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銀月のロスト  作者: taka
第10章 守られる側の準備

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朝の消毒

 朝の拠点は、まだ完全には目を覚ましきっていない静けさを残していた。


 廊下の空気は少しひんやりしていて、階下からは朝食の気配がかすかに上がってくる。


 食器の触れ合う音。


 鍋の蓋が軽く鳴る音。


 それらを聞きながら、ユイは二階の廊下で一度だけ立ち止まった。


 目の前には、ユウの部屋の扉がある。


 昨夜はここまで来られなかった。


 来て、立ち止まって、結局戻った。


 それだけのことだったのに、妙に長い夜だった気がする。


 今朝も、胸の中は少し落ち着かない。


 それでも昨夜とは違った。


 会いたいから、だけではない。


 顔を見たいから、だけでもない。


 傷を見ないといけない。


 消毒し直さないといけない。


 そう思っている自分がいた。


 ユイは小さく息を吸って、控えめに扉を叩いた。


 いつもより少し遠慮がちだった。


 でも、ちゃんと聞こえるようには叩く。


 中から間を置かずに声が返る。


「入れ」


 起きている。


 それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。


 扉を開ける。


 まず最初に視線が向いたのは、やっぱり棚の上だった。


 青い置物――いるか。


 ちゃんとある。


 昨日と同じ場所に、何でもないみたいに置かれている。


 その姿を見た瞬間、ユイの表情がほんの少しだけ緩んだ。


 口には出さない。


 けれど、少なくとも嫌われてはいないのかもしれないと、それだけで少し思えた。


 その先で、ユウはもう起きていた。


 ベッドは相変わらず使っていない。


 壁際の低い台のところに座って、何かをまとめているところだった。


 服ももう着ているし、顔つきも寝起きというより、そろそろ朝食か、くらいの温度に近い。


 肩口の包帯も見える。


 それを見た途端、昨日のことがまた胸の奥へ戻ってきた。


 ユウは入ってきたユイを一瞥した。


「何だ」


 いつも通りの短い声だった。


 それが逆に少しだけありがたい。


 ユイは扉を閉めてから、意を決して言う。


「消毒、し直します」


 ユウの眉が少しだけ動く。


「……またやるのか?」


 本気でそう思っている声だった。


 昨日一度やった。


 血も止まっている。


 だから十分だろう、とでも言いたげな顔をしている。


 ユイはその反応に、少しだけむっとする。


「化膿する可能性もあるんですよ」


 いつもみたいな勢いではない。


 でも今日は、引く気もなかった。


「昨日ちゃんとやってても、今日もう一回見るのは普通です」


 ユウは少し黙る。


 多分、本気で過剰だと思っている。


 でもユイも引かない。


 昨日みたいに泣きそうになっているわけではない。


 ただ真面目に、必要だから言っている。


 しばらくして、ユウは小さく息を吐いた。


「……分かった」


 それ以上は言わない。


 ユイはそこでようやく、医療キットを持ってきていたことに気づく。


 持ってきてよかった、と少しだけ思いながら、部屋の中へ入る。


 昨日よりは落ち着いていた。


 手順も頭に入っている。


 お父さんから教わったことも思い出せる。


 だから、完全に震えることはない。


 けれど、包帯の端を外して、傷を見た瞬間、やっぱり胸の奥がきゅっと痛んだ。


 昨日より少し乾いている。


 でもそこにある傷自体は消えていない。


 掠っただけで済んだと言われても、その傷は、昨日の出来事がまだ終わっていない証拠みたいに見えた。


 ユイは息を整え、消毒液を用意する。


「少し染みるかもしれません」


 言ってから、自分でそれが少し変だと思う。


 昨日だって痛かったはずなのに、今さらそんな確認をしている。


 でもユウは特に何も言わなかった。


「別にいい」


 軽かった。


 怪我そのものは、やっぱり大して気にしていないのだろう。


 その温度差が、ユイには少しだけ苦しい。


 それでも手は止めない。


 布へ消毒液を含ませ、慎重に傷口へ触れる。


 昨日よりは上手くできている気がする。


 力の入れ方も分かる。


 ガーゼの位置も、包帯の回し方も。


 その作業の途中で、ユイはぽつりと呟いた。


「……昨日は、ごめんなさい」


 ユウはすぐには返事をしなかった。


 部屋の中に、布の擦れる小さな音だけが続く。


 ユイは視線を上げないまま、続ける。


「私が、ついて行くって言ったから」


「私が、一緒にいたいって……そうやって言ったから」


 そこまで言って、少しだけ喉が詰まる。


「それで、あんな所に行って」


「頭まで下げさせて」


「怪我まで……」


 最後の方は少しだけ掠れた。


 昨日ほど涙は出ない。


 でも、痛いものは痛いままだ。


 ユウはその間も動かなかった。


 ただ、包帯を巻かれるままに座っている。


 やがて、短く言った。


「今回は守れたんだ」


 ユイの手が一瞬だけ止まりかける。


「それで良いだろ」


 声は相変わらず淡々としていた。


 慰めるようでもなく、励ますようでもなく、ただ事実を置くみたいに言う。


 でも、その一言はちゃんと胸に残った。


 今回は。


 その言い方が、少しだけ引っかかる。


 今回は守れた。


 じゃあ、守れない時もあるのだろうか。


 その先までは聞かなかった。


 今はまだ、そこまで言葉にする勇気がない。


 けれど、その“今回は”が小さく胸の内側へ引っかかったまま残る。


 ユイはまた手を動かした。


 包帯を巻き終える。


 昨日より少しだけ綺麗に巻けた気がする。


 少なくとも、自分ではそう思いたかった。


 最後の端を押さえて、ようやく息を吐く。


 ユウはそこでも特に傷を見直したりしなかった。


 ただ少し肩を回して、問題なさそうだと判断したらしい。


「もういいか」


「……はい」


 ユイは小さく頷く。


 それから一拍遅れて、ようやく顔を上げた。


 ユウの表情は、昨夜よりはましだった。


 疲れはまだある。


 でも、倒れそうな感じではない。


 それだけで少しだけ安心する。


 その時、階下からサエの声が上がった。


「朝食よ」


 いつも通りの声だった。


 静かで、無駄がない。


 でもその何でもない響きが、部屋の空気を少しだけ日常へ戻してくれる。


 ユイは医療キットを閉じて立ち上がる。


 それから、少しだけ迷ってから言った。


「……行きましょう」


 昨日までなら、もっと気軽に言えたかもしれない。


 でも今は少し違う。


 それでも、一緒に下りたいと思う気持ちは変わらなかった。


 ユウは短く「ああ」とだけ返して立ち上がる。


 その動きを見て、ユイはほんの少しだけ胸の奥で息をついた。


 そんな曖昧な実感を抱えたまま、二人は並んで部屋を出た。


 廊下の先には朝の気配がある。


 階下にはまだ普段通りの拠点がある。

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