訓練のお願い
朝食の席には、昨日の名残がまだ少しだけ残っていた。
空気そのものはいつもの朝と大きく変わらない。
食器の音。
湯気の立つスープ。
焼いたパンの匂い。
けれど、テーブルについた顔ぶれの視線は、どうしても一度はユウの肩口へ向く。
包帯は服の下に隠れている。
それでも動き方や、肩のわずかな固さで、見ている側には分かるのだろう。
サエが最初に口を開いた。
「傷はどう?」
淡々とした聞き方だった。
大げさに心配するでもなく、ただ確認する調子だ。
レンジもその隣で頷く。
「夜のうちに熱とか出てないです?」
ユウはパンを一口齧ってから、いつもと変わらない調子で返す。
「別に」
本当に大して気にしていない声だった。
「動く分には問題ない」
それを聞いて、サエは小さく息をつく。
レンジは「まあ、本人がそう言うなら」と肩を竦める。
そのやり取りの横で、タチバナは黙っていた。
食事の手は止まっていない。
だが、視線だけが時々ユイへ向く。
何か言いたそうな顔だ。
言いたいことは多分いくつもある。
けれど、それを今ここでどう言葉にするべきか考えているうちに、口を挟むタイミングを逃しているようにも見えた。
ユイはその空気に気づいていないのか、あるいは気づいていても今はそちらまで意識が回らないのか、真面目な顔で座っていた。
そして、そこでぽつりと口を開く。
「朝に、部屋で消毒し直しました」
タチバナが固まった。
本当に、ぴたりと動きが止まる。
視線が一度ユイへ向き、次にユウへ行き、それからまた食器へ戻る。
だが戻った目が、すぐには何も映していない。
その口元が、わずかに「俺が」と動きかけたところで、サエが横から視線だけで止めた。
声には出さない。
ただ、それ以上余計なことを言うなと分かる目だった。
タチバナは口を閉じる。
閉じたまま、渋い顔で黙るしかない。
レンジがその一連を見て、危うく吹きそうになりながらも、どうにか表情を整えた。
「いやあ、でも」
咳払いをごまかすみたいに言葉を挟む。
「小さい傷だからと放っておいたら、膿んでそれが原因で、ってのは割とありますからねぇ」
それは軽い調子で言っているようで、内容は正しい。
下層で生きる人間にとっては、むしろ正しすぎるくらいだった。
サエも頷く。
「そうね。こういう仕事に就いている以上、大事なことよ」
さらに静かに続ける。
「何日かは無理をしない方がいいわね」
そこまで言われても、ユウは大して深刻そうな顔をしない。
やはり本人の中では、そこまで大きなことではないのだろう。
その脇で、ユイがほんの少しだけ胸を張った。
本当に少しだけだ。
でも、ちゃんとやるべきことをやった、という顔だった。
レンジがそれを見てまた肩を揺らしそうになる。
ユウも横目でそれを見て、心の中で「またこいつは……」という顔になる。
だが口には出さない。
そうしているうちに、ユイは何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば」
少しだけ真面目な声になる。
「ユウにお願いがありました」
その一言で、テーブルの空気がまたわずかに変わる。
タチバナの視線がすぐに動く。
レンジは面白がる前に、一応聞く顔になる。
サエは黙ったまま、続きを待つ。
ユイはそこで一拍置いてから、はっきり言った。
「SMGの訓練に付き合って欲しいんです」
今度はふざけた感じではない。
勢いだけでもない。
言葉の置き方が、昨日までより少しだけ慎重だった。
「駄目なところを指摘してくれるだけでもいいんです」
さらに続ける。
「……お願いできませんか?」
最後のところで、少しだけ声が小さくなる。
それでも目は逸らさない。
ちゃんと頼むつもりで言っている顔だった。
タチバナの口が、今度こそはっきり開きかけた。
「俺が――」
そこまで出る直前で、またサエの視線が飛ぶ。
今度はさっきよりもはっきりした制止だった。
タチバナは口先まで出かかった言葉を飲み込む。
渋い顔がさらに渋くなる。
だが、それでも黙る。
レンジはその横で、もう笑いを堪えるのがかなり危うかった。
「いやあ……」
とだけ漏らして、どうにか口元を押さえる。
ユウはそんな空気を半分くらいしか気にしていなかった。
そもそも本人にとっては、怪我も大したことではない。
訓練の頼みも、深く考えるほどのことではない。
ただ、何でか知らないがやる気があるらしい、というくらいの認識だった。
だから返事もあっさりしている。
「分かった」
それだけだった。
深く考えた風もない。
気負いもない。
本当に、やる気があるなら悪くない、くらいの調子だ。
その軽さに、ユイの目が少しだけ見開かれる。
断られるかもしれないと思っていたのかもしれない。
だが次の瞬間には、明るさより先に安堵が来た顔になる。
「……ありがとうございます」
小さく、でもはっきり言う。
サエはそのやり取りを見て、何も口を挟まなかった。
ただ、ユイの頼み方が昨日までとは少し違うことだけは、ちゃんと見ていた。
一緒にいたい、ではなく。
近くにいたい、だけでもなく。
少しでも足を引っ張らないようにしたい。
そういう願い方へ変わっている。
その違いは小さいようで、決して小さくはない。
レンジがようやく息を吐く。
「いやあ、素直でいいですねえ」
「うるさい」
ユウが即座に返す。
「いやだって、ちゃんとお願いしてるじゃないですか」
「お前は黙って食え」
「はいはい」
レンジはそう言いながらも、まだ楽しそうだった。
タチバナはその横で、結局何も言えないまま食器へ視線を戻している。
多分本人としては、訓練に自分が付き添いたいのだろう。
だが、それを今出すと余計に話がややこしくなることも、薄々分かっている顔だった。
ユイはそれ以上浮かれたりしなかった。
ただ、ちゃんと頼めて、ちゃんと受けてもらえたことを大事に受け取っているみたいに、小さく姿勢を正した。
朝食の湯気が静かに上がる。




