オープニング
夜の街を、企業の光が塗っていた。
中層寄りの上空に浮かぶ立体ホログラム広告が、ゆっくりと角度を変えながら回っている。
白く透き通った水滴。螺旋を描く遺伝子。鋭い弾頭の輪郭。
整いすぎた声が、少し遅れて地上まで落ちてきた。
明日の生活を、今日も支える。
生命に、適応という解を。
生存に、最適な火力を。
綺麗な文句ばかりだった。
その光が照らしているのは、磨かれた床でも、白い壁でもない。
継ぎ接ぎだらけの外壁。
錆の浮いたシャッター。
雨の名残と油が混ざり、鈍く光る路面。
派手な色だけが水溜まりの表面を滑り、形を保たないまま砕けていく。
ユウは見上げなかった。
広告を見る必要がないわけじゃない。
ただ、見上げる時は別のものを見る時だ。
切れかけた配線。
落ちかけた看板。
上の通路から投げ捨てられるゴミ。
そういうものの方が、下を歩く人間にはよほど現実だった。
黒いプレートジャケットの肩を軽く鳴らし、ユウは歩幅を崩さずガレージストリートを進んだ。
背に馴染んだ重みが、今日に限って少しだけ意識に引っかかる。
腰。脇。足運び。
装備の位置を確かめるように、歩きながら体が勝手に均していく。
通りにはまだ灯りが残っていた。
飯屋から流れてくる焼けた肉と油の匂い。
修理処の奥で響く、金属を叩く乾いた音。
雑貨屋の曇ったガラス越しにぶら下がる安い布と、使い道の分からない小物。
買い出し帰りらしい女が袋を抱え、俯き気味に角を曲がっていく。
その脇を、小柄な子供が二人駆け抜け、店先の親父に怒鳴られていた。
騒がしい。
だが、壊れてはいない。
少なくとも、表通りに見えている範囲ではそうだった。
ユウはポケットに片手を入れたまま、人の流れを縫うように進んだ。
向かいから来た酔い気味の男が、わざとらしく肩を張ってくる。
半歩だけずれてやると、男は舌打ちだけ残して通り過ぎた。
すれ違いざま、男の視線が一度ユウの顔に引っかかった。
十代半ば。
黒髪、黒目。
背丈だけなら、もう大人に混じれなくもない。
けれど、頬の線にはまだ少年の細さが残っていた。
髪は十センチほどの長さで、適当に後ろへ流している。整えるためというより、視界に入らないよう払っただけの形だ。
それでも、腰と脇と背に下げたものを見れば、ただの子供だと思う者は少ない。
男は舌打ち以上を選ばなかった。
それで十分だった。
追うほどでもない。
振り返る価値もない。
そういうものにいちいち目を向けていたら、この辺りでは歩くたびに足を止めることになる。
ふと、細い路地の入口に、企業広告の青白い光が一瞬だけ差し込んだ。
壁際に、小さな影が二つ見えた。
片方は座り込み、片方はしゃがんだままこちらを見ている。
歳は低い。服は薄い。夜を越えるには、あれじゃ足りない。
その奥――さらに暗い場所に、もう一つ影があった。
動かない。
だが、死んでいるようにも見えなかった。
次の瞬間、企業広告の光が消える。
路地は元の暗さへ戻り、そこに何があったのか分からなくなる。
ユウは足を止めない。
珍しくもない。
見なかったことにはできない。
けれど、通りの真ん中で立ち止まって変わるものでもなかった。
視線だけで入口の奥行きを測る。
逃げる足が残っているか。
残っていないか。
腹の減り方。目の動き。周りにいる“大人”の気配。
そこまで見て、それ以上は切った。
通りを行く人間は、誰もそちらを見ない。
見えていないわけじゃない。
見ないだけだ。
上から降る光は、街を明るくするためのものじゃない。
どこが綺麗で、どこが切り捨てられているかを、遠くからでも分かるようにするための光だ。
この街の夜は暗いくせに、隠してはくれない。
ユウは短く息を吐いた。
吐いた息は、湯気にもならず夜気に散る。
風がひとつ通り抜け、排気と酒と古い鉄の匂いを撫でていった。
その風に混じって、表通りの生活の匂いが少しずつ薄れ、別の空気が混ざり始める。
一本、裏に近い筋へ寄っただけでそれは分かった。
看板の無い酒場の戸が開き、中から湿った笑い声が漏れる。
濃い酒の匂い。
怒鳴り声。
椅子を引きずる嫌な音。
向かいの窓口だけ開いた店には、鈍い照明の下に銃油の匂いが沈んでいた。
ホルスター。古びたケース。見慣れた輪郭のマガジン。
知らない人間にはただの店先でも、知っている人間にはその先まで分かる。
ガレージストリートは、暮らしを回す通りだ。
同時に、怪我を繋ぎ、武器を回し、死に損なった人間を次の日まで伸ばす通りでもある。
その境目を、ユウはもういちいち数えない。
数えなくても、どの角に面倒な連中が溜まりやすいかは分かる。
どの店先では立ち止まらない方がいいかも分かる。
夜になると、どこから視線が増えるかも分かる。
覚えたというより、覚えていないと削られるだけだった。
歩きながら、右手をポケットの中で握り直す。
今夜は、ただの使い走りでもなければ、寝床を探している夜でもない。
腰に下げたものも、背に負ったものも、今日ここへ来るために揃えてきた。
足りないなりに、足りないまま来たわけじゃない。
野良犬のままでは、走れる子供で終わる。
荷を運び、殴られ、逃げて、生き残る。
小さい奴らに飯のありかを教えてやることはできても、そこから連れて帰る場所は持てない。
使われる側でいる限り、今日を越えても、明日はまた同じ場所から始まる。
それだけなら、今までと変わらない。
だが、仕事を受けて戻ってくる名前を持てれば、少しだけ違う。
使い走りではなく。
荷物でもなく。
拾われた子供でもなく。
自分の足で戻ってきた人間として、あの男の前に立てるか。
今夜、それを言いに来た。
言うことは決めてある。
準備もしてきた。
後は、顔を合わせて口にするだけだ。
それだけのことのはずなのに、銀月が近づくにつれて腹の底が少しずつ硬くなる。
緊張、というほど軽いものじゃなかった。
古い銃を初めて渡された時のように、腹の底だけが妙に重かった。
昔、あの男はユウに言った。
生きて戻ってこい。
戻ってくるなら、自分の足で来い。
約束というには短すぎる言葉だった。
けれど、ユウはそれを忘れなかった。
前を横切った荷運びの男が、ちらりとユウの装備へ目をやった。
すぐに逸らしたのは、売り物か、仕事帰りか、それともその両方かを測って、深入りしないほうがいいと判断したからだろう。
今夜は、余計な揉め事に使う分の力も時間も持っていない。
少し先で、通りの空気がまた変わる。
怒鳴り声が遠のく。
足音の響き方が変わる。
灯りの色が、わずかに落ち着く。
見慣れた看板が、通りの先に浮かんでいた。
BAR『銀月』
派手さはない。
上を向かせる光でもない。
けれど、この辺りでは珍しく、灯りに意味のある店だった。
騒ぎたいだけの連中には向かない。
その代わり、仕事の話ができる。
ユウの足取りが、ほんの少しだけ緩んだ。
ここへ来るのは初めてじゃない。
だが、今夜はただ顔を出す夜じゃない。
昔の縁に甘えに来たわけでもない。
銀月で仕事を受ける名前を持てるか。
その名前で、帰ってこられるか。
立てるかどうかは、今夜で決まる。
店先の灯りが、ジャケットの端を鈍く照らす。
背中に当たっていた企業広告の色は、ここまで来るともう薄い。
代わりに、扉の向こうから、磨きすぎてはいない木と酒の匂いが静かに漏れていた。
ユウは扉の前で足を止めた。
一度だけ息を吸う。
夜気はまだ鉄と油の匂いを残している。
その奥にある店の匂いが、薄く混ざる。
右手をポケットから抜いた。
指先が少しだけ冷えているのを、そこで初めて知った。
今さら引く理由はない。
ユウは、銀月の扉を押した。




