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銀月のロスト  作者: taka
第9章 知らない場所
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銀月の裏口

 銀月へ飛び込んだあとも、ユウはすぐには息を整えなかった。


 扉が閉まる。


 それでようやく外と中が切れたと分かっても、身体の方はまだ追われていた時のままだ。


 ユイはその横で止まりきれず、半歩遅れてようやく足を止めた。


 ジャケットを頭から被ったまま、血の気の引いた顔で固まっている。


 目だけが、ユウの肩口へ吸い寄せられていた。


 店内の空気は一瞬だけ張る。


 近くにいた常連が顔を上げる。


 グラスを持っていた手が止まる。


 だが、誰も大声は出さない。


 銀月の側の人間は、こういう時に無駄に騒がない。


 マスターがカウンターの奥から二人を見る。


 視線はまずユウの肩口へ行き、次にユイの顔へ移る。


 それだけでだいたいのことは読んだらしい。


 ユウは呼吸をひとつだけ整えると、先に口を開いた。


「荷物は渡した」


 短い報告だった。


「灰狼に直接」


 マスターが小さく頷く。


 それで依頼は完了だと分かったのだろう。


 余計な確認は挟まない。


 ユウは続ける。


「面倒なのが追ってきた」


 そこでも声色は変わらない。


 肩を撃たれている人間の口調には聞こえないくらい、淡々としていた。


「残りは一人。銀月までは来ないと思う」


 店の中へ入った時点で、追ってこられるような手合いではない。


 分からないほどの馬鹿なら、もっと早くに死んでいる。


 そこはユウにも分かっていた。


「念のため、裏口を使わせてほしい」


 マスターは一瞬だけ外の方へ目を向けた。


 それから、何でもないことみたいに返す。


「構わない」


 短い言葉だった。


「裏は空いてる」


 それで話は済んだらしい。


 わざわざ誰かを出す気もない。


 出さなくても、もう相手は来ないと読んでいるのだろう。


 実際、その通りだった。


 ここへ飛び込んだ時点で、追手は終わりだ。


 銀月の扉の向こうまで続けるほどの度胸があるなら、もっと別の場所で食っている。


 そういう理屈を、この場にいる人間は全員知っている。


 マスターはそこで、肩口の血へもう一度だけ視線を戻した。


「後でちゃんと手当てしなさい」


 言い方はいつも通りだ。


 叱るでもなく、心配を大きく見せるでもない。


 ただ、必要なことだけを置く。


 ユウは小さく頷く。


「分かってる」


 それだけだった。


 ユイはまだ一言も発していなかった。


 ジャケットを被ったまま、目だけがユウの肩口に止まっている。


 血が布へ滲んでいる。


 さっき路地で飛んだ時の赤が、そのまま残っていた。


 顔色は悪い。


 さっきまでロストパラダイスで見たものも、追われたことも、ユウが撃たれたことも、全部まだ頭の中で止まっているのだろう。


 ユウはその視線に気づいても、特に何も言わない。


 騒いだところで傷が消えるわけでもない。


 今はまず帰る方が先だ。


 近くの常連が一人、低い声で言った。


「派手にやったな」


 半分は確認、半分は呆れだ。


 ユウはそちらを見ずに返す。


「向こうが勝手に寄ってきただけだ」


「そりゃ難儀だ」


 それ以上は続かない。


 深掘りする義理もない。


 それが銀月の距離だった。


 今ここにいるのは、あくまで銀月の裏側を知っている人間たちだ。


 だから余計に、驚かない。


 驚かない代わりに、必要なことだけを通す。


 マスターがカウンターの下へ視線を落とす。


「裏、使うなら今のうちに行きなさい」


 それが追い出すように聞こえないのは、この店の言い方だからだろう。


 ユウは短く「悪い」とだけ返した。


 それからようやく、横のユイへ視線を落とす。


「行くぞ」


 声は低いが、きつくはない。


 ユイはすぐには返事ができなかった。


 だが、一拍遅れて小さく頷く。


「……はい」


 やっと出た声だった。


 細くて、掠れている。


 ジャケットの端を握る指先も、まだ強張っている。


 さっきまでの勢いや、無邪気さはまるで残っていない。


 ユウはそれ以上、何も言わない。


 今は慰める場面でもないし、説教する場面でもない。


 とにかくここを出て、拠点へ戻す方が先だ。


 マスターが最後に一度だけユイを見る。


 そこに余計な情はない。


 ただ、今日の出来事がこの娘にどの程度入ったかを量るような目だった。


 だが何も言わない。


 言ったところで、今のユイに返せるものは少ないと分かっているのかもしれなかった。


 ユウは肩口の痛みをそのままに、裏口の方へ足を向ける。


 ユイも遅れてついてくる。


 まだ少し足取りは危うい。


 それでも、さっき路地で止まりかけた時よりは、ちゃんと自分で歩いていた。


 銀月の表は相変わらず静かだった。


 酒の匂い。


 木の軋み。


 低い話し声。


 何もなかったみたいな顔をして、店は回っている。


 ユウは振り返らない。


 ユイももう、何も言わない。


 そのまま二人は、銀月の奥にある裏口の方へ消えていった。

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