焼夷準備
アジトの地下は、銀月とはまるで違う匂いがした。
油。
金属。
古い樹脂。
それから、密閉された場所に積もった埃と、よく手入れされた武器の冷たい匂い。
壁際にはラックが並び、ケースに入れられた弾薬や工具、予備部品が整然と収まっている。
雑然としているようで、どこに何があるかは決まっている。
生活空間の下に押し込められた、ファミリーの仕事の核だった。
タチバナはその中で、黙々と装備を選んでいた。
黒いケースを開け、焼夷手榴弾を一本ずつ確認する。
ピン。
外装。
刻印。
信管。
それを確かめてから、専用の緩衝材へ押し込む。
その横でレンジがショットガンを取り出していた。
「散弾、多めでいいですかね」
「ああ。スラッグも少し入れろ」
「了解」
軽い返事ではあったが、レンジの声にいつもの茶化しは薄かった。
ショットガンの機関部を開き、覗き込み、手早く閉じる。
次に弾薬ケースを引き寄せ、散弾とスラッグを分けて並べた。
ユウは少し離れた場所で、自分の装備を確認していた。
プレートジャケットの留め具。
SMGのマガジン。
予備弾。
手袋。
ブーツの締め具合。
いつもより足元を丁寧に見ている。
ユイはその様子を、地下への階段の近くで見ていた。
自分が前に出るわけではない。
それは分かっている。
でも、何も知らずに待つだけでもない。
そう思っていたはずなのに、目の前で増えていく焼夷手榴弾の数を見ると、喉の奥が少しだけ詰まった。
「……そんなに、必要なんですか?」
小さな声だった。
タチバナの手が一度止まる。
けれど、振り返らなかった。
「ワーム用だ」
短い答え。
それだけでは、ユイには十分ではなかった。
「ワーム……」
「ピアースワームよ」
答えたのはサエだった。
彼女は武器倉庫の入口に寄りかかり、腕を組んでいた。
その声は穏やかだったが、軽くはない。
「一匹なら大したことはないわ。撃てば死ぬ。踏み潰すこともできる」
ユイは少しだけ肩の力を抜きかけた。
サエは続ける。
「でも、巣を踏むと数百で来る」
その一言で、空気が少し冷えた。
レンジは弾を込める手を止めなかった。
口も挟まなかった。
サエはユイの顔を見ながら、必要な分だけ言葉を選んだ。
「外から噛み砕く虫じゃないの。傷口や隙間から入ってくる。倒れている人間、眠っている人間、死体の近くにいる人間が特に危ない」
ユイの指先が、無意識に自分の袖を掴む。
「眠っているだけでも、ですか」
「ええ。単独の時は、感覚を麻痺させる毒を出すことがある。だから、気づかないうちに入り込まれる」
サエはそこで一度だけ間を置いた。
「だから火を使う。倒すためというより、近づけないために」
ユイの視線が、タチバナの手元へ落ちる。
焼夷手榴弾。
燃料。
予備の小型タンク。
防護手袋。
汚染チェック用の簡易キット。
頭部電脳を収めるための遮断ケース。
それらが、ただの装備ではなく、現場で何を避けるためのものなのか、少しずつ形を持ち始める。
「一匹なら雑魚」
レンジが小さく呟いた。
「巣を踏んだら終わり、ってやつですね」
軽口に近い言い方だったが、笑いはなかった。
ユイは、その場にいた全員の顔を見た。
誰も驚いていない。
誰も、冗談にしようとしていない。
そして最後に、ユウを見る。
ユウは黙ったまま、手袋の締め具合を確かめていた。
留め具を引き、指を握り、開く。
何度も確かめるように。
「ユウは……知ってたんですか?」
問いかけると、ユウの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから彼は顔を上げた。
「見たことはある」
短い答えだった。
ユイは息を呑む。
「どういう……」
「覚える必要はない」
ユウは視線を戻した。
「今回は後ろだろ。近づくな。それだけ覚えればいい」
ぶっきらぼうな言い方だった。
でも、ユイには少しだけ分かるようになっていた。
それが突き放す言葉ではないことを。
彼は、言わないでいてくれている。
見たものをそのまま渡さない。
知っている汚さを、こちらへ全部投げない。
そのために言葉を削っている。
ユイは何か言おうとして、結局、静かに頷いた。
「……はい」
サエがその横顔を見て、ほんの少し目元を緩めた。
「じゃあ、あなたはこっち」
そう言って、サエは武器倉庫のさらに奥へ向かう。
地下の奥にある扉を開けると、空気が変わった。
そこはサーバールームだった。
武器倉庫の油と金属の匂いとは違う。
熱を持った機械の匂いが、狭い部屋の中にこもっている。
ラックに収められた機材が壁際に並び、その奥で無数のファンが低く唸っていた。
天井近くの古い冷却機が懸命に動いている。
それでも、部屋の空気は少し重い。
足元を、細い温風が撫でていく。
ユイは思わず頬に手を当てた。
「少し、暑いですね」
「機材が多いからね。冷却が追いついてるだけマシよ」
サエは椅子を引き、自分の端末を起動する。
複数のモニタに薄い光が灯り、線と文字列が流れ始めた。
「私はこっちで潜る。あなたはその席」
サエが隣のコンソールを指す。
そこには、見慣れた新しい端末だけではなく、古い手動切替盤も置かれていた。
物理スイッチ。
回線表示。
予備の入力キー。
タチバナから何度も触らされたものと似ている。
ユイは椅子に腰を下ろした。
背筋が少し伸びる。
「やることは覚えてる?」
「はい。生きている回線を探して、優先順位をつけます。サエさんが接続中にノイズが増えたら、迂回できる経路を探します。自動判断に頼りすぎない」
「よろしい」
サエは満足そうに頷いた。
「現場の通信は綺麗じゃないと思いなさい。汚染もある。壊れた電脳や残骸を拾うと、変なログが混じるかもしれない。焦らないこと」
「はい」
「それと、怖いものを見ても手を止めない」
ユイの返事が、一拍遅れた。
「……はい」
サエはそれ以上、何も言わなかった。
その代わり、通信回線を開く。
モニタの端に、車両側の識別が表示された。
レンジ。
タチバナ。
ユウ。
それぞれの端末が順に待機状態になる。
ユイはヘッドセットを手に取った。
耳にかける。
マイクを調整する。
小さく息を吸う。
そして、ほとんど反射のように最初の回線を開いた。
「ユウ、聞こえますか?」
サエの手が止まった。
少し離れた武器倉庫側で、タチバナの眉間に深い皺が寄る。
通信の向こうから、短い声が返った。
『聞こえてる』
ユイの表情が、ほんの少しだけ明るくなる。
「はい。こちらも問題ありません」
その声は真面目だった。
真面目だったが、わずかに弾んでいた。
サエが横から静かに言う。
「……確認順、先に車両側全体ね」
ユイの肩が跳ねた。
「っ、はい。すみません」
通信越しに、レンジの押し殺した息が聞こえた。
『若いねえ』
「レンジ」
タチバナの低い声が即座に割り込む。
『はいはい。黙りますよ』
その返事にも笑いが混じっていたが、すぐに仕事の声へ戻る。
『車両側、問題なし。エンジン、通信、外部カメラ、全部生きてます。荷台も空けてある。回収ケース固定済み』
サエがユイを見る。
「復唱」
ユイは慌ててモニタを確認し、表示を追いながら答えた。
「車両側、問題なし。エンジン、通信、外部カメラ正常。荷台、回収ケース固定済み」
「よし。次、タチバナ」
ユイは頷き、回線を切り替える。
「タチバナ、聞こえますか?」
『聞こえている』
「装備状況を確認します」
『AR、予備弾、焼夷、燃料、回収工具、遮断ケース。問題なし』
ユイは表示を打ち込みながら復唱する。
指先は少し硬い。
けれど、止まらない。
サエはそれを見て、何も言わずに自分の接続準備へ戻った。
最後にユウの回線へ戻る。
今度は順番通りだった。
「ユウ、装備状況を確認します」
『SMG、予備弾、リボルバー、手袋、ナイフ。問題ない』
ユイは入力する。
「足元装備は?」
少しの沈黙。
通信の向こうで、ユウが小さく息を吐いた気配がした。
『ブーツも締めた』
「はい。確認しました」
今度はサエが少しだけ笑った。
「いいじゃない」
ユイは頬をわずかに赤くしたが、すぐに画面へ視線を戻す。
サーバールームの熱気が、頬の熱を誤魔化してくれた。
武器倉庫側では、タチバナが最後のケースを閉じていた。
重い留め金が鳴る。
レンジがショットガンを肩にかけ、車両側へ向かう。
「じゃ、車出しますかね」
タチバナは頷き、ユウを見る。
「行くぞ」
「ああ」
ユウは短く答えた。
階段上の居住スペースを通り、シャッター内の車両区画へ移動する。
ユイはモニタ越しに、車内カメラが切り替わるのを見ていた。
レンジが運転席に座る。
タチバナが助手席。
ユウは後部座席に入り、足元に置かれた装備ケースを一度だけ確認する。
車両のエンジン音が低く響いた。
地下のサーバールームにも、その振動がかすかに伝わる。
サエはダイブ用の椅子に身体を預け、首元の接続具を整えた。
「ユイ」
「はい」
「現場に入ったら、私が拾いすぎる情報をあなたが整理するの。全部見ようとしない。必要なものを拾って、不要なものは捨てる」
「はい」
「それが後ろの仕事よ」
ユイは一度だけ深く頷いた。
モニタの中で、シャッターが上がる。
外の薄汚れた光が、車両カメラに流れ込んだ。
銀月の静けさとは違う。
アジトの外の空気は、もっとざらついている。
車がゆっくりと前へ出る。
ユイはヘッドセットの位置を直し、マイクへ向かって声を出した。
「こちら後方支援。通信、維持しています」
少しだけ間があって、ユウの声が返る。
『聞こえてる』
それだけだった。
でも、ユイは画面を見つめたまま、小さく頷いた。
熱を持った機械の空気の中で、ファンの唸りが続いていた。




