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銀月のロスト  作者: taka
第12章 石積みの墓

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境目の罠

 店の外へ出ると、ガレージストリートのざわめきが戻ってくる。


 油の匂い。


 焼けた肉の匂い。


 古い鉄と湿った埃。


 誰かが何かを値切る声。


 遠くで金属を叩く音。


 昼の表通りは、まだ生活の顔をしていた。


 それでも、ユウの視線は緩まない。


 ユイは帽子の縁を少し押さえ、ユウの半歩後ろへついた。


「修理処って、こっちでしたよね」


「ああ」


「ウェイタンより、少し表通りから外れるんですか?」


「外れるってほどじゃない。境目だ」


「境目」


 ユイが小さく繰り返す。


 その言葉を聞いて、ユウの目が一度だけ横の路地へ向いた。


「表と裏の間だ。足止めるな」


「はい」


 ユイは頷いた。


 ウェイタンの前を離れると、通りの空気が少し変わる。


 まだ人はいる。


 店も開いている。


 表通りの声も聞こえる。


 けれど、間口の狭い建物の隙間や、荷箱の積まれた脇道が増えた。


 店先の視線も、少しだけ薄くなる。


 子供が二人、空き缶を蹴りながら走っていった。


 別の小さな影が、壁際で何かの包みを抱えている。


 浮浪児なのか、使い走りなのか、ユイにはすぐには分からない。


 ただ、誰も彼らを特別には見ていなかった。


 そこにいるのが当たり前みたいに、通りは流れている。


「ユウ」


「何だ」


「こういうところにも、子供がいるんですね」


「いる」


 短い返事。


「野良犬、ですか?」


 ユウの足が、ほんの少しだけ遅くなった。


 けれど止まらない。


「全部がそうじゃない」


「……そうですか」


 それ以上は聞かなかった。


 昨日の夜に聞いた言葉が、まだ胸に残っている。


 野良犬の頃。


 ユウがそう言った時の、短い声。


 そこから先に続かなかったもの。


 ユイはそれを思い出しながら、通りの子供たちを見る。


 小さな体。


 速い足。


 人の視線を避ける動き。


 誰かに守られているようには見えない。


 その時だった。


 少し先の壁際で、ローブを被った小柄な影が蹲っていた。


 最初は、荷物かと思った。


 汚れた灰色の布。


 壁に寄りかかるような姿勢。


 小さく丸まった背中。


 けれど、次の瞬間、その影が咳き込むように震えた。


 乾いた音がした。


 一度。


 二度。


 苦しそうに、身体を丸める。


 ユイの足が止まりかけた。


「……あの人」


 言いかける。


 ユウは答えない。


 ユイは影を見る。


 周囲の大人は見ないふりをして通り過ぎている。


 店先の男も、ちらりと見ただけで視線を戻した。


 誰も近づかない。


 それが下層では普通なのかもしれない。


 でも、だからといって、そのまま通り過ぎていいのか。


 ローブの影が、もう一度咳き込んだ。


 細い手のようなものが、布の下から少しだけ伸びる。


「待って、あの人――」


 ユイが一歩出た。


 次の瞬間、腕を掴まれた。


 強い力で引かれる。


 身体が後ろへ戻り、背中がユウの胸元に近づいた。


 近い、と思うより先に、息が止まる。


 ユウの腕が、ユイの身体を罠から外すように引き寄せている。


「動くな」


 声が低かった。


 耳元に近い。


 けれど、その近さに反応する余裕はなかった。


 ユウの視線は、ローブの影ではなく、その周囲を見ている。


 荷箱の横。


 布を被せた廃材。


 壁際の暗がり。


 路地の奥。


「……ユウ?」


 ユイが小さく呼ぶ。


 ユウは短く言った。


「人じゃない」


 その言葉とほぼ同時に、ローブの影の咳が止まった。


 不自然なほど、ぴたりと。


 次の瞬間、布の下から顔が上がる。


 それは、人間の子供の顔ではなかった。


 細い顎。


 濁った目。


 裂けたような口。


 歯の間から、粘ついた息が漏れている。


 ユイの喉が固まった。


 ゴブリン。


 頭では知っていた。


 資料でも、話でも、何度か聞いていた。


 都市に潜り込み、人間の真似をする小型脅威。


 子供のように見えても、迷ってはいけない相手。


 でも、知っていることと、目の前でローブを被って咳き込んでいた影が顔を上げることは、まったく違った。


 横の荷箱が動いた。


 ユウがユイをさらに後ろへ押し下げる。


「走るぞ」


「え――」


 返事を待たず、ユウが動いた。


 ユイの腕を掴んだまま、来た道ではなく斜め後ろへ身体を向ける。


 その動きが速すぎて、ユイは一拍遅れて足を出した。


 ローブのゴブリンが、低く鳴く。


 それを合図にしたように、荷箱の陰から二つの小さな影が飛び出した。


 一匹の手には、短い鉄片が握られている。


 もう一匹は、汚れた袋のようなものを持っていた。


 ユイの背筋が冷える。


 攫うための袋。


 なぜか、その意味だけはすぐに分かった。


 ユウの右手が、一瞬だけSMGの吊り紐へ動いた。


 撃てる。


 この距離なら、外さない。


 けれどユウは撃たなかった。


 撃てば足が止まる。


 足が止まれば、ユイも止まる。


 相手は一匹ではない。


 ローブの囮。


 荷箱の陰。


 廃材の下。


 路地の奥。


 どこに何匹いるか、まだ見えない。


 それに、こいつらの狙いはユウではない。


 未改造のフレッシュ。


 若い女。


 下層の路地で、まだ倒れた影へ一歩出る相手。


 ゴブリンが見逃す理由がない。


「走れ」


 今度は命令だった。


 ユイの身体がようやく動く。


 足がもつれそうになる。


 けれどユウの手が強く引いていた。


 倒れることすら許されない力だった。


 後ろで、ローブが地面を擦る音がした。


 荷箱が倒れる。


 何かが金属を引っ掻く音。


 ユウは通りの脇へ抜けようとした。


 その先に、もう一匹が飛び出してくる。


 小さい。


 だが速い。


 手には短い刃物のようなもの。


 ユイの足元ではなく、腕を狙う角度で来る。


 ユウは撃たなかった。


 撃つより早く、足が出た。


 ブーツの爪先が、飛び出してきたゴブリンの胸元へめり込む。


 硬いものを蹴った感触。


 軽い身体が、空き箱ごと横へ弾けた。


 潰れた箱が派手な音を立てる。


 ゴブリンが甲高く鳴いた。


 ユイの肩が跳ねる。


「止まるな」


 ユウの声が飛ぶ。


 ユイは頷く余裕もなく走った。


 自分の足で走っているのか、ユウに引かれて走らされているのか、分からない。


 ただ、後ろを振り返ってはいけないことだけは分かった。


 横の路地奥から、さらに影が動く。


 一匹。


 二匹。


 いや、もっといる。


 ユウの目が、それを拾った。


「数がいる」


 低く落ちた声。


 その言葉で、ユイはようやく理解した。


 自分は、蹲っていた一つの影しか見ていなかった。


 咳き込むローブの下しか見ていなかった。


 助けなければと思った、その一点しか見ていなかった。


 けれどユウは違った。


 影の周囲。


 荷箱の横。


 路地の奥。


 逃げ道。


 敵の手元。


 自分の立つ位置。


 全部を見ていた。


 見て、引いた。


 戦うためではなく、自分を連れて逃がすために。


 後ろで、ゴブリンの鳴き声が増える。


 ガレージストリートの表通りは、まだすぐそこにある。


 人の声も聞こえる。


 店の扉が閉まる音もした。


 誰かが罵声を上げた。


 誰かが子供を抱えて店の中へ引っ込めた。


 生活の顔をしていた通りの端が、薄い膜を剥がすように変わっていく。


 ユウはユイの腕を離さない。


「こっちだ」


 短く言って、さらに細い横道へ向きを変える。


 ユイは息を呑みながら、それでも足を動かした。


 カップを二つ置ける、小さなテーブルを見に来ただけだったのに。

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