが一直線に前を捉える。
遅れて、気配の正体に気づく。
銃口だった。
タチバナの手に握られた銃が、さっきまでユウの胸があった位置をかすめるように向いている。
撃たれれば終わる位置。
だが、撃つ前に潰せるかもしれない距離。
その二つを、体が勝手に計っていた。
店の音が、一拍だけ止まる。
からかっていた連中も、カウンターの常連も、こちらを見る。
マスターだけは、グラスに手を添えたまま動かなかった。
タチバナは片手で銃を持ったまま、何でもない顔で言った。
「……上げてきたか」
ユウは構えを解かない。
「いきなりやるなよ」
「撃ってない」
短い返しだった。
タチバナの目は銃口ではなく、ユウを見ていた。
反応そのものではなく、反応の後に何を選ぶかを見ている目だった。
タチバナの視線が、ユウの足元から腰、胸元へ流れる。
「神経、触ってるな。肋の裏も入れてる」
一瞬だけ、ユウの呼吸が浅くなった。
見ただけで分かるのか、と思った。
いや、見ただけではない。
歩き方。
肩の落とし方。
腰へ手を落とす時の速度。
逃げるための癖に、後から足した改造の癖。
タチバナは全部をまとめて見ている。
「……分かるのかよ」
「歩き方でな」
タチバナは銃を下げた。
それで、止まっていた店の音がゆっくり戻る。
誰かが息を吐く。
氷がグラスの中で小さく鳴る。
さっきまで軽口を叩いていた男たちの目の色が、少し変わっていた。
からかう相手を見る目ではない。
計る相手を見る目だ。
ユウはゆっくりと右手を膝に戻した。
構えを解く。
椅子に座り直す。
心臓の音だけが、少し遅れて耳の奥に残った。
タチバナは銃をしまい、何事もなかったように話を戻した。
「反応は悪くない。装備も、前に比べりゃ揃えてきた」
褒めているようには聞こえない。
ただ事実を置いているだけだった。
「だが、それで足りるかは別だ」
ユウは黙って聞いた。
タチバナは店の中を一度だけ見た。
常連たちはそれぞれの卓で酒を飲んでいる。
こちらを見ている者もいれば、見ていないふりをしている者もいる。
マスターはカウンターの奥で手を動かしていたが、その実、この卓の音はきちんと拾っているはずだった。
タチバナの目が、再びユウに戻る。
「今ので、お前は死ななかったかもしれない」
ユウは答えない。
「だが、隣に守る相手がいたらどうする」
ユウの喉が、わずかに動いた。
「お前一人なら、避ければいい。隠れればいい。相手より先に抜けばいい。死ななければ勝ちだ」
タチバナの声は低いまま続く。
「だが仕事は、それで終わらん」
卓の上に置かれたランプの淡い光が、タチバナの頬の線を鈍く照らしていた。
「荷を持って帰る。人を連れて帰る。撃つなと言われた相手を撃たずに止める。壊すなと言われた物を壊さずに奪う。死なせるなと言われた奴を、死なせずに戻す」
ユウは膝の上の拳を握った。
「……分かってる」
「分かってない」
また、即答だった。
ユウの目が細くなる。
タチバナはそれを見ても、声を荒げない。
「お前が知ってるのは、逃げ方だ。隠れ方、噛みつき方、見捨て方、拾い方。下層で生きるには必要だ。そこは否定しない」
否定しない。
その言葉が、かえって刺さった。
「だが、ロストは逃げるだけじゃ済まない。誰もやりたがらない危険を、金に換える連中だ」
タチバナは淡々と続けた。
「企業に使われる。だが企業の人間じゃない。裏の窓口からも仕事が来る。だが裏社会の身内でもない。何かが起きりゃ前に出される。都合が悪くなりゃ切られる。死んでも表じゃ大した話にならん」
ユウは黙って聞いていた。
「回収、護衛、輸送、駆除、破壊、隠蔽。仕事の名前はいろいろ付く」
タチバナの声に、余計な熱はない。
だからこそ、その一つ一つが重い。
「依頼書の文字なんざ当てにならん。簡単な回収だと言って中を開けりゃ、自立兵器がいることもある。輸送護衛のはずが、最初から囮にされてることもある。生け捕りで持ち帰れと言われて、運び込んだ先が地獄だったこともある」
「なら、疑えばいい」
ユウは口を挟んだ。
タチバナの目が、わずかに動く。
ユウは続ける。
「依頼も、相手も、場所も。全部そのまま信じなきゃいい。罠なら避ける。危ないなら引く。相手が嘘をついてるなら――」
「それで済むなら、誰も死なん」
タチバナが切った。
声は荒くない。
けれど、ユウの言葉を最後まで進ませる気もなかった。
「疑うのは前提だ。情報を洗うのも前提だ。危ないと分かったら引くのも前提だ」
タチバナの指が、卓の上を一度だけ叩く。
「問題は、疑っても分からない時だ。引けば死ぬ奴がいる時だ。罠だと分かっていても、踏まなきゃならん時だ」
ユウは言葉を失った。
「その時に、お前は何を捨てる。何を持って帰る。誰を切って、誰を連れて戻る」
そこで、タチバナの目がさらに細くなる。
「ロストの仕事は、危険を見抜くことじゃない」
一拍。
「見抜いた後に、間違えないことだ」
その顔には、見せつけるような凄みはない。
ただ、本当にそういう場所を歩いてきた人間だけが持つ、乾いた確かさがあった。
「生きて帰るだけでも評価になる。逆に言えば、それだけ死ぬ」
そこで、ほんの一拍、間が空いた。
ユウはその間の意味を読んだ。
読むしかなかった。
タチバナの目が少しだけ細くなる。
「ファミリーに入るってのは、稼ぎ口が増えるって話じゃない。寝床ができるって話でもない」
静かな声だった。
「自分の判断一つで、隣にいる相手を死なせる側にもなるってことだ」
ユウの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「守るって言葉は軽い。だが現実は軽くない。お前が迷ったせいで死ぬこともある。お前を庇ったせいで死ぬこともある。逆に、お前が切らなきゃならん時も来る」
ユウの指が、膝の上でわずかに止まった。
「……切るのも、守るうちか」
タチバナは、少しだけ目を細めた。
「そう言えるようになるまでに、大抵は誰かが死ぬ」
店のどこかで、氷が鳴った。
遠い音なのに、妙にはっきり耳に残る。
「ロストは格好いい仕事じゃない。長くやれてる奴が上って言われるのも、強いからじゃない。崩れず、残り続けてるからだ。装備を手抜きしない。情報を軽く見ない。引く時は引く。生き残るためなら、みっともないことも飲み込む」
タチバナはそこで初めてグラスを持ち上げた。
だが、口はつけない。
ただ手の中で重さを確かめるみたいに持って、それからまた静かに置く。
「お前は下層を知ってる。ガキじゃない。そこまでは俺も分かってる」
その言葉に、少しだけ違う温度が混じった。
見極めるだけの声ではなくなる。
「だが、それで足りると思うな。下層で生き延びたことと、人を背負って仕事に出ることは別だ」
ユウは口を開いた。
今度は閉じなかった。
「……俺は、逃げに来たんじゃない」
タチバナはすぐに返した。
「知ってる」
その返しが早すぎて、ユウの方が一瞬詰まる。
「だから聞いてる。逃げずに、何を背負う気でいる」
言葉が、卓の上に落ちた。
ここに入るってのは、守られる側に入ることじゃない。
この卓の向こう側に座る側になるということだ。
そう言われているのと同じだった。
ユウがここへ来た理由を、まるで先回りして言葉にされたみたいだった。
拾われたいわけじゃない。
寝床だけ欲しいわけでもない。
それじゃ足りないから、ここへ来た。
タチバナが低く言う。
「今ならまだ引ける」
その一言で、空気がさらに静かになる。
「お前が来たことは無駄じゃない。準備してきたのも分かる。だが、ここで引くなら、それは逃げじゃない。分からないまま首を突っ込むより、よほどましだ」
ユウは息を吸った。
肺に入った空気が少し冷たい。
タチバナの目が、真っ直ぐこちらを射抜く。
「居場所が欲しいだけなら、やめとけ」
声は低いまま、少しも揺れない。
「お前は何を背負うつもりで、ここに来た」
問いが卓の上に落ちた。
軽くはない。
だが、脅しでもなかった。
最後の確認だ。
分からないまま入れる気はない。
だが、分かった上で言うなら聞く。
そういう問いだった。
ユウは自分の手を見た。
細かい傷跡。
擦れた拳。
汚れは落としてきたが、消せるものじゃない。
腰の重みも、肩に残る癖も、ここまで歩いてきた時間も、全部いまの自分に繋がっている。
少しだけ、息を吐く。
それから顔を上げた。
「居場所だけ欲しいなら、来てない」
言葉は短かった。
だが、迷いはない。




