守られる側
ユイがユウを部屋まで送り届けたあと、リビングへ戻ってきた時には、もうさっきまでの勢いはどこにも残っていなかった。
サエはそれを見て、何も言わずに椅子を引いた。
座りなさい、とは言わない。
急かしもしない。
ただ、ここにいていいというだけの距離を空ける。
ユイは少しだけ迷ってから、その椅子へ腰を下ろした。
背筋は伸びきっていない。
手は膝の上で固く重なっている。
顔色もまだ悪い。
何より、目の焦点が少しだけ遅い。
何があったのか全部は分からない。
けれど、ただ事ではなかったことだけは十分だった。
レンジも近くにいたが、今日は珍しく何も言わなかった。
壁際へ寄ったまま、軽口を挟むでもなく、ただ空気を乱さない位置にいる。
部屋の中は静かだった。
時計の音。
食器の小さな触れ合う音。
誰かがわざと沈黙を作っているわけではない。
けれど、今はその静けさの方が都合がよかった。
ユイはしばらく何も言わなかった。
膝の上の指先が、ほんの少しだけ震えている。
サエはそれに気づいても、まだ声を掛けない。
今ここで「何があったの」と聞けば、多分ユイはうまく話せない。
自分の中でまだ形になっていないものを、無理に外へ出そうとして余計に崩すだけだ。
だから待つ。
少ししてから、ユイの唇がようやく動いた。
「……私のせいで」
声は小さかった。
かすれていて、でもはっきり聞こえた。
サエはそこで初めて視線を向ける。
返事はしない。
ただ続きを待つ。
ユイは一度だけ息を詰まらせ、それから言葉を探すように目を伏せた。
「私が……友達だからって、一緒にいたくて」
そこまで言って、少し黙る。
「銀月に行く時も、ユウに一緒に来てって言って」
「今日も、私も行きますって……言って」
ぽつり、ぽつりと落ちてくる。
順番は綺麗じゃない。
けれど、その崩れた順番のままの方が、今のユイには自然だった。
「行った先が……」
「私、どういう場所か知らなくて」
その言葉に、サエの目が少しだけ細くなる。
まだ場所の名前は出ない。
だが、話の向きだけで、あまりまともな行き先ではなかったのだろうと分かる。
ユイは続けた。
「入ったら、女の人がいて」
「すごく変な格好で……でも、ただ変っていうんじゃなくて」
「みんな、慣れてるみたいで」
そこまで言って、喉が詰まる。
「男の人も、みんな……見方が」
「銀月と全然違って……」
サエは何も言わない。
ただ聞いている。
ユイの中で、見たものをまだ言葉へ変えきれていないのが分かった。
けれど、それで十分だった。
少なくとも、ただの受け渡し先ではなかったのだろう。
「それで、女の人たちが」
ユイの肩が小さく震える。
「私を見て……」
「すごく嫌な顔して」
「何でかなって、最初、分からなくて」
そこでようやく、サエの中でも少しずつ線が繋がり始める。
若い娘。
連れの男。
行き先。
嫌な顔をする女たち。
大体の種類は読めた。
だが今はまだ、それを言葉にはしない。
先にユイ自身の口から出る方がいい。
「あとで分かったんです」
ユイが言う。
「何でなのか」
「何の場所だったのか」
その時に何を見たのかは、細かく言わなくても伝わった。
自分で気づいてしまった時の顔は、こういう時、たいてい同じになる。
「ユウが、頭を下げたんです」
それを口にした時、ユイの声が一段掠れた。
「私のせいで」
「私を連れて行ったのは自分の責任だって……」
「店に迷惑をかけたって……」
膝の上の手がさらに強く握られる。
「私、あの時……」
「何も言えなくて」
サエはそこでようやく、静かに言う。
「言えないわよ」
ユイが少しだけ顔を上げる。
目の縁が赤かった。
サエは続ける。
「初めて行って、初めて見て、初めて自分がどう見られてるかまで一気に分かったんでしょう」
「そんな時に、すぐ何か言えるほど人は器用じゃないわ」
慰めというより、整理に近い言葉だった。
ユイはそれを聞いて、少しだけ唇を噛む。
けれどそこで終わらない。
今日の一番深いところは、そこではないのだとサエにも分かっていた。
案の定、ユイはその先を吐き出すように言った。
「外でも、私のせいで」
今度ははっきり震えていた。
「私がいたから追われて」
「ユウが、ジャケットを私に被せて」
「そのせいで……」
呼吸が詰まる。
言葉が続かない。
サエは黙って待つ。
ユイは何とか息を吸い直し、やっと最後まで言った。
「撃たれて」
そこでとうとう、目の縁に溜まっていたものが落ちた。
ユイは慌てたように拭おうとするが、うまくいかない。
手の甲で押さえても、次がまた滲む。
「手当てした時……」
「傷が、あって」
声が細くなる。
「私、今まで」
「守ってもらうの、当たり前みたいに思ってたのかもしれないって」
その言葉に、サエは内心で小さく息をついた。
やっとそこまで来たのだと思った。
直視できる友達の肩口の傷として。
そこが、多分一番重かったのだ。
ユイは泣きながら、それでも言葉を続ける。
「お父さんとか、サエさんとかが守ってくれるのも……」
「そういうものだって、どこかで思ってたのかもしれません」
ひどく幼い告白だった。
でも、多分それが本音なのだろう。
「でも、ユウは違うんです」
「友達で……」
「初めて、ちゃんと近くにいてくれる人で……」
そこでまた言葉が途切れる。
“友達”という言葉自体が、ユイにとってどれだけ大きいかは、サエにも分かっていた。
だからこそ、その友達が自分のために血を流したことが、何より重いのだ。
「私のせいで傷ついたって思ったら」
「……すごく、怖くて」
やっとそこまで言い切って、ユイは俯いた。
泣き方は派手じゃない。
声を上げるわけでもない。
ただ、ぽろぽろと静かに落ちていく涙を止められないだけだ。
レンジはその様子を見ても、今日は何も言わなかった。
壁際で立ったまま、いつもの軽さを引っ込めている。
サエは少しだけ身体を寄せ、手の届く位置に布を置いた。
渡しはしない。
取るかどうかはユイに任せる。
ユイはしばらくして、それに気づいて小さく頭を下げた。
それから布を取り、目元を押さえる。
「……どうしたらいいんでしょう」
ふいに零れたその言葉に、サエはすぐには答えなかった。
簡単な答えなんてない。
次から大人しくしていればいい、で済む話でもない。
ユイの未熟さは本物だが、だからといって一生守られたままで生きられる場所でもない。
少し考えてから、サエは静かに言った。
「まずは、今日のことを忘れないこと」
ユイが目を上げる。
「怖かったことも、嫌だったことも、ユウが傷ついたことも」
「全部、嫌だからって切らないで覚えておきなさい」
サエの声は厳しくはない。
だが、甘くもなかった。
「その上で、次に同じことをしないように考えるの」
「守られるなら、守られる側にも考えることがあるわ」
ユイは何も言わない。
でも、ちゃんと聞いている顔だった。
サエは続ける。
「ただ傍にいたいだけじゃ駄目な時もある」
「ついて行くなら、ついて行く先がどういう場所かも考えなきゃいけない」
「自分がどう見られるかも、ね」
その言葉に、ユイの肩が小さく揺れる。
痛いところを突かれたのだろう。
でも、目は逸らさなかった。
「……はい」
小さな返事だった。
サエはそこでようやく少しだけ息を抜く。
今日のことは、多分ユイの中に長く残る。
そして残らなければ困るのだと思う。
痛みの形で入ったものは、そう簡単には消えない。
その代わり、ちゃんと根を張る。
それが良い方向へ出るかどうかは、まだ分からない。
リビングの空気は静かだった。
外はもう完全に夜で、窓の向こうも暗い。
拠点の中だけがかろうじて安全で、だからこそ、その安全が誰かの負担の上に立っていることもよく見える夜だった。
ユイはもう一度、布で目元を押さえた。
それから、小さく、本当に小さく言う。
「……嫌です」
サエが視線だけで続きを促す。
ユイは唇を震わせながら、でも今度ははっきり言った。
「友達に、もうあんな傷、つけたくないです」
その言葉に、サエは何も返さなかった。
返さなかったが、目だけは少しだけ柔らいだ。
それで十分だった。




