銀月
ユウが扉を押すと、外の夜気が背中からすべり込むように店内へ流れた。
すぐに、木と酒の匂いがそれを押し返してくる。
銀月の空気は、通りのそれとは違った。
清潔というほど綺麗に整っているわけじゃない。
磨きすぎていない木の天板。使い込まれた椅子。古い酒瓶。わずかに残る煙草の名残。
どれも下層の店らしい雑さはある。
それでも、油と排気と湿った鉄の匂いに慣れた鼻には、十分に落ち着いた匂いだった。
扉が閉まる音に、何人かがこちらを見る。
カウンター。
壁際のテーブル。
入口から奥へ抜ける視線の通り道。
店の中には二組、いや三組か、ロストらしい連中が散っていた。声はある。笑いもある。だが、どの卓も騒ぎすぎてはいない。
気を抜いているように見えて、実際には抜いていない。
ユウは店の中を一度だけ見渡し、背後の扉から手を離した。
その動きだけで、いくつかの視線の質が変わる。
見慣れない顔ではない。
だが、馴染みというほどでもない。
見たことはある。
どこで見たかは覚えていない。
そういう顔を見る目だった。
入口に近いテーブルに座っていた大柄な男が、グラスを片手に口の端を上げた。
「お。誰かと思や、野良犬んとこの坊主じゃねえか」
向かいにいた痩せた男が鼻で笑う。
「死んでなかったんだな」
悪意がないわけではない。
だが、本気で喧嘩を売っている温度でもない。
からかい半分。試し半分。
知らない顔じゃないと認めた上で、どこまで返すか見ているだけだ。
ユウはそちらを見た。
「死んでたら、ここまで歩いてこない」
一拍置いて、男たちが笑った。
「口は回るようになったじゃねえか」
「前はもっと噛みつく目してた気がするがな」
ユウは返さない。
言葉を足すほど得はない。
店に入った瞬間から喧嘩腰でいるほど、ガキでもない。
そのまま歩き出そうとしたところで、別の卓から女の声が飛んだ。
「坊や、酒飲める歳になった?」
声音は面白がっている。
けれど、目は笑っていない。
値踏みする側の目だ。
ユウは足を止めずに返す。
「用がある。酒じゃない」
「へえ」
短い返事。
それ以上は追ってこない。
女がもう一言、何かを足そうとした時だった。
カウンターの奥から、グラスを置く音がした。
大きな音ではない。
けれど、その音で、店の中の空気がわずかに変わる。
女は肩をすくめ、大柄な男はグラスを持ち直した。
カウンターの奥でグラスを拭いていた男が、顔を上げていた。
マスターだった。
見た目は五十歳前後。
柔和な顔立ちに、物腰も穏やか。
店の灯りの下で見れば、ただの落ち着いたバーテンダーに見えなくもない。
だが、袖口のわずかな隙間から覗く腕の質感だけが、この男をただの店主に見せることを拒んでいた。皮膚に似せた外装の下で、強化装甲の硬い輪郭が光を鈍く返している。
マスターはユウを見たまま、拭いていたグラスを静かに棚へ戻した。
「いらっしゃい」
声はいつも通り穏やかだった。
その一言で、こちらへ向いていた意識が少し引く。
見ていないわけではない。
だが、今は店の流れに任せるべきだと分かる程度には、皆この店に慣れている。
ユウはカウンターへ近づいた。
マスターの前に立つ直前で、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「久しぶりだな」
「ええ。しばらく見ませんでした」
マスターの目が、ユウの顔から肩、腰、足元へ静かに落ちる。
露骨じゃない。
だが、見ている。
ジャケットの擦れ。
腰の重み。
歩き方の癖。
それと、今夜ここへ来た人間の顔つき。
全部を、言葉にせず拾っている目だった。
「怪我は?」
「ない」
「そうですか」
それだけ言って、マスターは一瞬だけ目を細めた。
安堵かどうかは分からない。
だが、少なくとも無関心の顔ではなかった。
「……今日は、飲みに来た顔じゃありませんね」
ユウは答えなかった。
答えなくても、もう分かっている声だったからだ。
マスターはカウンターの内側で体の向きを少し変える。
その視線が、店の奥へ向いた。
ユウもそちらを見る。
奥寄りのテーブル。
入口も店内も見える位置。
壁を背にして座るのが似合う席。
そこに、男がいた。
タチバナ。
中年の男だった。
年齢だけなら、この店の中では珍しくもない。
だが、目に入った瞬間に、他の誰とも違うと分かる。
椅子に座っているだけなのに、崩れがない。
酒場の空気に馴染んでいるのに、酒場の空気へ呑まれていない。
袖や襟元から覗く輪郭が、人間の肉だけでできていないことを隠しもしない。
そのくせ、機械じみた冷たさだけで立っている男でもなかった。
タチバナは、もうこちらに気づいていた。
ユウが入ってきた時から見ていたのか、途中からなのかは分からない。
ただ、その視線には驚きも歓迎もなかった。
あるのは確認だけだった。
生きて戻ってきたか。
準備してきたか。
今夜、どんな顔でそこに立っているか。
そんなものを計るみたいな目だった。
ユウは一瞬だけ、膝の裏に力が入るのを感じた。
逃げる時の立ち方だ。
昔の癖だった。
足場の悪い路地で、次の角へ飛び込む前の、あの半端な重心。
タチバナの前に立つと、体のどこかが勝手に昔を思い出す。
泥の匂い。
血の味。
掴まれた腕の痛み。
それから、引き上げられた時の、自分の軽さ。
ユウは奥歯を噛んだ。
今さら、あの時の子供みたいな顔をするために来たんじゃない。
タチバナはグラスに手をつけないまま、短く言った。
「……来たか」
その声で、店の音が少し遠のいた気がした。
ユウは一歩だけ前へ出た。
肩の位置を直す。
視線を逸らさない。
「久しぶりだ」
タチバナの目が、ユウの全身を一度だけ見る。
昔のガキを見る目じゃない。
かといって、もう対等に扱っている目でもない。
間を計る目だ。
今のユウが、どこまで自分の足でここへ来たのかを確かめる目。
「そうだな」
それだけ返して、タチバナは椅子に深くもたれなかった。
座ったまま、少しだけ顎を引く。
「立ってるなら邪魔だ。来い」
ユウはうなずくでもなく、もう一歩踏み出した。
背中に何本か視線が刺さる。
さっきまでの軽口とは違う。
面白がりと様子見の混じった視線だ。
それでも、今さら引く理由はない。
マスターがカウンターの奥から静かに言う。
「お飲み物は、後でお持ちします」
それは気遣いでもあり、線引きでもあった。
ここから先は、ただの客同士の軽口じゃない。
銀月の中で交わされる、もっと重い話だという合図。
ユウは小さく「頼む」とだけ返し、奥のテーブルへ向かった。
タチバナの前で立ち止まる。
椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
座る前、ほんの一瞬だけ、ユウは息を止める。
ここまで来るのに、時間は掛かった。
準備もした。装備も揃えた。
足りないものがあるのは分かっている。
だが、足りないまま来たわけじゃない。
今夜は、そのことを口で示す夜だ。
ユウは椅子に座った。
タチバナが、静かにユウを見る。
「それで」
低い声が落ちる。
「何を言いに来た」
ユウは膝の上で拳を握った。
皮膚の下で、指の骨が軋む。
その感触で、ようやく今の自分の手だと分かった。
ユウは顔を上げた。
「戻ってきた」
タチバナの目が、わずかに細くなる。
ユウは続ける。
「今度は、拾われに来たんじゃない」
店の音が、少しだけ遠くなる。
喉が乾いていた。
けれど、声は出た。
「仕事をしに来た」
タチバナは黙っている。
ユウはその沈黙から目を逸らさなかった。
「俺を、ロストとして使ってくれ」




