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銀月のロスト  作者: taka
第9章 知らない場所
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紫苑の評価

 灰狼が部屋へ入ると、紫苑はまだ画面を見ていた。


 ロストパラダイスの奥にあるその部屋は、店の表と同じ場所にあるとは思えないほど静かだった。


 暗めの色調でまとめられた室内は、上等な調度で揃っている。


 深い赤を吸った絨毯。


 重たい木の机。


 光を落としたランプ。


 外の派手なネオンは厚いカーテンの向こうで切られ、代わりに卓上の灯りと複数の画面の光だけが、部屋の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。


 豪華ではある。


 だが、飾り立てるためだけの部屋ではない。


 机の上には端末と書類が並び、壁際には記録用のラックがある。


 画面には店内の映像がいくつも映っていた。


 女主人の私室であると同時に、ロストパラダイスを回すための実務の部屋でもあった。


 その隣に、黒針が立っている。


 黒髪をきっちりまとめた、二十代半ばほどに見える女だった。


 身体に沿うタイトスカートと、動きの邪魔をしない上衣。


 目立ちすぎないのに隙もない。


 控えている、という言葉がそのまま似合う立ち方だった。


 灰狼は静かに机の前まで進む。


「銀月からの荷物です」


 そう告げて、小包を机の上へ置いた。


 爆発物ではない。


 毒針の類もない。


 封も問題ない。


 そこまでの確認は済ませてある。


 銀月は信用できる店だ。


 だが、信用と安心は別だった。


 そこを混同するほど甘くはない。


 紫苑は映像から目を離さないまま、ゆっくりと口を開く。


「……あなたはこの子のことをどう見たかしら?」


 問いかけの主語が曖昧でも、灰狼には分かる。


 さっき小包を持ってきた若いロストの男のことだ。


 灰狼は姿勢を静かに整えた。


「……まだまだ磨く必要がある荒さです」


 淡々と答える。


「ですが、飲み込むべき場で飲み込める人間は先があります」


 言葉を選んだのは、その一点をちゃんと見たからだった。


 下層では珍しい。


 意地や体面を優先して、頭を下げるべき場でも突っ張る人間の方が多い。


 それで損をして、死ぬ。


 あの男は違った。


 店の意味も、中の空気も、連れの娘がどう見られたかも、店へ入ってから遅れて理解したはずだ。


 それでも言い訳を先にせず、自分の責任として頭を下げた。


 少女のために頭を下げられる。


 それは下層では、案外珍しい資質だった。


 紫苑がそこでようやく視線を少しだけ動かす。


「しかも銀月のマスターが、個人的に使っても問題ないと思えるレベル……ね」


 声に、薄い笑みが混じる。


「ええ、あなたの言葉はその通りだと思うわ」


 画面の光を横顔に受けたまま、紫苑は怪しく微笑んだ。


「将来性があるわね。この子」


 その言い方に、灰狼は内心で小さく苦笑する。


 悪い癖が出た。


 そう思った。


 荒いだけの若い男なら、ロストパラダイスにはいくらでも転がっている。


 だが、守るために腕を出し、失敗を悟れば頭を下げる。


 その両方ができる若い男は、そう多くない。


 若く、使えて、先がある人間を見ると、手元へ置きたがる。


 それがこの人の悪い癖だ。


 紫苑は隣へ視線をやる。


「黒針。悪いけど、この子のこと、手が空いてるタイミングで調べてもらえる?」


 黒針は一瞬だけ目を伏せた。


 多分、同じことを思ったのだろう。


 また始まった、と。


 だが、その逡巡はほんの刹那だった。


 紫苑を崇拝している彼女にとって、考えはあっても返事は一つしかない。


「承知しました」


 静かに頭を下げる。


 紫苑はそれで満足したように頷くと、今度は別の映像へ目を移した。


 そこに映っているのは、つい先ほどまで灰狼の前にいた白い娘だ。


「まあ……」


 紫苑の声が少しだけ冷える。


「一緒にはいたけど、こっちの娘は駄目ね」


 はっきりした口調だった。


「売り物としてはそこそこ」


 一拍。


「でも、ロストとしては失格もいいところね」


 紫苑にとって、人の価値は綺麗事では測れない。


 紫苑の世界では、守られていること自体が悪いわけではない。


 守られるなら、守られる立場で価値を使えなければいけない。


 距離を測り、自分を律し、どう見られているかを理解し、その立場を自分の武器に変える。


 それができないなら、女としても下手だし、この業界では評価が下がる。


 あの娘は、何もできていなかった。


 場の意味も知らない。


 敵意の理由も分からない。


 怖くて縋り、守られることの価値すら扱えていない。


 だが一方で、需要があることも紫苑には分かっている。


 若い。


 削られていない。


 守ってやりたくなる顔をしている。


 そういう女を欲しがる男がいることくらい、嫌というほど知っていた。


 だからこそ、評価はより冷たくなる。


 守られるだけの女は、ここでは長く持たない。


 守られる価値を理解し、それを交渉材料にできる女だけが、生き残る。


「……彼が囲うか」


 興味なさそうに言う。


「そうでなければ、いずれ死ぬわね」


 そこに感傷はない。


 ただ、そう見たからそう言っただけだった。


 灰狼は特に反応を返さない。


 返す必要もなかった。


 紫苑はそこでようやく、小包へ手を伸ばす。


 表を見て、重さを確かめ、封の状態をもう一度指先でなぞる。


 それから机の脇へ寄せると、気持ちを切り替えたみたいに灰狼へ向き直った。


「……ありがとう。荷物は確かに受け取ったわ」


 いつもの声だ。


 人を見る女の声から、店を回す女の声へ戻っている。


「店の中はまた頼むわよ」


「はい」


 灰狼は短く頭を下げる。


 それで話は終わりだった。


 黒針はすでに次の仕事のことを考えている顔をしている。


 紫苑も画面へ戻っていた。


 カメラの向こうでは、ロストパラダイスの店内がいつものように回っている。


 灰狼は静かに踵を返した。


 扉を開ける前に、一度だけ背中側の気配を感じる。


 紫苑はもう、さっきの若いロストのことを次の手として頭の隅へ置いたのだろう。


 娘の方は、もう興味の外へ落ちている。


 部屋を出る。


 廊下の向こうには、また店の音が待っていた。


 笑い声。


 酒。


 湿った空気。


 ネオンの色。


 灰狼は何も言わず、そのまま仕事の場へ戻っていくのだった。

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