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銀月のロスト  作者: taka
第12章 石積みの墓

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置く場所

 扉の向こうで、小さく足音が止まった。


 ユイはマグカップを二つ抱えたまま、しばらくその場に立っていた。


 湯気がゆっくりと立ち上り、頬の近くをかすめて消える。


 もう片方の腕には、小皿を寄せている。


 固くないパンと、少し甘い保存菓子。


 手を汚さずに食べられるものだけを選んだ。


 少し話すだけ。


 サエにはそう言った。


 自分でも、そう思っていた。


 けれど両手に持ったものの量は、どう見ても少し話すだけのものではなかった。


 指の背で、扉を叩く。


 小さな音が廊下に落ちた。


 中から、少し間を置いて声が返る。


「入れ」


 いつもの短い返事だった。


 ユイは息を一つ吸い、扉を開けた。


 ユウの部屋は、相変わらず簡素だった。


 壁。


 ベッド。


 低い台。


 棚。


 棚の上には、青い置物――いるかが置かれている。


 それがまだちゃんとそこにあるのを見て、ユイはほんの少しだけ胸の奥を緩めた。


 ユウは床に座っていた。


 洗浄を終えた後なのだろう。


 髪は少し湿っていて、服も着替えている。


 それでも表情には、車庫での出来事の名残が薄く残っていた。


 ユイの両手に視線が落ちる。


「……何だ、それ」


「飲み物です。あと、少し食べられるもの」


「二人分に見える」


「ユウも飲むでしょう?」


 そう言ってから、ユイは自分の声が思ったより自然に出たことに気づいた。


 ユウは少しだけ眉を動かした。


 何か言い返そうとしたのかもしれない。


 けれど結局、追い返す言葉は出なかった。


「置く場所ないぞ」


 言われて、ユイは部屋の中を見回す。


 確かにない。


 低い台はあるが、そこには細かいものが寄せられている。


 ベッドの上に置くわけにもいかない。


 床は、さっき洗浄された車庫のことを思い出すと、今は少しだけ嫌だった。


 ユイはカップを両手で持ったまま、少しだけ眉を寄せる。


「……だから、前にも言いましたけど」


「何を」


「テーブルです。やっぱり買いましょう」


 ユウの顔が、少しだけ面倒そうになる。


「今その話か」


「今だからです」


「床でいいだろ」


「よくないです」


 即答だった。


 ユウは黙る。


 ユイは小皿を落とさないように慎重に腕へ寄せながら、言葉を続けた。


「飲み物も置けませんし、食べ物も置けません。こういう時に困ります」


「こういう時がそんなにあるのか」


「これからあるかもしれません」


 言ってから、ユイは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 これから。


 その言い方は、少し踏み込みすぎたかもしれない。


 でも、今さら引っ込めるのも変だった。


 ユウはそこには触れなかった。


 ただ、視線をカップと小皿へ落とし、それから部屋の空いた床へ向ける。


「……とりあえず、そこ」


 ベッドの端を指す。


 ユイは一瞬迷ったが、他に置く場所もない。


 小皿をベッドの端へ置き、片方のカップをユウへ渡した。


「熱いです」


「分かる」


 ユウは受け取り、短く答える。


 そのやり取りだけは、いつも通りに近かった。


 ユイは自分のカップを両手で包み、ベッドの端に腰を下ろした。


 前に持ち込んだクッションは、まだそこにある。


 ユウはそれも片づけていなかった。


 それが少しだけ嬉しい。


 けれど、嬉しいと思った直後に、車庫での音が戻ってくる。


 ぐしゃ、と潰れる音。


 焦げた臭い。


 ユウの腕に引き寄せられた時の、近すぎる距離。


 自分の背後にいたもの。


 ユイはカップの中へ視線を落とした。


 湯気が揺れている。


 その向こうで、言葉が喉の奥に引っかかっていた。


 ――見たことがある。


 ユウはそう言った。


 それだけだった。


 それ以上、何も続けなかった。


 聞きたい。


 でも聞いていいのか分からない。


 サエの声も思い出す。


 ――あの子が話さないなら、それは話せないってことよ。


 ユイはカップを少し持ち直した。


「……さっきの」


 ユウの目だけが動く。


 ユイは続けようとして、一度だけ息を止めた。


「見たことがあるって、言ってましたよね」


 部屋の空気が少しだけ沈む。


 外では、どこかで水が配管を流れる音がしている。


 遠くから、レンジが工具を置く小さな金属音も聞こえた。


 けれどこの部屋の中だけは、その音が薄くなったように感じた。


 ユウはすぐには答えなかった。


 カップの縁を見ている。


 飲むでもなく、置くでもなく、ただ手の中に持っている。


 やがて、短く言った。


「昔だ」


「昔……?」


 ユイが聞き返す。


 ユウは少しだけ間を置いた。


「野良犬の頃」


 知らない言葉ではない。


 ユウが下層の浮浪児集団にいたことは聞いている。


 けれど、それはまだユイの中では、輪郭の曖昧な言葉だった。


 野良犬。


 その響きは、呼び名というより、誰かが投げた石のように硬かった。


「その頃に、ピアースワームを?」


「ああ」


 返事はそれだけだった。


 ユイは、もう少し聞こうとした。


 どこで。


 誰が。


 どうなったのか。


 でも、言葉は出なかった。


 ユウの顔はいつも通りに見える。


 それでも、続きを話す気がないことだけは分かった。


 無理に聞けば、答えてくれるかもしれない。


 けれどそれは、答えさせてしまうということでもあった。


 ユイはカップを胸元へ寄せる。


「……そう、ですか」


 それだけ言った。


 ユウは何も返さない。


 ユイも、それ以上は聞かなかった。


 代わりに、視線を部屋へ逃がす。


 空っぽの部屋。


 低い台。


 棚の上の青いいるか。


 ベッドの端に無理やり置かれた小皿。


 手の中のカップ。


 やっぱり、置く場所がない。


「……テーブル、見に行きましょう」


 ユウがこちらを見る。


「戻るのか、その話に」


「戻ります。必要ですから」


「まだ買うとは言ってない」


「でも、前に見てくれるとは言いました」


「そういう拾い方するな」


「大事なところです」


 ユイは真面目に言った。


 ユウは少しだけ息を吐く。


 呆れているようにも見える。


 けれど、本気で嫌がっている顔ではなかった。


「見るだけだ」


「はい」


「買うとは言ってない」


「必要なら買いましょう」


「……お前な」


「必要なら、です」


 ユイは少しだけ目を逸らした。


 自分でも、押している自覚はある。


 でも、引く気にはなれなかった。


 ユウの部屋にテーブルが必要なのは本当だ。


 飲み物を置く場所がないのも本当だ。


 食べ物を置く場所がないのも本当だ。


 それに。


 この部屋に、もう少しだけ何かがあってもいいと思った。


 青いいるかだけではなく。


 クッションだけではなく。


 カップを二つ置ける場所があってもいい。


 ユウは多分、そんなことを考えていない。


 寝られればいい。


 荷物が置ければいい。


 必要最低限でいい。


 でも、ユイはそれが少し嫌だった。


「小さいのでいいんです」


「また具体的だな」


「前から考えてましたから」


 ユウは何とも言えない顔をした。


 ユイはカップへ視線を落とす。


 湯気は少し薄くなっている。


「カップを二つ置けて、小皿も置けるくらいで」


 言ってから、また少し頬が熱くなった。


 二つ。


 自然にそう言ってしまった。


 ユウはそこに気づいたのか、気づいていないのか分からない。


 ただ少し考えた後、短く答える。


「でかいのは邪魔だ」


「だから小さいのでいいんです」


「折り畳めるやつならまだましだな」


 ユイの顔が少し明るくなる。


「見てくれるんですね」


「見るだけだ」


「はい」


 その返事は、さっきより少しだけ軽かった。


 ユウはカップへ口をつける。


 ユイも自分の飲み物を少し飲んだ。


 甘さと温かさが、ようやく喉を通る。


 部屋の中には、まだ洗浄液の匂いが薄く残っている。


 ユウの服からも、焦げた臭いは完全には抜けていなかった。


 それでも、マグカップから立ち上る湯気が、その匂いを少しだけ隠してくれる。


 ユイは小皿の保存菓子を一つ摘まみ、ユウの方へ差し出した。


「食べますか」


「後で」


「今食べないと冷めます」


「菓子だろ」


「……そうでした」


 自分で言ってから、ユイは少しだけ笑ってしまった。


 ユウも呆れたように息を吐く。


 それだけだったが、車庫で止まっていた空気が、ほんの少しだけ動いた気がした。


 その夜、ユイは長居した。


 本人の中では、少し話しただけのつもりだった。


 けれど、カップの中身が半分になり、保存菓子が二つ減り、ユウが「もう戻れ」と言うまで、思ったより長くそこにいた。


 ユウは「見たことがある」の続きを話さなかった。


 ユイも、聞かなかった。


 ただ一つだけ、胸の中に残った。


 野良犬の頃。


 それがどんな場所で、どんな時間だったのか。


 ユイはまだ知らない。


 知らないまま、ユウの部屋を出た。


 翌日のアジトは、いつもより少しだけ洗浄液の匂いが薄くなっていた。


 車庫の床は乾いている。


 車体下も、レンジがもう一度確認したらしい。


 それでもサエは朝から換気を続けていた。


 ユイは帽子の中に髪を収めながら、鏡の前で指を止める。


 白い髪が、少しだけ指の間からこぼれた。


 慌てて押し込む。


 帽子の縁を下げる。


 色付きコンタクトも確認する。


 大丈夫。


 そう自分に言い聞かせてから部屋を出る。


 リビングへ行くと、ユウはすでに準備を終えていた。


 いつもの黒いプレートジャケット。


 ジーンズ。


 固いブーツ。


 腰のホルスター。


 その立ち方だけで、外へ出る人間の空気になっている。


 サエがキッチン側から顔を出した。


「本当に行くの?」


「はい。テーブルを見に行くだけです」


「その顔は買う顔ね」


「必要なら買います」


「はいはい」


 サエはそれ以上は言わなかった。


 けれど、目だけは少しだけユウへ向く。


「昨日の今日なんだから、妙なところには行かないこと」


「分かってる」


 ユウが短く答える。


「ガレージストリートの表だけだ。ウェイタンか修理処を見て、なければ戻る」


「金物屋は?」


「寄ってもいいが、長居はしない」


「よろしい」


 サエは頷く。


 それからユイを見る。


「ユイ」


「はい」


「昨日言ったこと、覚えてる?」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 けれどすぐに分かる。


 ユウが話さないことを、無理に聞き出さないこと。


 ユイは少しだけ背筋を伸ばした。


「覚えています」


「ならいいわ」


 サエはそれだけ言って、少しだけ口元を緩める。


「あと、ユウの部屋のものを買うからって、張り切りすぎないこと」


「張り切ってません」


「まだ何も言ってないわよ」


「……サエさんは、言いそうでした」


「分かってきたじゃない」


 ユイは少しだけ頬を赤くする。


 ユウはその横で、何の話だという顔をしていた。


 本当に分かっていないのか、面倒だから流しているのか、ユイには判断がつかない。


 サエは棚から小さな布袋を取り出して、ユイへ渡した。


「一応、これ。小物買うなら使いなさい」


「ありがとうございます」


「買うのはテーブル。ユウの部屋を雑貨屋にしない」


 ユイは一瞬だけ、棚の上の青いいるかを思い出す。


「……分かっています」


「その間は何」


「分かっています」


 サエは笑った。


 ユウが玄関側へ歩き出す。


「行くぞ」


「はい」


 ユイは慌てて後を追う。


 扉の前で、ユウが振り向いた。


「帽子」


「かぶってます」


「髪」


「入れました」


「俺から離れるな」


「離れません」


「知らないものに寄るな」


 ユイは頷いた。


「分かっています」


 ユウはそこで、もう一つ付け足した。


「倒れてるやつにも近づくな」


 ユイは少しだけ瞬きをする。


「倒れている人にも、ですか?」


「人とは限らない」


 その声は、冗談ではなかった。


 ユイの喉が、小さく詰まる。


 昨日の車庫の床。


 泥のように見えた灰褐色。


 自分の背後へ這ってきていたもの。


 ユウが言っているのは、そういう種類の現実なのだと分かった。


「……はい」


 返事は少し遅れた。


 ユウはそれを確認してから扉を開ける。


 外の空気が入ってきた。


 アジトの内側の匂いが、そこで切れる。


 代わりに、下層の空気が流れ込む。


 油。


 湿った埃。


 古い金属。


 遠くで焼ける肉の匂い。


 ガレージストリートまでは、歩いて行ける距離だ。


 ユウはいつものように少し前を歩く。


 ユイはその半歩後ろを歩いた。


 けれど、前よりも距離は近い。


 近づきすぎないように。


 離れすぎないように。


 その感覚を、まだ探している。


 通りへ出ると、人の声が増えた。


 荷車の車輪が軋む音。


 店先で誰かが値切る声。


 金属を叩く乾いた音。


 排気と油の匂いの中に、どこか焦げた肉のような匂いも混ざっている。


 ガレージストリートの昼は、生活の顔をしている。


 雑貨屋。


 衣類店。


 飯屋。


 修理処。


 金物屋。


 前にも見た通りだ。


 けれど、前よりも安全になったわけではない。


 ユウの視線は、通りの端から端まで忙しく動いていた。


 店先。


 路地。


 人の手元。


 足元。


 布のかかった荷物。


 しゃがみ込んだ影。


 その一つ一つを拾っている。


 ユイは帽子の奥で、少しだけ息を整えた。


 今日はテーブルを見に来ただけ。


 カップを二つ置ける、小さなテーブル。


 ユウの部屋に置く、ただそれだけの買い物。


 そのはずだった。


「まずウェイタンを見る」


 ユウが短く言う。


「はい」


 ユイは頷き、ユウの横へ少しだけ寄った。


 ガレージストリートのざわめきが、二人の前に広がっていた。

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