死体回収
銀月の灯りは、今夜も静かだった。
磨かれたカウンターの縁に淡い光が落ち、グラスの中で琥珀色が小さく揺れる。
店内にはいつものように人がいた。
低い声。
椅子の軋み。
氷の触れ合う乾いた音。
騒がしすぎず、けれど誰一人として完全に気を抜いてはいない、銀月らしい夜の空気だった。
その奥寄りのテーブルに、ファミリーは揃っていた。
壁側にタチバナ。
その斜め向かいにサエ。
出入り口寄りにユウ。
少し崩した座り方でレンジ。
そして、タチバナの近くにユイ。
ただ、今夜はいつもと少し違った。
ユウは椅子に浅く腰掛けたまま、無意識に入口側へ意識を割いていた。
店内の空気そのものは変わらない。
けれど、テーブルの上に落ちている沈黙が、普段よりひとつ重い。
タチバナが先に口を開いた。
「仕事だ」
それだけで、レンジもユウも顔を上げた。
短い言葉だった。
だが、その声には妙な飾りがなかった。
家庭の中で見せる煮え切らなさも、娘相手の甘さもない。
必要なことだけを切り出す、いつもの“仕事の顔”だった。
「企業絡みだ」
低い声が、グラスの氷音より冷たく落ちる。
「壊滅した部隊の回収」
ユイが瞬きをした。
「回収、ですか?」
「ああ」
タチバナは頷いた。
「荷は持っていかれてる。残ってるのは遺品と死体だ」
レンジが肘を卓に置きかけて、止めた。
普段ならそこで何か軽口を挟んでいたはずだった。
けれど今夜は、それがない。
その沈黙のまま、ユイが少しだけ表情を明るくした。
「じゃあ……今回も、ユウと一緒ですね」
その声に悪意はなかった。
ごく自然な、当たり前のような響きだった。
ここ最近の積み重ねが、そのまま出たような声音だった。
だが、タチバナは間を置かなかった。
「今回は駄目だ」
空気が、わずかに止まる。
ユイの目が丸くなる。
「え……」
「前には出さない」
言葉は短い。
説明もない。
ただ、それだけだった。
ユイは困ったように父の顔を見て、それからユウの方を見た。
けれど、ユウは何も言わなかった。
言わなかった、というより、口を挟まなかった。
タチバナが娘相手にここまで即座に線を引く。
しかも仕事の場で、迷いなく。
それを見た瞬間、ユウの表情はわずかに締まっていた。
目元の力が変わり、椅子に預けていた重心がほんの少し深くなる。
理由までは分からない。
だが、いつもの企業案件より面倒で、しかもタチバナが最初からユイを切り離す程度には危ない。
それだけで十分だった。
家庭の中では信用できない時がある。
だが、こういう場のタチバナは信用できる。
ユウはそれを知っていた。
ユイが小さく唇を引いた。
「でも……」
そこでサエが、静かに口を開いた。
「今回は諦めなさい」
きっぱりとした声音だった。
柔らかく聞こえるのに、揺るがない。
「これはそういう案件よ」
ユイが言葉を探すように視線を落とす。
いつもならレンジが横から茶化して空気を散らすところだったが、彼は腕を組んだまま黙っていた。
わずかに視線を逸らし、ただタチバナの続きだけを待っている。
それだけで、この場の重さは十分すぎるほど伝わった。
タチバナは卓上の端末を指先で軽く叩きながら、続けた。
「依頼主は細かいことを喋らん」
「喋らない、じゃなくて喋りたくない、でしょうね」
サエが淡く言う。
「こっちに余計な情報を渡せば、その分だけ他所へ流れる可能性もあるもの」
「……だろうな」
タチバナは頷いた。
「位置と所属だけ寄越してきた。あとは現地判断だ」
レンジが低く息を吐く。
「雑ですねえ。いつものことですが」
「企業がロストに丁寧な説明をする時は、だいたい裏があるわ」
サエがグラスに触れもせずに言った。
「最初から絞ってるなら、それはそれで“見せたくない”ってこと」
ユウは黙って聞いていた。
入口の方に向けていた視線を戻し、卓の上へ落とす。
死体だけ残った現場。
企業案件。
情報不足。
わざわざファミリー単位で回す。
嫌な匂いしかしない。
タチバナが短く続けた。
「現場には死体が残ってる」
そこで一拍置いた。
「……目的は電脳か?」
その声は独り言に近かった。
けれど、テーブルの全員がそれを聞いた。
サエが目を細める。
「頭部回収が本命、ってことね」
電脳。
脳神経に機械補助を組み込み、記憶、通信、処理能力を拡張する中枢機構。
戦闘部隊のそれには、任務中の視界や判断ログまで残ることがある。
「記憶、戦闘ログ、実験データ。何にせよ、中身が欲しいんでしょうね」
レンジが口の端だけで笑う。
「死人本人には興味なしですね。企業らしいです」
「ロスト上がりの部隊だ」
タチバナが淡々と告げた。
「使い捨ての実験部隊だった可能性が高い」
ユイの指先が、膝の上でわずかに縮こまった。
その反応を見ながらも、タチバナは言葉を止めない。
「荷は抜かれてる。だが頭が残ってるなら、回収理由にはなる」
「逆に、そこだけ壊されていたらどうしますか?」
とレンジ。
「その時はその時だ」
「相変わらず割り切りますね」
「割り切らんと仕事にならん」
短いやり取りの後、サエが息を吐いた。
「死体が残ってるなら、別の面倒もあるわね」
ユイがそちらを見る。
サエは指を折るように、静かに言った。
「キャリオン。ポッドフライ。場所によってはグール。あと……ワームもあり得る」
その最後の一語だけ、空気が少し重く沈んだ。
ユイは無意識に背筋を伸ばした。
ユウの視線が、ほんのわずかにサエへ向く。
タチバナも頷いた。
「腐肉喰いが寄ってる可能性は高い。放置時間が長いほど面倒になる」
レンジが顔をしかめる。
「賑やかし連中のフルコースってわけですね」
「キャリオン程度ならまだいいのよ」
サエが静かに返す。
「群れで寄られると救助も回収も面倒になるし、ポッドフライが乗ってたら最悪。死体に手を入れる仕事なのに、触ること自体が危険になる」
「ワームがいたら?」
ユイの声は小さかった。
サエはその問いに、少しだけ目を柔らかくした。
けれど答えは曖昧にしなかった。
「起きてる前衛なら逃げられる可能性はある。でも、倒れていたら終わり。眠ってるだけでも危ない」
ユイの喉が小さく動く。
タチバナが続けた。
「だから前には出さん」
その一言は、先ほどよりずっと重かった。
言葉の意味が、今度はユイにもはっきり届いたのだろう。
彼女はすぐには返事をしなかった。
代わりに、サエが少し体を寄せる。
「今回は外すんじゃないわ。後ろに入ってもらうの」
ユイが顔を上げた。
「後ろ……?」
「私が潜る」
サエは自分のこめかみを指先で軽く叩いた。
「現地の生きてる回線、残骸の通信、汚染の状態を見ながら後方支援に入る。その補助をあなたにしてもらう」
ユイの赤を隠した瞳が、わずかに揺れる。
タチバナがそこでようやく、説明らしい説明を足した。
「手動で経路を拾え。モニタを見て使える回線を探す。サエが潜ってる間、マイク越しで返せ。自動処理に頼り切るな」
ユイは一瞬、驚いたように父を見た。
それは多分、自分が完全な留守番にされると思っていたからだろう。
サエが口元を緩める。
「普段教わってること、無駄じゃなかったでしょう?」
ユイは小さく息を呑んで、それから静かに頷いた。
「……はい」
「現地は汚染が混じっててもおかしくないわ。変なログが出ても慌てないこと。生きてる回線と死んでる回線の見分け、ちゃんとやりなさい」
「はい」
「返事だけはいいんですけどね」
レンジがぼそりと言ったが、そこにもいつもの軽さは薄い。
タチバナはそのまま言葉を継いだ。
「装備は少し変える。焼夷を持っていく」
ユウがそこで初めて口を開いた。
「腐肉喰い対策か」
「それもある」
タチバナが頷く。
「キャリオンを散らす。ワームがいた時の線を作る。死体周りを焼けるようにしておく」
「破片じゃなくて焼夷、ですか……」
レンジが顎をさする。
「今回はそっちの方が合ってますね」
「頭を潰すなって案件で、まとめて吹き飛ばすわけにもいかないもの」
サエが言う。
「局所的に焼ける手段の方がいいわ」
ユウは短く頷いた。
仕事の中身が、少しずつ具体的な形を持ち始める。
死体。
電脳。
腐肉喰い。
焼夷。
やることは見えてきた。
ただ、その分だけ嫌な仕事だとも分かる。
ユイはまだ完全には納得しきれていない顔をしていた。
それでも先ほどのように「一緒に行きたい」とは言わなかった。
代わりに、小さく問う。
「……私、本当に役に立てますか」
その声に、今度はタチバナより先にサエが答えた。
「立てるから座ってるのよ」
そして少しだけ間を置き、
「役に立たないなら、最初から諦めなさいってだけで終わらせてるわ」
その言葉に、ユイはゆっくりと息を吐いた。
レンジが肩をすくめる。
「ま、今回は後ろも後ろで忙しそうですから」
「前より安全ってだけだ」
タチバナが言う。
「安全とは言ってない」
それを聞いて、ユウはほんのわずかに目を伏せた。
その言い方は、タチバナらしかった。
甘やかすでもなく、脅すでもなく、ただ現実だけを置く。
こういう時のこの男は、やはり信用できる。
店の奥で、誰かのグラスに氷が足された。
澄んだ音が小さく鳴って、すぐに静けさへ溶ける。
銀月の空気は変わらない。
けれど、テーブルの上にはもう次の現場の匂いが落ちていた。
死体の残る場所。
そこへ寄るものたち。
そして、喋りすぎない企業の都合。
ユウは卓の上の端末へ視線を落としたまま、静かに口を開く。
「出るのはいつだ」
「明朝」
タチバナが即座に返す。
「今夜のうちに装備を見直す。焼夷も増やす。サエとユイは地下で接続準備だ」
「了解」
ユウはそれだけ答えた。
その声に余計な感情は乗っていなかった。
だが、さっきまでの若さの残る空気はもう消えていた。
ユイはそんな横顔を見て、何か言いかけて、やめる。
代わりに自分の膝の上で手を握り直し、小さく背筋を伸ばした。
銀月の灯りは静かだった。
その静けさの中で、ファミリーはそれぞれの位置へ戻っていく。
次の仕事は、もう始まっていた。




