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銀月のロスト  作者: taka
第10章 守られる側の準備

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テーブル置きませんか

 夜、部屋に戻っても、身体の熱はまだ少し残っていた。


 地下での訓練。


 そのあとの買い出し。


 食料品の紙袋を抱えて歩いた腕の重さまで、妙に身体に残っている。


 ユウは部屋へ入ると、まず壁際へ荷物を寄せた。


 それから低い台の前へ立ち、昼のうちに聞いた筋肉トレーニングの話を思い出す。


 腹。


 背中。


 腰。


 脚。


 振り向いて止まるには、その辺りが要る。


 サエはそう言った。


 自分は勝手についていた側だが、言われてみれば確かにそうなのだろう。


 ユウは床へ手をつき、まずは教わった通りに身体を支える。


 派手な動きではない。


 むしろ地味だ。


 その場で止める。


 崩さない。


 余計な力を抜く。


 そういう類いの訓練だった。


 しばらくやっていると、控えめなノックがした。


 前みたいに遠慮のない音ではない。


 かといって、昨日の朝みたいに恐る恐るでもない。


 少しだけ迷いが薄くなった音だった。


「入れ」


 返すと、扉が開く。


 入ってきたのは、やはりユイだった。


 片手に飲み物。


 もう片方の腕には、見慣れたクッションを抱えている。


 ユウはそれを見て、一瞬だけ眉を動かす。


 飲み物はまだ分かる。


 だがクッションの方は、どう見ても“自分が座るため”の持ち込みだった。


 ユイはそんな視線に気づいても、今さら気にした様子もない。


 当然のように部屋へ入り、まず棚の上を見る。


 青い置物――いるか。


 それが変わらずそこにあるのを確認して、少しだけ表情が緩む。


 それからようやくユウの方を向いた。


「飲み物です」


「……ああ」


 受け取る。


 その間にユイは、もうクッションをベッドの上へ置いていた。


 置いて、軽く形を整え、その上へ自分で座る。


 動きに迷いがない。


 前なら少しだけ様子を窺っていたかもしれない。


 でも今日は違った。


 戻ってきた距離感の分だけ、そこへの躊躇いが減っている。


 ユウはそれを見ても、追い出しはしない。


 追い出す理由もない。


 飲み物をひと口飲んでから、またトレーニングへ戻る。


 ユイはクッションを膝へ抱えたまま、その様子を見ていた。


「まだやるんですか?」


「気になるなら今のうちにやっとく」


 短く返す。


「そんなにすぐ変わるものなんですか?」


「知らん」


 本当に知らないのだろう。


 だからやる。


 その理屈だけは、妙に真っ直ぐだった。


 ユイはそれを見て、小さく息をつく。


 呆れではない。


 どちらかというと、少しだけ安心したような響きだった。


 昨日までなら、この部屋に来ても空気のどこかに傷の重さが残っていた。


 でも今は、それが少し薄い。


 完全に消えたわけではない。


 ただ、ユウがいつも通りに動いて、いつも通りに返してくれるから、その分だけこちらも普通に座っていられる。


 しばらくして、ユイがふと手元の飲み物を見た。


 それから部屋の中を見回す。


 視線が行く先には、相変わらず何もない。


 壁。


 低い台。


 ベッド。


 棚。


 いるか。


 終わり。


 飲み物を置こうにも、ちょうどいい場所がない。


 ユイは少しだけ考えてから、ぽつりと言った。


「……テーブル置きませんか?」


 ユウの動きが一瞬だけ止まる。


「何でそうなる」


 もっともな返しだった。


 ユイはクッションを抱えたまま、かなり真面目な顔で続ける。


「だって不便です」


 そう言って、手の中のカップを少し持ち上げて見せる。


「飲み物も置けませんし」


「床でいいだろ」


「よくないです」


 即答だった。


「こぼしたら嫌じゃないですか」


「こぼさなきゃいい」


「そういう話じゃないです」


 今日のユイは、前より少しだけ遠慮が薄い。


 でも押しつけがましいわけでもない。


 ちゃんと理由を言って、ちゃんと必要性を主張してくる。


 その理屈自体は、否定しづらかった。


 ユウは一度だけ飲み物の置き場を見て、それから部屋の中を見回す。


 確かに、今こうして持っている間も、置き場所は曖昧だ。


「……そんなに要るか」


 かなり譲歩した言い方だった。


 ユイの顔が少しだけ明るくなる。


「要ります」


 やはり即答だった。


「小さいのでいいんです」


「折りたためるのでもいいです」


「置く場所があれば全然違います」


 そこまで具体的に言えるあたり、もう頭の中ではかなり形になっているのだろう。


 ユウは少しだけ嫌そうな顔をする。


 だがそれは、本気で嫌がっているというより、また部屋に何か増えるのか、くらいの顔だった。


 ユイはその表情を見て、でも引かない。


 前なら勢いで押したかもしれない。


 今は少し違う。


「……あった方が便利です」


 最後にもう一度、少しだけ柔らかく言う。


 その言い方に、ユウは小さく息を吐いた。


 完全に押し切られたわけではない。


 でも、否定するほどの理由もなくなっている。


 そんな顔だった。


「今度見る」


「本当ですか?」


 すぐ食いつく。


「まだ決めてない」


「でも見てはくれるんですね」


 妙なところだけ拾う。


 その感じが、また少しだけ前のユイに戻っている。


 ユウは飲み物をもうひと口飲んだ。


「……まあな」


 それで十分だったらしい。


 ユイはクッションを抱え直し、少しだけ座り方を楽な方へずらす。


 もう完全に“自分の座る場所”として使っている。


 その自然さに、ユウは言及しない。


 言及しないまま、また地味な体幹の動きへ戻る。


 その横でユイは、たまに飲み物を勧めたり、たまに部屋を見回したり、たまにまた棚の上のいるかを見たりしながら、静かに座っている。


 会話は多くない。


 でも途切れても気まずくない。


 昨日の夜、一度はここまで来られなかったのが嘘みたいに、今はちゃんとこの部屋の中にいる。


 何もなかったわけではない。


 何も変わらなかったわけでもない。


 それでも、こうしてまた部屋にクッションを持ち込み、飲み物を渡し、テーブルの必要性まで説き始めるくらいには、距離は戻ってきていた。


 多分この先、また少しずつ物が増えるのだろう。


 ユウはそんなことまで深く考えない。


 ただ今は、腹と背中に地味な負荷を感じながら、サエの言った“止まるための筋肉”を頭の中で反芻している。


 ユイはそんなユウを見て、小さく笑った。


 今日一日で、訓練も、防具も、買い出しもあった。


 それでも最後にこうしてここへ来て、いつも通りに近い空気へ戻れていることが、少しだけ嬉しい。


 部屋の中は相変わらず簡素だった。


 けれど、その簡素な部屋の中に、青い置物と、飲み物と、クッションと、テーブルを増やそうとする声まである。


 それだけで、前より少しだけ“誰かの部屋”らしくなってきている気がした。


 夜は静かに更けていく。

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