ネットダイブ
サーバールームの熱は、じわりと肌にまとわりついた。
地下に押し込められた機材の群れが、低く唸り続けている。
ラックの隙間で小さなランプが点滅し、古い冷却機が天井近くで苦しそうに息を吐いていた。
油と金属の匂いが残る武器倉庫とは違う。
ここにあるのは、熱を持った機械の匂いだった。
サエはダイブ用の椅子に腰を下ろし、首元にかかっていた髪を片側へ流した。
首の後ろに指を当てる。
小さなカバーが、乾いた音を立てて開いた。
ユイが息を呑む気配がした。
「怖がらなくていいわ」
サエは振り返らずに言った。
「古い付き合いよ」
その言葉に、ユイは少しだけ表情を硬くしたまま頷く。
ケーブルの先端を手に取る。
何度も使われ、何度も直されてきた接続具だった。
外装には細かな擦れがあり、端子の根元だけ新しい部品に交換されている。
綺麗な道具ではない。
けれど、信頼できる道具だった。
サーバールームの入口で、足音が止まった。
サエはケーブルを持ったまま、視線だけを横へ流す。
タチバナが立っていた。
出発用の装備を身につけ、片手にケースを持っている。
顔はいつもの仕事の顔だった。
無駄がなく、感情を出さず、必要なことだけを残している。
けれど、視線は一瞬だけサエの首元へ向いた。
「サエ」
「分かってるわ」
サエは先に言った。
「戻る」
タチバナは黙っていた。
ほんの一拍だけ。
それから、低く言う。
「……頼む」
サエは少しだけ目を細めた。
普段なら、そこで何か一つくらい返していたかもしれない。
けれど今は、茶化さなかった。
「そっちもね」
タチバナは短く頷き、それ以上何も言わずに踵を返した。
足音が遠ざかる。
扉の向こうで、車両区画へ続く気配が消えていく。
ユイはそのやり取りを、黙って見ていた。
サエはケーブルを首の後ろへ差し込む。
端子が奥で噛み合う感触がした。
冷たい信号が、皮膚の下を走る。
サーバールームの熱気が、一瞬だけ遠のいた。
「ユイ」
「はい」
「外から見ていて。私が変なものを追い始めたら止める。遅延、負荷、輪郭の乱れ。さっき言ったところを見落とさない」
「はい」
「怖いものが見えても、手を止めない」
ユイは一拍置いてから、もう一度頷いた。
「はい」
サエは口元だけで笑った。
「いい返事」
椅子に深く身を預ける。
視界の端に、ユイのモニタが映る。
車両側の通信。
レンジの運転席カメラ。
タチバナの端末識別。
ユウの短い反応。
すべてが細い線で繋がっている。
サエは目を閉じた。
そして、沈んだ。
ネットダイブ。
電脳と接続ジャックを介し、ネットワークを視覚や感覚として処理する技術。
崩壊前は体系化されていたらしいそれも、今では古い機材と経験則で辛うじて運用されている。
最初に見えるのは、いつも光だった。
高い場所に、都市の上層ネットがある。
白く、青く、金色に、整いすぎた光が層を作っていた。
企業ロゴが幾何学模様のように流れ、認証線が規則正しく巡り、広告データが水面の反射のように揺れている。
遠くから見れば、美しい。
だが、サエはそこへ近づかない。
綺麗な場所ほど、目がある。
光の層の間を、白い多面体がゆっくりと回っていた。
監視AI。
旧時代の怪物ではない。
今の企業が作った、安い番犬だ。
思考も浅い。
判断も単純。
けれど、見つけることだけは早い。
近づきすぎれば、タグを拾われる。
長く触れば、追跡マーカーを打たれる。
だから、上は見ない。
サエは意識を下へ落とした。
光が遠ざかる。
代わりに、黒く欠けた回線が広がっていく。
断線した橋。
途中で折れた階段。
水のない暗渠。
旧時代の規格名が剥がれた標識のように浮かび、読めない文字列がところどころ腐った蔦のように絡んでいる。
その中を、淡い青い菱形が滑っていく。
それが今のサエだった。
人型ではない。
顔も、髪も、手足もない。
位置と方向だけを示す、小さな作業用の印。
見栄えのための飾りなど要らない。
処理を食うだけだ。
必要なのは、自分がどこにいて、どの向きに進み、どの回線に触れているか。
それだけでいい。
サエは欠けた回線の縁をなぞった。
車両側の信号はまだ安定している。
レンジの車は下層の幹線を抜け、企業外縁へ向かっていた。
前線の端末は細いが、まだ切れていない。
その周囲に、黒い空白が多い。
下層のネットはいつもそうだ。
生きている線より、死んでいる線の方が多い。
修理された箇所より、騙し騙し繋がっている箇所の方が多い。
古いマニュアル通りに潜れば、すぐに迷う。
だから、サエは正規の道を使わない。
壊れた道の縁を使う。
誰も整備しない暗い隙間を、なるべく触らずに渡る。
読める信号だけ拾い、分からないものには近づかない。
それが長生きするやり方だった。
ふいに、足元に赤黒い文字列が浮いた。
読めないはずの古い戦闘ログ。
文字化けした企業コード。
それが一瞬、意味を持つ。
――撤退不能。
サエは触れない。
青い菱形が少しだけ進路を変える。
次の瞬間、断線しているはずの回線の奥から、声が漏れた。
『……後退、後退しろ……!』
ノイズ混じりの男の声。
続いて銃声。
誰かの荒い呼吸。
視界の端に、赤い警告表示が重なる。
サエの認識に、別の視界が差し込んできた。
狭い道路。
横転した車両。
割れたバイザー越しの火花。
誰かが倒れている。
手が伸びる。
その手の先に、欠けたヘルメット。
一瞬だけ、サエの青い菱形の輪郭が滲んだ。
『サエさん』
ユイの声が、外側から届く。
細いけれど、はっきりした声だった。
『右下経路、遅延が増えています。アイコン輪郭に乱れ。負荷値、基準より上昇』
サエはわずかに笑う。
「見えてる」
『違います』
ユイの声が、ほんの少しだけ強くなる。
『サエさん、見えてるじゃなくて、拾っています。切ってください』
その言い方に、サエは一瞬だけ目を細めた。
上出来だ。
「了解。切るわ」
青い菱形から細い線が伸び、赤黒いログとの接触を断つ。
ノイズの声が遠ざかった。
『……見捨て――』
最後の単語だけが、黒い水へ沈むように消えた。
サエは深く追わない。
追ってはいけない。
汚染は、分かるふりをする。
読めるふりをする。
こちらが見たいものに似た形を取り、手を伸ばしてくる。
ただのノイズなら怖くない。
怖いのは、意味を持とうとする壊れた情報だ。
サエは別の経路へ移った。
上層側の煌めきが遠くに見える。
あちらを使えば、現場周辺の広域情報は早く拾える。
監視カメラの残骸も、企業系の道路管理ログも、いくつかは引けるだろう。
だが近すぎる。
白い多面体の監視AIが、遠くで規則正しく回転している。
目に似た光が、一度だけ下へ向いた。
サエは即座に光を避ける。
淡い青の菱形が、黒い欠落の裏側へ滑り込む。
『サエさん、上層側から照合波形』
「分かってる。触らない」
『迂回候補、二つ出します。左側は遅延大、でも汚染少なめ。下側は早いですが、黒領域が多いです』
サエはユイの示した経路を見る。
外側から見た線は、内側で見るよりずっと冷静だ。
内側では、声も色も痛みも混じる。
外側の数値は、そういうものに引っ張られない。
だから後ろが要る。
「左」
『はい。左経路へ誘導します』
ユイの操作で、暗い回線の奥に細い光が灯る。
派手な光ではない。
針の先ほどの目印。
サエはその光を辿った。
途中、企業ロゴの欠片が浮いていた。
六角形の外枠。
照準線。
回路図のような細い線。
CとAを組み合わせた意匠が、割れた標識のように揺れている。
C&A Corporation――Cyber & Arms。
兵器とサイバネを扱う企業の識別タグだった。
それはすぐに崩れ、銃器の分解図のような線へ変わる。
依頼主そのものか、襲われた部隊の装備元か。
あるいは単なる流れ物の残滓か。
判断するにはまだ早い。
サエは情報を拾いすぎない。
タグだけを抜き、余計なログは捨てる。
『車両、現場まで二分』
レンジの声が通信越しに入る。
『こっち、路面状態悪いですね。揺れますよ』
「把握」
サエは短く返す。
ユイがすぐに車両側情報を復唱する。
『車両、現場まで二分。路面状態悪化。映像に揺れあり。通信補正を入れます』
少しずつ、声が仕事の声になっている。
サエはその変化を聞きながら、さらに深く潜った。
現場周辺のネットは死にかけていた。
カメラの回線は三つ死んでいる。
道路灯の管理線は半分腐っている。
近くの廃棄物管理端末は応答だけ返すが、中身は空。
企業タグ付きの戦闘ログが、破れた布のように何枚も引っかかっている。
その中に、妙な沈み方をしている信号があった。
頭部電脳由来の残留波形。
まだ完全には死んでいない。
もしくは、死んだ後も端末としてだけ反応している。
青い菱形が、そこへ細い線を伸ばす。
触れる直前。
黒い回線の奥で、何かが笑った。
人の声ではない。
音声ログでもない。
割れたデータが、笑い声に似た形を取っただけだ。
同時に、視界が一瞬切り替わる。
地面。
血。
誰かの膝。
ヘルメット内の警告音。
自分のものではない心拍。
視界の端で、何かが這う。
サエの青い輪郭が、今度ははっきりと歪んだ。
『サエさん!』
ユイの声が飛ぶ。
『輪郭、崩れています。負荷急上昇。接続深度を一段戻してください』
サエは反射的に奥へ踏み込みかけていた。
あと少しで、もっと見える。
壊滅した部隊の最後。
何が襲ったのか。
誰が荷を抜いたのか。
企業が隠したがっているもの。
見える。
見える、と思わせる。
サエは奥歯を噛んだ。
「……切る」
声に出して、自分へ言い聞かせる。
青い菱形が回線を断つ。
視界に重なっていた戦闘ログが千切れた。
這うものの影も、警告音も、誰かの心拍も、一斉に遠のく。
サエの意識が、自分の位置へ戻る。
サーバールームの熱。
首の後ろの冷たい端子。
ユイの浅い呼吸。
ファンの低い唸り。
全部が、少しだけ戻ってくる。
『サエさん、大丈夫ですか』
「大丈夫」
サエは息を整える。
「今のは汚染ログ。読ませる気だった」
『……はい。数値にも出ていました』
ユイの声は震えていなかった。
少し硬かったが、ちゃんと前を見ている。
サエは小さく頷く。
「よく止めたわ」
向こうで、ユイが息を呑む気配がした。
『はい』
その返事は短かったが、先ほどより少しだけ芯があった。
レンジの通信が入る。
『現場見えました。車両、予定位置で止めます』
タチバナの声が続く。
『サエ、周辺は』
サエは汚染ログから距離を取り、現場周辺の生きた信号だけを拾い直した。
「監視網は死にかけ。上層側には繋ぐな、見られる。周辺カメラは三つ死んでる。道路灯管理線から最低限の地形だけ出す」
『腐肉喰いは』
「ネットじゃ分からないわ。でも死体電脳らしき残留波形はある。完全には壊れていない」
短い沈黙。
タチバナの声が低く返った。
『了解。入る』
ユウの声はもっと短かった。
『周りを見る』
サエは少しだけ口元を緩めた。
そうしなさい。
青い菱形が、暗い回線の縁に留まる。
上では企業ネットが煌めいている。
下では黒い欠落が広がっている。
その間に、汚染されたログがまだいくつも沈んでいた。
サエはそのどれにも深入りしない。
必要な線だけを繋ぐ。
不要なものは捨てる。
見えすぎるものからは目を逸らす。
『後方支援、通信維持しています』
ユイの声が、今度は落ち着いて届く。
サエはその声を聞きながら、現場への細い回線を固定した。
肉体の側では、タチバナとユウが死体のある場所へ向かう。
情報の側では、サエが壊れた回線の淵に立つ。
どちらも、綺麗な仕事ではない。
けれど、誰かがそこへ手を伸ばさなければならない。
サエの青い菱形が、黒い闇の中で小さく光っていた。




