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銀月のロスト  作者: taka
第12章 石積みの墓

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野良犬の抜け道

 ユウは表通りへ戻らなかった。


 ユイの腕を掴んだまま、細い横道へ入る。


 そこは、人が二人並んで歩くには少し狭い。


 壁と壁の間に配管がむき出しで走り、ところどころに古いケーブルが垂れている。


 足元には濡れた紙片と、砕けたプラスチック片が散っていた。


 表通りのざわめきが、背後で少し遠くなる。


 ユイは息を切らしながら、それでもユウに引かれて走った。


「ユウ、こっちで――」


 安全なんですか。


 そう聞こうとして、言葉が最後まで出なかった。


 ユウの横顔に、迷いがなかったからだ。


 表通りへ戻れば、人がいる。


 店がある。


 誰かの目がある。


 けれど、そこには混乱もある。


 さっき、店の扉が閉まる音がした。


 誰かが罵声を上げて、誰かが逃げた。


 あの場所に戻れば、人がいる分だけ、何が起きるか分からない。


 ユウは、そう判断したのだろう。


 後ろから、ゴブリンの鳴き声が聞こえた。


 甲高く、湿った声。


 人の言葉にはならない。


 けれど、何かを呼び合っているのだけは分かる。


 ユイの背筋が冷える。


 ユウは振り返らない。


 ただ、角を曲がるたびに視線だけを走らせる。


 上。


 足元。


 壁の隙間。


 倒れた箱の裏。


 開いた排水口。


 その全部を、一瞬で拾っているように見えた。


 ユイには、ただの汚れた路地にしか見えない。


 けれどユウには、逃げ道と危険の形が見えている。


「頭下げろ」


 短い声。


 ユイが反応するより先に、ユウの手が後頭部を押した。


 低く垂れた鉄材が、帽子の上をかすめる。


 そのすぐ下をくぐり抜けると、先ほどまでよりさらに狭い通路へ入った。


 薄暗い。


 上からは、どこかの隙間を通った白い光が細く落ちているだけだった。


 空気は湿っていて、油と錆の匂いが濃い。


 遠くで水が落ちる音がする。


「ここ、知ってるんですか」


 ユイは息を切らしながら聞いた。


 ユウは前を見たまま答える。


「昔使ってた」


 昔。


 その一言で、ユイの胸に昨夜の言葉が戻る。


 ――野良犬の頃。


 ここが、その頃の道なのだと分かった。


 ユイの足が一瞬だけ鈍りそうになる。


 だが、ユウの手がそれを許さなかった。


「止まるな」


「はい……!」


 ユイは必死に足を動かした。


 細い通路を抜けた先に、崩れた壁があった。


 一見すると行き止まりに見える。


 けれどユウは迷わず、壁の右端に積まれた廃材へ向かう。


 そこで、声が飛んだ。


「止まれ!」


 高い声だった。


 けれど、幼いだけではない。


 警戒と敵意が混じっている。


 ユウが足を止めた。


 ユイも引かれるように止まる。


 廃材の陰から、子供が出てきた。


 一人ではない。


 三人。


 少し遅れて、さらに小柄な一人が奥の隙間から顔を出す。


 全員、男の子だった。


 一番前の子は、錆びた鉄パイプを両手で持っている。


 十二、三歳くらいに見えた。


 痩せているが、目だけは妙に鋭い。


 その横の子は、片手に石を入れた布袋を持っていた。


 振り回せば簡単な武器になるのだろう。


 もう一人は、割れた瓶の首を握っている。


 一番小さい子は、缶をいくつも繋いだ紐を抱えていた。


 鳴子のようなものかもしれない。


 ユイは思わず息を呑む。


 子供だ。


 けれど、ただの子供ではない。


 全員が、逃げる準備と戦う準備を同時にしている。


「誰だよ」


 鉄パイプの子が言う。


「こっち来んな。ここ、通り道じゃねえぞ」


 ユウは短く答えた。


「俺だ」


 その声に、子供たちの顔が変わった。


 最初に反応したのは、石袋を持った子だった。


「……ユウ?」


 割れ瓶の子が目を細める。


「え、ユウ兄ちゃん?」


 一番小さい子が、缶を抱えたまま身を乗り出した。


「マジで? ユウ兄ちゃん?」


 鉄パイプの子も、ようやく警戒を少しだけ解いた。


 それでも完全には武器を下ろさない。


 癖なのだろう。


「なんでこんなとこにいんだよ」


「ロストになったんじゃなかったのかよ」


「ていうか、兄ちゃん、急に来んなよ。びびっただろ」


 一斉に声が増える。


 ユイはその勢いに圧倒された。


 さっきまでの緊張が、少しだけ別のものに変わる。


 けれど、状況が安全になったわけではない。


 ユウもそう思っているのだろう。


 表情は緩まない。


「後にしろ」


 その一言で、子供たちの騒ぎが半分止まった。


 しかし、完全には止まらなかった。


 割れ瓶の子が、ユイを見た。


「……あ」


 その目が、分かりやすく丸くなる。


「兄ちゃんが女連れてる」


 石袋の子も、ユイを見る。


「ほんとだ」


「しかも綺麗なやつ」


 一番小さい子が、ぽかんとした顔で言う。


「兄ちゃんの女?」


 ユイの身体が、一瞬で固まった。


 意味は分かる。


 完全に分かるわけではない。


 けれど、その言い方がこの場所ではどういう重さを持つのか、直感的に分かった。


 ユウの声が低く落ちた。


「口に気をつけろ」


 子供たちが、ぴたりと止まる。


 鉄パイプの子が、少しだけ顔をしかめた。


「……悪い」


 軽い謝罪だった。


 けれど、からかいの空気はそこで消えた。


 ユイはユウの横で、帽子の縁を少し押さえた。


 髪は隠れている。


 目も隠している。


 服も、体の線が出にくいものを着ている。


 それでも、彼らには分かるのだ。


 自分がこの場所の子供ではないこと。


 守られてきた側だということ。


 そして、女だということ。


 ユウは子供たちから視線を外さずに言った。


「ゴブリンだ。数がいる」


 空気が変わった。


 さっきまで騒いでいた子供たちの顔から、余計な色が消える。


 鉄パイプの子が低く聞いた。


「どこ」


「境目。ローブの囮。咳するやつだ」


「あれかよ」


 石袋の子が舌打ちする。


「また出たのか」


「最近多い」


 割れ瓶の子が言った。


「こないだ、ミナがそれで消えた」


 ユイの胸が小さく跳ねる。


 ミナ。


 知らない名前だった。


 けれど、その言葉の軽さが怖かった。


 消えた。


 死んだ、ではない。


 攫われた、とも言わない。


 ただ、消えた。


 この場所では、それだけで通じるのだ。


 一番小さい子が、缶を抱え直しながら言う。


「ナギは戻ってきたけど、喋んなくなった」


「腕、噛まれてた」


「袋かぶせられたって言ってた。ちょっとだけ」


「言うな」


 鉄パイプの子が短く止める。


 一番小さい子が口を閉じる。


 ユイは何も言えなかった。


 さっき見た袋を思い出す。


 ゴブリンの手に握られていた、汚れた袋。


 あれが自分に向けられていたのだと、今さら理解する。


 喉が冷たくなる。


 ユウは表情を変えない。


 けれど、その声は少しだけ硬くなっていた。


「どれくらい」


「分かんねえ。三、四じゃないと思う」


 石袋の子が答える。


「路地の奥にいる。たぶん、裏の排水んとこ使ってる」


 割れ瓶の子が続ける。


「大人はあんま追わねえ。店の前じゃないと動かねえから」


「女の子ばっか狙ってる」


 一番小さい子が、また余計なことを言うように口を開きかける。


 だが、今度は自分で止めた。


 ユイは、彼らを見る。


 この子たちは、子供だ。


 なのに、言葉の中身は自分よりずっと下層を知っている。


 どこで消えるか。


 どこから来るか。


 誰が戻ってこないか。


 何を言わない方がいいか。


 全部、知っている。


「奥、空いてるか」


 ユウが聞いた。


 鉄パイプの子が、ユウの顔を見る。


 それからユイへ視線を向けた。


「入れるの、この人?」


「入れろ」


「女入れんの?」


「頼む」


 その一言で、子供たちが少し黙った。


 ユウの声は低かった。


 命令ではない。


 昔の顔見知りに、短く頭を下げる代わりの言葉。


 鉄パイプの子は、すぐに頷いた。


「……サビ、奥」


 石袋の子――サビが、廃材の裏へ走る。


 割れ瓶の子がユイの方へ顎をしゃくった。


「こっち。声出すなよ」


 ユイは一歩も動けなかった。


 ユウを見る。


「ユウ」


 声が思ったより小さく出た。


 ユウはユイの方を見た。


「ここにいろ」


「でも」


「連れて動けない」


 言葉は短い。


 けれど、突き放しているわけではない。


 ユイにはそれが分かった。


 分かったからこそ、胸の奥がきつくなる。


「こいつらの方が、この辺は分かってる」


 ユウは続けた。


 それは、事実だった。


 目の前の子供たちは、自分より小さい。


 痩せていて、汚れていて、武器だってまともではない。


 それでもこの場所では、自分よりずっと頼れる。


 隠れる場所を知っている。


 音の鳴らし方を知っている。


 逃げ道を知っている。


 どこで声を出してはいけないかを知っている。


 自分は、知らない。


 その事実が、ユイの胸に静かに落ちた。


「……分かりました」


 ようやく頷く。


 ユウは一度だけ目を細めた。


 安堵かどうかは分からない。


 でも、少しだけ力が抜けたように見えた。


 サビが廃材の裏から顔を出す。


「空いてる。奥のダクト」


「行け」


 ユウが言う。


 割れ瓶の子が先に立った。


「早く」


 ユイはその後について、廃材の隙間へ入る。


 そこは、外から見ただけでは通れる場所に見えなかった。


 古い看板が斜めに立てかけられ、壊れた換気扇の枠と、曲がったパイプが重なっている。


 だが、その裏に人ひとりがかがんで通れる隙間があった。


 ユイは帽子を押さえ、身体を小さくしてくぐる。


 服が金属片に擦れた。


 膝が床の埃に触れる。


 油と湿った埃の匂いが濃くなる。


 奥には、古い排気ダクト跡があった。


 四角い穴。


 大人なら肩がつかえる。


 子供なら慣れていれば入れる。


 ユイには、少し狭い。


「入って」


 サビが言う。


「奥まで。光見えないとこ」


 ユイは喉を鳴らした。


 狭い。


 暗い。


 空気が重い。


 けれど、外にいるよりは安全なのだろう。


 ユイは膝をつき、ダクトの中へ身体を入れた。


 金属の冷たさが手のひらに触れる。


 中は思ったより奥行きがあった。


 何か布が敷かれている。


 子供たちが寝床か隠れ場所に使っているのかもしれない。


「そこ。動くなよ、綺麗な姉ちゃん」


 一番小さい子が言った。


 ユイは、その呼び方に一瞬だけ言葉を失う。


 綺麗な姉ちゃん。


 悪意はない。


 たぶん、彼なりの呼び方だ。


 けれど、それすらここでは危険な意味を持つ。


 ユイは小さく頷いた。


「……はい」


 割れ瓶の子が、外から廃材を少し戻す。


 視界がさらに狭くなった。


 細い隙間から、外の光だけが見える。


 ユウの姿が、そこにあった。


 背中を向けている。


 SMGの吊り紐へ手をかけ、周囲を見ている。


 さっきまで自分の腕を掴んでいた手が、今は戦うための位置へ戻っている。


 ユイは思わず声を出した。


「ユウ」


 ユウが振り返る。


 ほんの一瞬だけ。


 ユイは何を言えばいいのか分からなかった。


 気をつけて。


 行かないで。


 戻ってきて。


 置いていかないで。


 どれも違う気がした。


 ユウは何も聞かなかった。


 ただ、短く言う。


「出るな」


 それだけだった。


 でも今は、それが一番必要な言葉なのだと分かった。


 ユイは、ダクトの中で小さく頷く。


「はい」


 返事が届いたかどうかは分からない。


 ユウはもう前を向いていた。


 鉄パイプの子がユウの横へ並ぶ。


「どうする」


「追ってきてるのを流す。正面からやるな」


「分かってる。こっちは犬だぞ」


 サビが小さく笑った。


「噛むより逃げる方が得意だ」


 ユウは一瞬だけ、昔のような顔をした。


 けれど、それはすぐに消えた。


「なら、噛まなくていい。鳴らせ」


 一番小さい子が、缶の紐を握り直した。


 外で、ゴブリンの声が近づいてくる。


 ユイは息を殺した。


 金属の冷たさが、手のひらに染みていく。


 暗いダクトの中で、膝を抱えるように身体を縮める。


 外には、ユウがいる。


 野良犬の子供たちがいる。


 そして、ゴブリンがいる。


 自分は何もできない。


 ただ、隠れている。


 それが今、自分にできる一番正しいことなのだと、ユイは初めて思い知らされた。


 廃材が戻される。


 視界が、細い光だけになる。


 その向こうで、ユウの足音が遠ざかっていった。

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