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銀月のロスト  作者: taka
第11章 見たことがある

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扉の前の湯気

 車庫の洗浄が終わる頃には、アジトの空気はすっかり洗浄液の匂いに変わっていた。


 焦げたワームの臭いは、まだ完全には消えていない。


 けれど床は磨かれ、車体下の泥も落とされ、タイヤハウスも泥除けも照明の下で何度も確認された。


 回収ケースは、外装を洗浄された後、別の封入ケースへ移されていた。


 タチバナはそれを片手に持ち、上着を羽織る。


「銀月へ行く」


 サエが手袋を外しながら顔を上げた。


「今から?」


「早い方がいい」


「まあ、それはそうね」


 レンジは濡れた床にモップを立てかけたまま、肩を回した。


「俺も行きます?」


「必要ない。車を見ておけ。もう一度、下回りを確認してから休め」


「了解です」


 レンジは軽く返事をしたが、今度は余計なことを言わなかった。


 タチバナはユイへ視線を向ける。


「ユイ」


「はい」


「今日はもう外に出るな」


「分かっています」


 ユイは素直に頷いた。


 タチバナは少しだけ間を置いた。


 何か言い足したそうな顔だった。


 けれど、結局それ以上は言わず、回収ケースを持って玄関側へ向かう。


 扉が開く。


 外の空気が一瞬だけ入り、すぐに閉じた。


 アジトの中に、静けさが戻る。


 ユイはその音を聞いていた。


 父が出ていった音。


 けれど、ユイの足は自分の部屋には向かなかった。


 キッチンへ向かう。


 棚からマグカップを二つ取り出した。


 片方は自分がよく使うもの。


 もう片方は、特に誰のものとも決まっていない、無地のカップ。


 温め直した飲み物を注ぐ。


 湯気がゆっくり立ち上った。


 それから、棚にあった簡単に口にできるものを小皿に載せる。


 固くないパン。


 少し甘い保存菓子。


 手を汚さずにつまめるもの。


 サエがその様子を見て、片眉を上げた。


「……ユイ」


「はい」


「それ、少し話すだけの準備じゃないわよ」


 ユイはカップを持ったまま、まじめな顔で答えた。


「少し、話すだけです」


「その量で?」


「念のためです」


 サエは一瞬だけ黙った後、小さく息を吐いた。


「……分かった。でも、無理に聞き出そうとしないこと」


「はい」


「あと、あの子が話さないなら、それは話せないってことよ」


 ユイは少しだけ視線を落とした。


「分かっています」


 本当に分かっているかは、自分でも少し怪しかった。


 ユウの声が、まだ耳に残っている。


 ――見たことがある。


 それだけだった。


 けれど、その一言の後に続かなかったものが、ユイにはどうしても気になっていた。


 何を見たのか。


 どこで見たのか。


 どんな顔で、それを見ていたのか。


 聞いていいことなのかも分からない。


 でも、あのまま一人で部屋へ戻る気にはなれなかった。


 ユイはマグカップを二つ持ち、小皿を慎重に腕へ寄せた。


 廊下へ出る。


 アジトの中は静かだった。


 車庫の方から、レンジが工具を動かす小さな音が聞こえる。


 サーバールームの奥では、機械の冷却音が低く続いている。


 ユウの部屋の前で、ユイは足を止めた。


 両手が塞がっている。


 少し考えてから、小皿を片手に寄せ、指の背で扉を叩いた。


 小さな音が、廊下に落ちる。


 ユイは扉の前で、湯気の立つカップを抱えたまま待った。


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