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銀月のロスト  作者: taka
第9章 知らない場所
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灰狼への引き渡し

 ユウはそのままユイを抱き寄せたまま、カウンターの方へ進んだ。


 離すにはまだ早い。


 今この場で手を放せば、また誰かが距離を詰めてくる。


 それくらいの空気の悪さが、店の中には残っていた。


 ユイはもうさっきみたいに声を上げなかった。


 ただ、肩を寄せられたまま小さく固まり、無意識みたいにユウの服を掴んでいる。


 裾を握る指先に、わずかに力が入っていた。


 視線は落ちている。


 さっきまでの口撃が、まだそのまま残っているのだろう。


 ユウは前だけを見る。


 ひそひそ声はまだ止まらない。


 背中へ刺さる視線も消えない。


 だが、今さら振り返る意味はなかった。


 カウンターの前まで来たところで、ようやくユウはユイを少しだけ後ろへ下げる。


 完全に離すわけではない。


 ただ、灰狼の前へ出す形ではない、というだけだ。


 それでもユイは手を離さなかった。


 服の裾を掴んだまま、一歩分だけ後ろへ引く。


 その動きが、今の心細さをそのまま表していた。


 灰狼は最初から二人を見ていた。


 ロストパラダイスの警備兵――通称「首輪付き」のリーダー格。


 この場の空気も、さっき入口からここまでで何が起きたかも、大体は見て取っている顔だった。


 ユウは小包を差し出す。


「銀月のマスターから、これを渡してくれと」


 灰狼は黙ってそれを受け取る。


 まず外観を見る。


 封の端。


 紐の締め方。


 角の潰れ。


 それから表面を軽く撫でて、開けた痕がないか確かめる。


 確認は短い。


 だが、雑ではない。


 問題ないと判断したのか、そのまま懐へしまう。


「仕事は問題ないようだな」


 短い声だった。


 それから灰狼の視線が、ユウの肩越しにユイへ移る。


 訝しげな目だった。


 場違いな娘。


 そう見ているのは分かる。


 しかもその認識は間違っていない。


 ユウはそこで、一度だけ息を吐いた。


 言い訳を探すより先に、言うべきことがある。


「……この店に入ったのは初めてだった」


 素直に口を開く。


「ついてくると言ったこいつを止めなかったのは俺の責任だ」


 そこまで言ってから、ユウは頭を下げた。


 深くはない。


 だが、誤魔化しのない下げ方だった。


「店に迷惑をかけた」


 その場の空気が一瞬だけ静かになる。


 ひそひそ声まで完全に止まったわけではない。


 それでも、すぐ近くにいた何人かは、その動きを見て少しだけ黙った。


 ユイは目を見開いた。


 自分のせいで、ユウが頭を下げている。


 その事実が、今さらはっきり胸へ落ちたのだろう。


 さっきまでの口撃より、そっちの方がよほどきつかったらしい。


 何か言おうとして、でも言葉が出ない。


 ただ、掴んでいた裾へさらに少しだけ力が入る。


 灰狼はその頭を下げるユウを見て、短く頷いた。


「別に迷惑だとは思っていない」


 声に嘘はない。


 わざわざ慰める気も、責める気もない。


 ただ、そう判断したからそう言っただけの響きだった。


 その後で、灰狼はわずかに口元を動かす。


「用事が済んだら、さっさと帰った方がいいとは思うがな」


 そこで一拍。


「まさか二階に用事があるわけじゃないだろ?」


 揶揄い半分の言い方だった。


 その意味が、ユウにはもう分かる。


 さっきからの空気も、この場の造りも見てしまった以上、分からない方が無理だった。


 だがユイは違った。


 灰狼の言葉に反応して、思わずそちらを見てしまう。


 二階へ続く階段の方へ、ほとんど反射みたいに視線を上げる。


 ちょうどその時だった。


 二階の通路手前で、女の腰へ手を回した男が立ち止まる。


 女は慣れた顔で手を差し出し、男はその掌へ金を載せる。


 やり取りは短い。


 そのまま二人は寄り添うように部屋の中へ消えた。


 扉が閉まる。


 それだけで十分だった。


 ユイの顔から、完全に血の気が引く。


 さっきまで見えていたものの意味が、遅れて一気に繋がったのだろう。


 だからあの女たちはあんな格好で立っていた。


 だから男たちはあんな目をしていた。


 だから空気があんなに悪くなった。


 だから銀月でも止めたそうな顔をしていた。


 ユイは小さく息を呑み、そのままもう何も言えなくなる。


 ユウはもう一度だけ、灰狼へ短く頭を下げた。


「悪かった」


 灰狼はそれ以上そこを広げない。


「帰るなら今のうちだ」


 それだけだった。


 だが、十分だった。


 ユウは頷く。


「行くぞ」


 今度はユイへ向けた声だ。


 ユイはすぐには返事をしなかった。


 だが、服の裾を掴んだまま、小さく頷く。


 声が出ないのだろう。


 それでも足は動いた。


 ユウはそのまま向きを変える。


 店の中の空気は相変わらず悪いままだった。


 客は興味を失っても、女たちの視線はまだ冷たい。


 口元に乗る笑みも、全く笑っていない。


「お帰りかい」


「早かったね」


「お姫様には無理だったんじゃない?」


 低い声が、背中へ刺さる。


 ユイの肩がまた小さく揺れた。


 だが今度は、さっきみたいにユウを揺さぶったりはしない。


 何も言わず、ただ後ろへついてくる。


 裾を掴んだ手もまだ離れない。


 ユウは振り返らない。


 振り返ったところで、どうにもならない。


 今は一秒でも早く出る方がいい。


 出口へ向かう途中、灰狼の視線がまだ背中へ残っているのを感じた。


 ただ送り出しているだけではない。


 歩き方。


 装備の収まり。


 女を庇う時の動き。


 そういうものを、静かに見られている気配だった。


 ユウはそれを意識しても、歩き方を変えない。


 変える理由もない。


 変に見せる気もない。


 店を出る直前、背中側から灰狼の声はもう飛んでこなかった。


 それで十分ということなのだろう。


 扉をくぐると、外のネオンがまた濡れた路面へ落ちていた。


 赤。


 紫。


 派手な色。


 だが、中の湿った空気が背中から消えたわけではない。


 ユイはまだ服の裾を掴んだままだった。


 気づいていないのか、気づいていても離せないのか、その両方かもしれない。


 ユウはそれを見て、小さく息を吐く。


「行くぞ」


 それだけ言って歩き出す。


 ユイは少し遅れて、小さく頷いた。


 ロストパラダイスの扉は背中側で閉まる。

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