傷の手当て
銀月から拠点までの帰り道は、妙に長く感じた。
遠回りしているせいもある。
追尾を切るために、いつもの道をそのままは使わなかった。
曲がる。
止まる。
少し待つ。
また歩く。
その繰り返しだ。
けれど長いと感じた一番の理由は、多分それじゃない。
ユイはほとんど何も喋らなかった。
頭から被せられたジャケットを途中で返しても、もうそれを持つ手にも力がない。
隣を歩くユウの肩口に滲んだ血だけが、ずっと視界の端に残っていた。
痛そうだった。
けれどユウは何も言わない。
歩く速さも落とさない。
ただ、拠点へ戻るまでの順番だけを守るみたいに、前を見て歩いている。
その背中が、余計に苦しかった。
拠点へ着く。
扉を開けると、中にはサエとレンジがいた。
二人とも何か話していたらしいが、こちらを見た瞬間に空気が変わる。
ジャケットを抱えたまま血の気の引いたユイ。
肩口に血の跡があるユウ。
それだけで十分だったのだろう。
レンジが一瞬だけ立ち上がりかける。
サエの目も鋭くなる。
だが、二人ともその先で騒がない。
ユウはそこでようやく深く息を吐いた。
「ユイのこと頼む」
声は低かった。
いつものぶっきらぼうさより、もっと疲れている。
「疲れたから休む……」
それだけ言って、ふらつくように部屋へ戻ろうとする。
その背中を見た瞬間だった。
うつむいていたユイが、電気でも流されたみたいに顔を跳ね上げる。
頭より先に身体が動いた。
怪我をしていない方の右腕へ、ほとんど抱きとめるみたいな勢いで手を伸ばす。
「……駄目です」
自分でも驚くほど、声が出た。
「駄目ですよ、ユウ」
ユウが少しだけ目を向ける。
でも、その視線もどこか鈍い。
本当に喋る気力もないのだと、そこで初めて分かる。
「……肩」
言葉がうまく続かない。
「肩を、手当てしないと」
必死だった。
今にも泣きそうな声なのに、それでも止めなきゃいけないことだけは分かっていた。
ユウはしばらく何も言わなかった。
言い返す気力もないのかもしれない。
そのまま促されるように向きを変え、リビングの椅子へどさりと腰を落とす。
重い音がした。
そこでようやく、サエが静かに動く。
何も聞かない。
何があったかも、今は聞かない。
ただ、すぐに医療キットを持ってくる。
レンジも何も言わない。
いつもなら一言くらい挟みそうなのに、今は黙って様子を見ている。
それが逆に、この空気の重さをはっきりさせていた。
ユイはサエからキットを受け取った。
「……上、脱いでください」
言った声が少し震える。
ユウはそれにも何も返さない。
ただ言われるまま、シャツを肩から落として傷のある側を見せる。
サエが消毒液とガーゼを出してくれる。
ユイはそれを受け取り、手順を頭の中でなぞろうとする。
消毒。
確認。
ガーゼ。
包帯。
知っている。
知っているはずだった。
でも、実際に目の前にある傷を見た瞬間、全部がぐらりと揺れた。
肩口の布は裂け、そこに生々しい傷が走っている。
掠っただけ、というには赤かった。
血はもう流れ続けてはいない。
けれど、さっき確かにここから飛んだのだと分かる跡が残っている。
手が震えた。
自分がついて行ったからだ、と、頭の中で何度も繰り返す。
店でもそうだった。
あの時も、ユウは自分を庇って引き寄せた。
そのせいで余計に目立った。
自分のために、頭まで下げた。
外へ出てからもそうだ。
自分が狙われた。
だからユウはジャケットを被せた。
先に守った。
その結果が、今目の前にあるこの傷だ。
ユイは震える手で布へ消毒液を含ませる。
傷口に触れる。
その瞬間、ユウの身体にわずかに力が入るのが分かった。
ほんの少しだけだ。
痛いとも言わない。
顔をしかめるわけでもない。
それでも、身体の奥で一瞬だけ強張る。
痛いのだ。
当たり前のことなのに、その当たり前が今さら胸へ刺さる。
ユイは唇を噛んだ。
手を止めるわけにはいかない。
止めたらもっと駄目になる気がした。
慎重に傷を拭う。
血を取る。
もう一度、消毒する。
サエが横から黙って新しいガーゼを差し出す。
ユイはそれを受け取って傷へ当てる。
包帯を巻き始める。
巻いている間、視界が少しずつ歪んでいった。
最初は、ただ疲れているのだと思った。
でも違う。
滲んでいる。
そこでようやく、自分が泣きそうなのではなく、もう泣いているのだと気づく。
視界の端から熱いものが落ちそうになって、ユイは慌てて瞬きをした。
それでも完全には止まらない。
包帯を巻く手は止めない。
止めてしまったら、本当に駄目な気がした。
静かな部屋だった。
レンジも黙っている。
サエも、今は何も言わない。
医療キットの中の小さな音と、布が擦れる音と、ユイの浅い呼吸だけが聞こえる。
ユウも黙っていた。
疲れきっているのだろう。
それとも、今はもう喋るだけの気力がないのかもしれない。
どちらにしても、何も言わずにされるがままでいることが、かえって傷の重さをはっきりさせていた。
包帯を巻き終える。
少し不格好かもしれない。
でも今の自分にできる限り丁寧に巻いたつもりだった。
最後の端を押さえたところで、ユイはようやく手を離す。
指先がまだ少し震えている。
泣いているのが見られたくなくて、うつむきそうになる。
でもそれも違う気がして、結局中途半端な高さのまま止まる。
目の前には、自分が見ないふりのできない傷がある。
それがもう、どうしようもなく苦しかった。
ユウはまだ何も言わない。
その沈黙が、責めるよりもずっと重かった。




