下だ
「下だ」
ユウの声に、タチバナはすぐ反応した。
問い返さない。
死体を覗き込まない。
その場で足を止めたまま、視線だけを地面へ走らせる。
死体へ向かって伸びる、細い擦り跡。
草の少ない荒地。
乾いた土の下で、何かが這ったような不自然な筋。
タチバナは一度だけ息を吐いた。
「レンジ」
『はい』
車内から返事が来る。
軽さはもうなかった。
「燃料を出せ。撒く。こっちへ来るな」
『了解』
運転席側の窓が少し開き、車載ケースが外へ押し出される。
中には小型の燃料ボトルと、車載フック、細いワイヤー、それから焼夷手榴弾が入っていた。
タチバナはケースを片手で受け取り、ユウへ一つ投げる。
「持て」
ユウは燃料ボトルを受け取った。
「どう撒く」
「囲う。ただし、一箇所だけ空ける」
タチバナは死体の周囲を指で示した。
近づきすぎず、だが遠すぎない位置。
死体を中心に、半円を二重に描くような線。
そして、車とは反対側へ一本だけ道を残す。
「あそこへ寄せる」
「火で」
「そうだ。撃つな。散る」
ユウは頷いた。
ピアースワームは、銃で相手をするものではない。
一匹一匹は弱い。
踏めば潰れる。
撃てば千切れる。
だが、群れは違う。
一匹が死んでも、残りが動く。
一箇所を撃てば、別の場所から出る。
下手に散らせば、足元、車体の下、荷物の影、死体の腹の中――どこへでも潜り込む。
だから、火で動きを縛る。
ユウは燃料を撒いた。
乾いた土に、透明な液体が細く染みていく。
鼻の奥を刺す臭いが、腐肉の臭いに重なった。
タチバナも反対側に燃料を撒いていく。
無駄がない。
多すぎれば燃え広がる。
少なすぎれば抜けられる。
そのぎりぎりを知っている手つきだった。
『……火を使うんですか』
通信越しにユイの声がした。
「使う」
タチバナは短く答える。
『死体の近くで……?』
「死体を守るためだ」
それ以上は説明しなかった。
サエの声が重なる。
『ユイ、今は見て覚えるだけ。口を挟まない』
『……はい』
ユウは燃料の線を確認した。
逃げ道は一つ。
その先は、焼夷手榴弾の投擲位置として開けてある。
車両のライトが地面を白く照らしていた。
その外側、壊れた護衛車両の影で、キャリオンの目が光る。
さっき散った群れが、まだこちらを見ている。
ユウはSMGの安全を外した。
「キャリオン、右奥」
『見えてます』
レンジの声。
『こっちは任せてください』
タチバナは車載フックを手に取った。
先端に返しのある金属フック。
ワイヤーがついている。
死体や瓦礫を引くための道具だ。
タチバナはそれを一度だけ振り、死体の胴へ向けて投げた。
金属音が鳴った。
フックが、死体の装備に引っかかる。
その瞬間、地面が動いた。
死体の下の土が、泡立つように盛り上がる。
赤いものが覗いた。
一匹。
違う。
二匹、三匹、五匹。
土の筋が裂けるように広がり、そこから赤黒い細長い体が束になって這い出してくる。
湿った肉色。
節の間に赤紫の筋。
群れ全体が興奮しているように、体表が濡れて光っていた。
ピアースワーム。
群れ色だ。
「来る」
ユウが言うより早く、ワームたちは死体へ群がった。
餌だと判断したのだろう。
焼け残った肉へ。
血の臭いへ。
動いたものへ。
だが、周囲には火の線がある。
タチバナが着火した。
燃料が一気に走る。
死体の周囲を、細い炎が囲んだ。
ワームの一部が反射的に退く。
だが群れの後ろから押され、前の個体が火へ突っ込んだ。
焼ける臭いが広がる。
赤黒い体が身を捩り、細い悲鳴のような音を立てた。
それでも後続は止まらない。
群れは一本だけ残された道へ流れ込んでいく。
タチバナが焼夷手榴弾を抜いた。
ピンが抜ける音。
短い放物線。
それは、逃げ道の中央へ落ちた。
一拍。
白く弾けた。
炎が地面を舐めるように広がり、赤い群体を呑み込んだ。
火柱というほど高くはない。
だが、面で焼くには十分だった。
ワームが跳ねる。
焼けながら、なお前へ出ようとする個体がいる。
一匹が炎の端を抜けた。
ユウは撃った。
短い三連射。
弾が地面を叩き、ワームの体を千切る。
二匹目。
撃つ。
三匹目は、火の縁から車側へ逃げようとした。
ユウは半歩だけ位置を変え、逃げ道を塞ぐ角度で撃った。
潰れた肉片が土に散る。
撃つのは抜けた個体だけ。
群れの中心へ撃ち込まない。
散らせば負ける。
ユウは息を浅くしながら、炎の向こうを見続けた。
その時、右奥の瓦礫が動いた。
キャリオンだ。
一匹が、低く身体を伏せたまま、焼けた臭いと死体の臭いに誘われて近づいてくる。
車の光を避けるように、影から影へ。
ユウが銃口を向けるより早く、車内から乾いた銃声がした。
キャリオンの頭が跳ねる。
影の中で、痩せた体が崩れ落ちた。
残りの目が、一斉に遠ざかる。
『お行儀が悪いですねえ』
レンジの声が通信に乗った。
軽口の形だけは戻っていたが、声は硬い。
「牽制だけでいい」
タチバナが言う。
『分かってます。こっちには寄せません』
ユウは炎の中を確認した。
赤い群れの動きは鈍っている。
まだ蠢いているものはあるが、こちらへ抜ける勢いはない。
タチバナはフックのワイヤーを掴んだ。
「引く」
ユウは周囲を見た。
「抜けたら撃つ」
「ああ」
タチバナがワイヤーを引く。
死体が土を擦った。
下から何かがまだまとわりつくように動いたが、火の線に触れて弾けるように退く。
焼けたワームが、死体の装備から剥がれ落ちる。
もう一度、タチバナが引いた。
死体が少しずつ、車両の方へ移動する。
車の近くはライトが強い。
レンジの射線も届く。
車体の影は気になるが、元の穴だらけの地面よりはずっとましだった。
ユウは後退しながら、死体と地面の間を見続けた。
赤いものは、ほとんど落ちた。
火に焼かれ、黒く縮み、土の上で痙攣している。
それでも、完全に安心はしない。
こういう時、最後の一匹が残る。
タチバナは死体を車両近くまで引き寄せると、フックを外さず、そのまま膝をついた。
「レンジ、ライトを落とすな」
『固定してます』
「サエ、通信維持」
『維持してる。映像は車両カメラだけ。手元は粗いわ』
「それでいい」
タチバナは工具を取り出した。
頭部の側面。
耳の後ろから首筋にかけて、人工皮膚と装甲材の継ぎ目がある。
そこへ迷わず刃を入れた。
ユウは見ていた。
興味はあった。
電脳がどう収まっているのか。
どこを外し、どこを残すのか。
回収と破壊の境目はどこなのか。
けれど、タチバナの手は速すぎた。
工具が一つ入る。
指が動く。
小さな部品が外れる。
細い線が切られる。
次の瞬間には、もう別の場所を開いている。
何をしたのか分かった時には、作業は次へ移っていた。
医者の手つきではない。
整備士の手つきとも少し違う。
生かすためではなく、必要なものを抜き、残してはいけないものを残さないための手つき。
ユウは、タチバナの横顔を見た。
いつもの顔だった。
冷静で、淡々としている。
だが、その手だけが、昔の仕事を覚えていた。
『……何をしているんですか』
ユイの声がした。
車両カメラ越しでは、細部までは見えていないはずだ。
それでも、死体の頭部にタチバナが手を入れていることくらいは分かる。
ユウは車両カメラの位置を見た。
フロント側。
ライトの下。
ちょうど、タチバナの手元が見える角度。
その向こうに、ユイがいる。
ユウは何も言わず、少しだけ立ち位置を変えた。
カメラとタチバナの間へ。
ちょうど、手元だけが隠れる位置。
『あれ? 少し映像が――』
ユイの声が途切れる。
サエは何も言わなかった。
ユウは足元と周囲を見ているふりをした。
実際、見てはいる。
キャリオンの影。
火の縁。
死体から落ちた赤黒いもの。
車体の下。
全部を見る必要がある。
ただ、それと同じくらい、見せなくていいものもあると思った。
運転席の窓越しに、レンジと目が合った。
レンジは口だけで笑っていた。
ニヤニヤというより、声に出さない笑い。
気づいている顔だ。
ユウは見なかったことにした。
『ユウくん、そこだとカメラ塞いでますよー』
レンジがわざとらしく言う。
「敵を見る位置だ」
ユウは短く返した。
『はいはい』
レンジの声には、少しだけ笑いが戻っていた。
タチバナは何も言わない。
工具の音だけが続く。
やがて、硬いケースを開く音がした。
タチバナが、血と油に濡れた小さな中枢部品を取り出す。
電脳。
それは人間の脳そのものではなかった。
だが、人間の記憶や視界や通信記録を抱えた、もう一つの頭だった。
タチバナはそれを回収ケースへ収める。
ロックが閉じた。
「回収」
『確認しました』
サエの声。
少し遅れて、ユイも言った。
『……回収、確認しました』
ユウはカメラの前から退いた。
タチバナは工具を片づけ、死体からフックを外さずに立ち上がる。
「処理はここまでだ。長居しない」
「死体は」
「置く」
タチバナは即答した。
「頭部電脳は抜いた。これ以上は割に合わない」
ユウは頷いた。
炎はまだ低く残っている。
焼けたワームの臭いが、空気に重く混じっていた。
右奥の影で、キャリオンがまた一度唸った。
だが、レンジが撃ち抜いた一匹の死体を見ているのか、近づいては来ない。
『退路、維持しています。右側はまだ通れます』
ユイの声がした。
さっきより、ほんの少しだけ落ち着いている。
タチバナは車へ向かった。
「戻る」
ユウも続く。
その足元で、焼け残った土が小さく崩れた。
火に炙られた泥が、車体の下へ跳ねる。
ただの泥に見えた。
ユウは一瞬だけ視線を落としたが、動きは見えなかった。
腐肉の臭い。
燃料の臭い。
焦げたワームの臭い。
車の排気。
全部が混ざっていた。
車のドアが開く。
タチバナが回収ケースを持って乗り込む。
ユウは最後にもう一度、死体と地面を見た。
穴だらけの荒地。
火の線。
黒く縮んだ赤い群れ。
遠くで光るキャリオンの目。
終わったように見える。
だが、終わったと決めるのは、戻ってからだ。
ユウは車に乗った。
ドアが閉まる。
レンジが小さく息を吐く。
「帰ります」
タチバナは回収ケースを膝の上に置いたまま言った。
「ああ。飛ばせ」
車が動き出した。
ライトが死体を置き去りにし、炎の残りが背後で小さく揺れた。




