持ち帰ったもの
シャッターが開く音がした。
重い金属が上へ巻き上がり、アジトの車庫に白いライトが落ちる。
車はそのまま中へ滑り込んだ。
レンジは速度を落とし、いつもの位置へ車を入れる。
タイヤが床の薄い水跡を踏み、低く音を立てた。
シャッターが閉まる。
外の臭いが、そこで切れた。
……ように思えた。
ユウは後部座席で、SMGの安全を確認した。
火薬の臭い。
燃料の臭い。
焦げたワームの臭い。
それらは服にも、ブーツにも、髪にも染みついている。
タチバナは助手席で回収ケースを抱えていた。
表情は変わらない。
だが、膝の上のケースを押さえる指だけが、少し強い。
「戻った」
タチバナが通信へ短く告げる。
すぐに、奥の扉が開いた。
サーバールーム側から、ユイが出てくる。
少し遅れて、サエもその後ろに見えた。
ユイはまだ緊張した顔をしていた。
けれど、車が無事に戻ったことで、張り詰めていたものが少しだけ緩んでいる。
「おかえりなさい」
最初に言った相手は、たぶんタチバナだった。
けれど、目はすぐユウを探した。
ユウが車を降りる。
床に足をつけた瞬間、ブーツの裏から乾いた土が落ちた。
焦げた臭いが、車庫の空気に混ざる。
ユイは一歩、こちらへ近づいた。
「ユウ、おかえり」
その声に、少しだけ安堵が混じっていた。
ユウは返事をしようとした。
だが、その前に、視線が落ちた。
車体の下。
後輪の内側。
暗い影の奥から、泥のようなものが落ちている。
ただの泥に見えた。
灰褐色。
細く、汚れたゴム片のような色。
床の汚れに紛れれば、誰も気にしない。
それが、ユイの背後へ向かって這った。
ユウの身体が先に動いた。
「来るな」
言葉と同時に、ユイの腕を掴んだ。
引き寄せる。
ユイの身体が、ユウの胸元へぶつかる。
驚いた息が、すぐ近くで止まった。
次の瞬間、ユウのブーツが床へ落ちた。
ぐしゃ、と湿った音がした。
ユウはそのまま体重をかける。
靴底の下で、まだ何かが痙攣している。
もう一度、踏み込んだ。
潰れる音が、小さく車庫に響いた。
「……近いです」
ユイが、固まったまま言った。
声は小さい。
何が起きたのか、まだ追いついていない顔だった。
ユウは足元を見たまま答える。
「後ろにいた」
ユイの表情が止まった。
その言葉の意味が、一拍遅れて届く。
後ろ。
自分の背後。
自分の足元。
見えていなかった場所。
そこに、これがいた。
ユイの喉が小さく鳴った。
彼女の指が、ユウの上着を掴む。
掴んだ、というより、縋るように胸元へ身を寄せていた。
本人は、それに気づいていない。
ユウも何も言わなかった。
赤くない。
現場で見た群れ色ではない。
灰褐色。
泥に似せた、単独の色。
「単独」
その一言で、車庫の空気が変わった。
タチバナが車から降りた。
回収ケースを片手に持ったまま、潰れたワームを見る。
次に、ユウの腕の中にいるユイを見る。
タチバナの目が、少し怖くなった。
理解はしているはずだった。
ユウの判断は正しい。
ユイは助かった。
引き寄せなければ、今頃ユイの足元に届いていた。
それでも、目の前で娘が若い男に抱き寄せられている。
それはそれとして、目が怖かった。
「……タチバナ」
サエが呆れた声を出した。
「気持ちは分からなくもないけど、今それどころじゃないでしょ」
タチバナは一拍だけ黙った。
「……分かっている」
「なら目を戻して。車体下、床、靴裏、回収ケース。全部見るわよ」
その言葉で、タチバナの顔が仕事に戻った。
「レンジ」
「はい」
レンジも降りていた。
さっきまで何か言いたそうな顔をしていたが、タチバナの目を見て、完全に黙っている。
「車体下を開けろ。タイヤハウス、泥除け、下回り、全部見る」
「了解」
「サエ、ユイを確認しろ。服、靴、髪、背中側まで」
「分かってる」
「ユウ」
「何だ」
「そのまま動くな。踏んだ個体が散っていないか見る」
「分かった」
ユウは頷いた。
ユイはまだユウの上着を掴んでいる。
手に力が入ったままだ。
ユウはそれを見下ろして、少しだけ眉を寄せた。
「サエに見てもらってこい」
「……え?」
「服の中に入ってたらまずい」
その言葉で、ユイの顔から血の気が引いた。
彼女の指が、ようやくユウの上着から離れる。
サエがすぐにユイの肩を抱いた。
「はい、こっち。今だけ我慢して。確認終わるまで安心しない」
ユイは小さく頷いた。
「……はい」
声が震えていた。
サエはユイを車庫の端、作業灯の下へ連れていく。
乱暴ではない。
だが、甘くもない。
袖。
裾。
帽子の中。
髪の隙間。
背中。
靴。
靴底。
サエの手は淡々としていた。
「気持ち悪くても我慢。いたらもっと嫌だから」
「……分かってます」
ユイは青い顔で答える。
タチバナはそれを一度だけ見てから、車体の下へ向かった。
レンジがジャッキとライトを持ち出す。
車体下に強い光が差し込んだ。
床へ泥が落ちる。
ユウは踏み潰したワームから足を離さず、周囲を見る。
潰れた体は灰色だった。
中身だけが赤黒い。
それが床に薄く広がっている。
単独個体。
群れから逃げたのか。
火で散ったのか。
死体を車の近くへ引いた時に、下へ潜ったのか。
どれでも同じだ。
持ち帰った。
それが一番まずい。
レンジが車体の下を覗き込む。
「……タイヤハウスに泥、多いですね」
「全部落とせ」
タチバナが言う。
「燃やします?」
「まず洗い出す。動くものがあれば焼く」
「了解」
レンジは軽口を挟まなかった。
車庫に水音が増える。
洗浄液が撒かれ、ブラシが床を擦る。
車体下へ薬剤が吹きつけられ、泥と血と焦げた肉片が排水溝へ流れていく。
サエの声が飛ぶ。
「ユイ、靴脱いで。片足ずつ」
「はい」
「足首も見る。服の裾、上げて」
「……はい」
ユイの声は小さい。
いつものような柔らかさはない。
恐怖が、まだ喉の奥に残っている。
ユウはそれを聞きながら、視線を床から外さなかった。
靴底の下で潰れたものは、もう動かない。
だが、こういう時は、動かないものより動かなかったものの方が怖い。
気づかなかったら。
見落としていたら。
服の中に潜っていたら。
アジトの床板の下へ逃げていたら。
眠っている誰かの近くまで行っていたら。
ユウは、そういう死に方を見たことがある。
息をしていたやつが、朝には腹を食い破られていた。
倒れていた男の服の下から、灰色の細いものが何匹も出てきた。
死体の下に筋が集まっていて、近づいた子供が止められる前に泣き叫んだ。
見たくなくても、見えた。
下層では、そういうものだった。
「ユウ」
タチバナの声。
ユウは顔を上げる。
「足をどけろ。処理する」
ユウは慎重に足を動かした。
タチバナが潰れた個体へ小型バーナーを向ける。
火が点く。
灰褐色の残骸が、黒く縮んだ。
その臭いに、ユイが小さく肩を震わせる。
サエがユイの背中へ手を置いた。
「大丈夫。今のところ、あんたには付いてない」
「……本当ですか」
「本当。靴も服も見た。髪も見た。大丈夫」
ユイはそこで初めて、長く息を吐いた。
だが、安心しきった顔ではない。
自分の背後から、見えないものが這ってきていた。
その事実が、まだ身体の中に残っている。
タチバナは焼き終えた残骸を処理袋へ入れた。
「車庫は一度閉める。今日中に床を洗う。車体は再点検。回収ケースは外装洗浄後、地下へ運ぶ」
「了解」
レンジが短く答える。
「服は?」
サエが聞く。
「前線に出たものは全部洗浄。駄目なら焼く」
「分かった」
レンジが一瞬だけ顔をしかめた。
「このジャケット、気に入ってたんですけどね」
タチバナの目が向く。
レンジは即座に両手を上げた。
「焼きましょう。命の方が大事です」
サエが呆れたように息を吐いた。
それでも、その小さなやり取りで、車庫の空気がわずかに動いた。
ユイは作業灯の下で、自分の手を見ていた。
さっきまでユウの上着を掴んでいた手。
指先に、その感触が残っている。
けれど、今はまだ恥ずかしさより、恐怖の方が大きい。
ユウはその視線に気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、床へ目を戻す。
「ユウ」
ユイが呼んだ。
声はまだ少し震えていた。
「どうして……分かったの?」
ユウはしばらく黙った。
サエの手が止まる。
レンジも、車体下から顔を上げた。
タチバナは何も言わず、ユウを見ている。
ユウは潰れた個体が焼かれた跡を見た。
黒い染みが、床に残っている。
「見たことがある」
それだけ言った。
ユイは何も返せなかった。
ユウも続けなかった。
車庫には、洗浄液の匂いと、焦げた臭いと、低く回る換気ファンの音だけが残った。




