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銀月のロスト  作者: taka
第1章 仮の席
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2/18

銀月

ユウが扉を押すと、外の夜気が背中からすべり込むように店内へ流れた。


すぐに、木と酒の匂いがそれを押し返してくる。


銀月の空気は、通りのそれとは違った。


清潔というほど綺麗に整っているわけじゃない。

磨きすぎていない木の天板。使い込まれた椅子。古い酒瓶。わずかに残る煙草の名残。


どれも下層の店らしい雑さはある。

それでも、油と排気と湿った鉄の匂いに慣れた鼻には、十分に落ち着いた匂いだった。


扉が閉まる音に、何人かがこちらを見る。


カウンター。

壁際のテーブル。

入口から奥へ抜ける視線の通り道。


店の中には二組、いや三組か、ロストらしい連中が散っていた。声はある。笑いもある。だが、どの卓も騒ぎすぎてはいない。


気を抜いているように見えて、実際には抜いていない。


ユウは店の中を一度だけ見渡し、背後の扉から手を離した。


その動きだけで、いくつかの視線の質が変わる。


見慣れない顔ではない。

だが、馴染みというほどでもない。


見たことはある。

どこで見たかは覚えていない。


そういう顔を見る目だった。


入口に近いテーブルに座っていた大柄な男が、グラスを片手に口の端を上げた。


「お。誰かと思や、野良犬んとこの坊主じゃねえか」


向かいにいた痩せた男が鼻で笑う。


「死んでなかったんだな」


悪意がないわけではない。

だが、本気で喧嘩を売っている温度でもない。


からかい半分。試し半分。

知らない顔じゃないと認めた上で、どこまで返すか見ているだけだ。


ユウはそちらを見た。


「死んでたら、ここまで歩いてこない」


一拍置いて、男たちが笑った。


「口は回るようになったじゃねえか」


「前はもっと噛みつく目してた気がするがな」


ユウは返さない。


言葉を足すほど得はない。

店に入った瞬間から喧嘩腰でいるほど、ガキでもない。


そのまま歩き出そうとしたところで、別の卓から女の声が飛んだ。


「坊や、酒飲める歳になった?」


声音は面白がっている。

けれど、目は笑っていない。


値踏みする側の目だ。


ユウは足を止めずに返す。


「用がある。酒じゃない」


「へえ」


短い返事。

それ以上は追ってこない。


女がもう一言、何かを足そうとした時だった。


カウンターの奥から、グラスを置く音がした。


大きな音ではない。


けれど、その音で、店の中の空気がわずかに変わる。

女は肩をすくめ、大柄な男はグラスを持ち直した。


カウンターの奥でグラスを拭いていた男が、顔を上げていた。


マスターだった。


見た目は五十歳前後。

柔和な顔立ちに、物腰も穏やか。


店の灯りの下で見れば、ただの落ち着いたバーテンダーに見えなくもない。


だが、袖口のわずかな隙間から覗く腕の質感だけが、この男をただの店主に見せることを拒んでいた。皮膚に似せた外装の下で、強化装甲の硬い輪郭が光を鈍く返している。


マスターはユウを見たまま、拭いていたグラスを静かに棚へ戻した。


「いらっしゃい」


声はいつも通り穏やかだった。


その一言で、こちらへ向いていた意識が少し引く。


見ていないわけではない。

だが、今は店の流れに任せるべきだと分かる程度には、皆この店に慣れている。


ユウはカウンターへ近づいた。


マスターの前に立つ直前で、ほんの少しだけ肩の力を抜く。


「久しぶりだな」


「ええ。しばらく見ませんでした」


マスターの目が、ユウの顔から肩、腰、足元へ静かに落ちる。


露骨じゃない。

だが、見ている。


ジャケットの擦れ。

腰の重み。

歩き方の癖。

それと、今夜ここへ来た人間の顔つき。


全部を、言葉にせず拾っている目だった。


「怪我は?」


「ない」


「そうですか」


それだけ言って、マスターは一瞬だけ目を細めた。


安堵かどうかは分からない。

だが、少なくとも無関心の顔ではなかった。


「……今日は、飲みに来た顔じゃありませんね」


ユウは答えなかった。


答えなくても、もう分かっている声だったからだ。


マスターはカウンターの内側で体の向きを少し変える。

その視線が、店の奥へ向いた。


ユウもそちらを見る。


奥寄りのテーブル。

入口も店内も見える位置。

壁を背にして座るのが似合う席。


そこに、男がいた。


タチバナ。


中年の男だった。


年齢だけなら、この店の中では珍しくもない。

だが、目に入った瞬間に、他の誰とも違うと分かる。


椅子に座っているだけなのに、崩れがない。


酒場の空気に馴染んでいるのに、酒場の空気へ呑まれていない。

袖や襟元から覗く輪郭が、人間の肉だけでできていないことを隠しもしない。


そのくせ、機械じみた冷たさだけで立っている男でもなかった。


タチバナは、もうこちらに気づいていた。


ユウが入ってきた時から見ていたのか、途中からなのかは分からない。

ただ、その視線には驚きも歓迎もなかった。


あるのは確認だけだった。


生きて戻ってきたか。

準備してきたか。

今夜、どんな顔でそこに立っているか。


そんなものを計るみたいな目だった。


ユウは一瞬だけ、膝の裏に力が入るのを感じた。


逃げる時の立ち方だ。


昔の癖だった。

足場の悪い路地で、次の角へ飛び込む前の、あの半端な重心。


タチバナの前に立つと、体のどこかが勝手に昔を思い出す。

泥の匂い。

血の味。

掴まれた腕の痛み。


それから、引き上げられた時の、自分の軽さ。


ユウは奥歯を噛んだ。


今さら、あの時の子供みたいな顔をするために来たんじゃない。


タチバナはグラスに手をつけないまま、短く言った。


「……来たか」


その声で、店の音が少し遠のいた気がした。


ユウは一歩だけ前へ出た。

肩の位置を直す。

視線を逸らさない。


「久しぶりだ」


タチバナの目が、ユウの全身を一度だけ見る。


昔のガキを見る目じゃない。

かといって、もう対等に扱っている目でもない。


間を計る目だ。


今のユウが、どこまで自分の足でここへ来たのかを確かめる目。


「そうだな」


それだけ返して、タチバナは椅子に深くもたれなかった。

座ったまま、少しだけ顎を引く。


「立ってるなら邪魔だ。来い」


ユウはうなずくでもなく、もう一歩踏み出した。


背中に何本か視線が刺さる。


さっきまでの軽口とは違う。

面白がりと様子見の混じった視線だ。


それでも、今さら引く理由はない。


マスターがカウンターの奥から静かに言う。


「お飲み物は、後でお持ちします」


それは気遣いでもあり、線引きでもあった。


ここから先は、ただの客同士の軽口じゃない。

銀月の中で交わされる、もっと重い話だという合図。


ユウは小さく「頼む」とだけ返し、奥のテーブルへ向かった。


タチバナの前で立ち止まる。


椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。


座る前、ほんの一瞬だけ、ユウは息を止める。


ここまで来るのに、時間は掛かった。

準備もした。装備も揃えた。


足りないものがあるのは分かっている。

だが、足りないまま来たわけじゃない。


今夜は、そのことを口で示す夜だ。


ユウは椅子に座った。


タチバナが、静かにユウを見る。


「それで」


低い声が落ちる。


「何を言いに来た」


ユウは膝の上で拳を握った。


皮膚の下で、指の骨が軋む。

その感触で、ようやく今の自分の手だと分かった。


ユウは顔を上げた。


「戻ってきた」


タチバナの目が、わずかに細くなる。


ユウは続ける。


「今度は、拾われに来たんじゃない」


店の音が、少しだけ遠くなる。


喉が乾いていた。

けれど、声は出た。


「仕事をしに来た」


タチバナは黙っている。


ユウはその沈黙から目を逸らさなかった。


「俺を、ロストとして使ってくれ」

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