追跡
ロストパラダイスを出ても、空気の悪さは背中に張りついたままだった。
派手なネオンが濡れた路面へ滲んでいる。
赤。
紫。
目に痛いくらいの色。
だが、その光の下を歩く空気は冷たく、湿っていて、少しも気が抜けない。
ユイはまださっきのままだった。
顔色が悪い。
言葉も少ない。
それでもユウの服の裾を掴んだまま、離れない。
「行くぞ」
ユウが低く言う。
ユイは小さく頷くだけで、ついてくる。
ロストパラダイスの入口から少しでも距離を取る。
今はそれが先だった。
通りへ出て、ひとつ角を曲がる。
そこでユウはようやく、後ろの気配が不自然に増えたことに気づいた。
足音。
擦れる靴底。
間の詰め方。
三人。
ロストパラダイスの中にいた連中ではない。
あそこに座っていられるなら、もう少し利口だ。
外で待っていたか、匂いを嗅ぎつけて流れてきた下層の連中だろう。
ユウは振り向かない。
振り向く必要もない。
「……走るぞ」
短く言う。
ユイが「え」と小さく息を呑む。
だが、その理由を聞かせる時間はない。
後ろで足音が速くなる。
追ってきている。
しかも早い段階で抜く気だ。
追って脅すんじゃない。
最初から掴むつもりで来ている。
ユウは即座にジャケットを脱いだ。
「かぶれ」
「え?」
「いいから」
返事を待たずにユイの頭から肩へ被せる。
白い髪も、輪郭も、少しでも隠す。
顔が見えにくいだけでも違う。
「それじゃ、ユウが危なく……」
言いかけたところで、ユウはもうユイの手首を取っていた。
「止まるな」
強く引く。
それでようやくユイも走り出す。
いや、正確には引っ張られている。
まだ頭が追いついていない。
後ろから声が飛ぶ。
「待てよ!」
「娘だけ置いてけ!」
「そいつ寄越せ!」
下品で荒い声だった。
下層の路地にいる連中らしい、遠慮のない声音。
ユウはその声を無視して、まず右へ折れる。
細い路地。
突き出した箱。
積みっぱなしの木枠。
地形を使える場所へ入る。
後ろの三人もついてくる。
そのうちの一人が前へ出た。
早い。
他の二人より一歩前へ出て、横から回り込むつもりらしい。
最初に抜こうとする動きだった。
その瞬間、乾いた一発が夜を裂いた。
前へ出ていた男の頭が跳ねる。
身体が一瞬遅れてよろめき、そのまま路面へ崩れ落ちた。
何が起きたのか分からない顔のまま、動かない。
ユイが息を呑む。
ユウも一瞬だけ目だけを動かす。
上だ。
角度で分かる。
ロストパラダイスの屋上側。
首輪付きの誰かが、一発だけくれた。
それで十分だった。
追手の流れが崩れる。
残り二人の足が一瞬止まる。
ユウはその隙を逃さない。
脇に積まれていた古い木箱を蹴り倒す。
箱が崩れ、路地の真ん中へ転がる。
追手の一人がそれを避けようとして足を乱す。
「前だけ見ろ!」
ユウが言う。
ユイは頷きかけるが、もう余裕がない。
ジャケットを押さえながら、引かれるまま走る。
後ろでSMGの連射が弾けた。
壁が削れる。
火花が散る。
次の瞬間、ユウの肩口を何かが掠めた。
布が裂ける。
鈍い熱。
そのあとで痛みが追いつく。
血が飛んだ。
ユイがそれを見た。
目を見開く。
声が出ない。
足が止まりかける。
完全に固まる、その寸前でユウがもう一度手首を強く引いた。
「止まるな!」
命令だった。
慰めでも、気遣いでもない。
今はそれしかない。
ユイはそこでようやく我に返る。
返ったが、もう自分で走るというより引っ張られる側だ。
それでも動けばいい。
止まらなければいい。
後ろの二人は、血が飛んだのを見て勢いづく。
「行ける!」
「もう掴めるぞ!」
その声が聞こえた瞬間、ユウは振り向いた。
ARを肩へ上げる。
一発。
前へ出た男の足を撃ち抜く。
膝が砕けたみたいに折れ、男が派手に前のめりに転ぶ。
同時に、手にしていたSMGが弾かれて石畳の上を滑っていく。
その瞬間、そいつはもう追う側ではなくなった。
裏路地に武器を失って転がった人間は、ただの獲物だ。
男の顔から一気に色が引く。
それを見て、残ったもう一人の足も止まる。
さっきまでの勢いが消えた。
ここで押せばどうにかなる相手じゃないと、ようやく理解したらしい。
ユウはそこへ構わない。
深追いしない。
止めるべきは止めた。
今はユイを連れて走り切る方が先だ。
もう一つ、脇の金属板を蹴り倒す。
派手な音が路地へ響く。
残った追手が反射的に身を引く。
その間にまた走る。
肩口は痛む。
だが、その程度で止まる奴は生き残れない。
ユイはもう何も言わない。
言えないのだろう。
ジャケットを被ったまま、息も乱れ、ただ必死についてくる。
さっきより強く腕へしがみつくみたいに引かれていた。
銀月までの道を、ユウは最短で選ぶ。
広い通りは避ける。
だが完全な闇路地にも入らない。
人の気配が途切れすぎる場所は、今は逆に危ない。
半端に開けた、逃げ場と視線の両方がある道を繋いでいく。
後ろの気配はまだ消えない。
だが、さっきみたいに一気に詰めてくる足音ではなくなっている。
追ってはいる。
でも、さっきまでの自信はない。
十分だった。
もう一度だけ角を曲がる。
その先に、銀月の看板が見えた。
外の明かりはロストパラダイスほど派手ではない。
それでも今は、その控えめな灯りの方がよほどましに見える。
「入るぞ」
ユウが言う。
ユイは返事もできず、ただ引かれるまま頷いた。
扉を押し開ける。
中の空気が変わる。
酒と木の匂い。
いつもの銀月の空気。
だが、その静けさは二人が飛び込んできた瞬間に崩れた。
近くにいた常連が顔を上げる。
マスターもカウンターの奥で目を細める。
ユウの肩口には血が滲んでいた。
ユイはジャケットを頭から被ったまま、青ざめている。
それだけで、何かあったことは十分すぎるほど伝わる。
ユウはそこでようやく足を止めた。
止めたが、すぐには何も言わない。
呼吸が荒いわけではない。
ただ、ここまで走り切ることを優先していただけだ。
ユイもその横で止まる。
止まった途端に、膝から力が抜けそうになるのを必死でこらえていた。
背後では銀月の扉が閉まる。
その音でようやく、さっきまでの追跡がひと区切りついたような気がした。
だが、まだ何も終わってはいない。




