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銀月のロスト  作者: taka
第9章 知らない場所
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追跡

 ロストパラダイスを出ても、空気の悪さは背中に張りついたままだった。


 派手なネオンが濡れた路面へ滲んでいる。


 赤。


 紫。


 目に痛いくらいの色。


 だが、その光の下を歩く空気は冷たく、湿っていて、少しも気が抜けない。


 ユイはまださっきのままだった。


 顔色が悪い。


 言葉も少ない。


 それでもユウの服の裾を掴んだまま、離れない。


「行くぞ」


 ユウが低く言う。


 ユイは小さく頷くだけで、ついてくる。


 ロストパラダイスの入口から少しでも距離を取る。


 今はそれが先だった。


 通りへ出て、ひとつ角を曲がる。


 そこでユウはようやく、後ろの気配が不自然に増えたことに気づいた。


 足音。


 擦れる靴底。


 間の詰め方。


 三人。


 ロストパラダイスの中にいた連中ではない。


 あそこに座っていられるなら、もう少し利口だ。


 外で待っていたか、匂いを嗅ぎつけて流れてきた下層の連中だろう。


 ユウは振り向かない。


 振り向く必要もない。


「……走るぞ」


 短く言う。


 ユイが「え」と小さく息を呑む。


 だが、その理由を聞かせる時間はない。


 後ろで足音が速くなる。


 追ってきている。


 しかも早い段階で抜く気だ。


 追って脅すんじゃない。


 最初から掴むつもりで来ている。


 ユウは即座にジャケットを脱いだ。


「かぶれ」


「え?」


「いいから」


 返事を待たずにユイの頭から肩へ被せる。


 白い髪も、輪郭も、少しでも隠す。


 顔が見えにくいだけでも違う。


「それじゃ、ユウが危なく……」


 言いかけたところで、ユウはもうユイの手首を取っていた。


「止まるな」


 強く引く。


 それでようやくユイも走り出す。


 いや、正確には引っ張られている。


 まだ頭が追いついていない。


 後ろから声が飛ぶ。


「待てよ!」


「娘だけ置いてけ!」


「そいつ寄越せ!」


 下品で荒い声だった。


 下層の路地にいる連中らしい、遠慮のない声音。


 ユウはその声を無視して、まず右へ折れる。


 細い路地。


 突き出した箱。


 積みっぱなしの木枠。


 地形を使える場所へ入る。


 後ろの三人もついてくる。


 そのうちの一人が前へ出た。


 早い。


 他の二人より一歩前へ出て、横から回り込むつもりらしい。


 最初に抜こうとする動きだった。


 その瞬間、乾いた一発が夜を裂いた。


 前へ出ていた男の頭が跳ねる。


 身体が一瞬遅れてよろめき、そのまま路面へ崩れ落ちた。


 何が起きたのか分からない顔のまま、動かない。


 ユイが息を呑む。


 ユウも一瞬だけ目だけを動かす。


 上だ。


 角度で分かる。


 ロストパラダイスの屋上側。


 首輪付きの誰かが、一発だけくれた。


 それで十分だった。


 追手の流れが崩れる。


 残り二人の足が一瞬止まる。


 ユウはその隙を逃さない。


 脇に積まれていた古い木箱を蹴り倒す。


 箱が崩れ、路地の真ん中へ転がる。


 追手の一人がそれを避けようとして足を乱す。


「前だけ見ろ!」


 ユウが言う。


 ユイは頷きかけるが、もう余裕がない。


 ジャケットを押さえながら、引かれるまま走る。


 後ろでSMGの連射が弾けた。


 壁が削れる。


 火花が散る。


 次の瞬間、ユウの肩口を何かが掠めた。


 布が裂ける。


 鈍い熱。


 そのあとで痛みが追いつく。


 血が飛んだ。


 ユイがそれを見た。


 目を見開く。


 声が出ない。


 足が止まりかける。


 完全に固まる、その寸前でユウがもう一度手首を強く引いた。


「止まるな!」


 命令だった。


 慰めでも、気遣いでもない。


 今はそれしかない。


 ユイはそこでようやく我に返る。


 返ったが、もう自分で走るというより引っ張られる側だ。


 それでも動けばいい。


 止まらなければいい。


 後ろの二人は、血が飛んだのを見て勢いづく。


「行ける!」


「もう掴めるぞ!」


 その声が聞こえた瞬間、ユウは振り向いた。


 ARを肩へ上げる。


 一発。


 前へ出た男の足を撃ち抜く。


 膝が砕けたみたいに折れ、男が派手に前のめりに転ぶ。


 同時に、手にしていたSMGが弾かれて石畳の上を滑っていく。


 その瞬間、そいつはもう追う側ではなくなった。


 裏路地に武器を失って転がった人間は、ただの獲物だ。


 男の顔から一気に色が引く。


 それを見て、残ったもう一人の足も止まる。


 さっきまでの勢いが消えた。


 ここで押せばどうにかなる相手じゃないと、ようやく理解したらしい。


 ユウはそこへ構わない。


 深追いしない。


 止めるべきは止めた。


 今はユイを連れて走り切る方が先だ。


 もう一つ、脇の金属板を蹴り倒す。


 派手な音が路地へ響く。


 残った追手が反射的に身を引く。


 その間にまた走る。


 肩口は痛む。


 だが、その程度で止まる奴は生き残れない。


 ユイはもう何も言わない。


 言えないのだろう。


 ジャケットを被ったまま、息も乱れ、ただ必死についてくる。


 さっきより強く腕へしがみつくみたいに引かれていた。


 銀月までの道を、ユウは最短で選ぶ。


 広い通りは避ける。


 だが完全な闇路地にも入らない。


 人の気配が途切れすぎる場所は、今は逆に危ない。


 半端に開けた、逃げ場と視線の両方がある道を繋いでいく。


 後ろの気配はまだ消えない。


 だが、さっきみたいに一気に詰めてくる足音ではなくなっている。


 追ってはいる。


 でも、さっきまでの自信はない。


 十分だった。


 もう一度だけ角を曲がる。


 その先に、銀月の看板が見えた。


 外の明かりはロストパラダイスほど派手ではない。


 それでも今は、その控えめな灯りの方がよほどましに見える。


「入るぞ」


 ユウが言う。


 ユイは返事もできず、ただ引かれるまま頷いた。


 扉を押し開ける。


 中の空気が変わる。


 酒と木の匂い。


 いつもの銀月の空気。


 だが、その静けさは二人が飛び込んできた瞬間に崩れた。


 近くにいた常連が顔を上げる。


 マスターもカウンターの奥で目を細める。


 ユウの肩口には血が滲んでいた。


 ユイはジャケットを頭から被ったまま、青ざめている。


 それだけで、何かあったことは十分すぎるほど伝わる。


 ユウはそこでようやく足を止めた。


 止めたが、すぐには何も言わない。


 呼吸が荒いわけではない。


 ただ、ここまで走り切ることを優先していただけだ。


 ユイもその横で止まる。


 止まった途端に、膝から力が抜けそうになるのを必死でこらえていた。


 背後では銀月の扉が閉まる。


 その音でようやく、さっきまでの追跡がひと区切りついたような気がした。


 だが、まだ何も終わってはいない。

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