勝手な約束
夜、部屋へ戻ると、棚の上の青い置物がまず目に入った。
あのよく分からない生き物――いるか、と言うらしい――は、相変わらず場違いな顔で棚の真ん中に収まっている。
部屋に何もなさすぎるせいで、余計に目立つ。
目立つが、もう昨日ほど違和感はなかった。
ユウはジャケットを脱ぎ、壁際へ寄せる。
それからテーブル代わりの低い台へARを置いた。
今日見た分解手順を、頭の中でもう一度なぞる。
順番。
力の掛け方。
外す場所。
戻す時の噛み合わせ。
古い型だが、悪くない。
いや、むしろこの方が自分には合っているのかもしれない。
構造が素直で、触ればどこがどう噛んでいるか分かる。
整備性がいいというのは、こういうことだろう。
ユウはボルト周りへ手を掛け、部品をひとつ外す。
金属の小さな音。
それだけが部屋の中へ落ちる。
その時、控えめなノックがした。
前と同じだ。
今度はもう、誰かまで分かる。
「何だ」
扉の向こうから、少しだけ弾んだ声が返る。
「ユイです」
やはりそうだった。
「入っていいですか?」
「……ああ」
返すと、扉が開いた。
ユイはもう遠慮なく部屋へ入ってくる。
ただし、ちゃんとノックはする。
そこだけは前より進歩しているのかもしれない。
ユイは扉を閉めると、まず棚の上を見た。
青い置物はそのまま、ちゃんと真ん中に置いてある。
それを確認して、少しだけ満足そうに笑った。
やはり見に来たのか、とユウは思う。
「大事にしてくれてますね」
「置いたままなだけだ」
ユウはARから目を離さずに返す。
「それを大事にしてるって言うんですよ」
何がどう違うのか分からない理屈だった。
だが、本人は満足しているらしい。
ユイはそのままベッドの端へ腰を下ろし、足を揃えた。
部屋の主より自然に居座っている気がするが、今さらそこへ突っ込むのも面倒だった。
ユイはしばらく、棚の上のイルカを眺めていた。
満足しているようにも見える。
けれど、それだけではない。
何かを言うかどうか迷っている顔だった。
やがて、ベッドの端に腰を下ろしたまま、少しだけ背筋を伸ばす。
「ユウは、もっと私にちゃんと対応すべきだと思います」
突然だった。
ユウは手を止めない。
「……ああ」
「今日だって、買い物は付き合ってくれましたけど、途中からずっと必要なことしか言ってませんでしたし」
「ああ」
部品をひとつ置く。
次を外す。
「訓練もそうです。教えてくれるのはいいんですけど、何か、こう……」
言葉を探すように、ユイの手が少し動く。
「ちょっと冷たいです」
「ああ」
同じ返事が返る。
ユイはまだそれに気づいていない。
気づいていないまま、少しずつ熱が入っていく。
「私はちゃんと聞いてるのに、ユウはたまに適当ですし」
「ああ」
「買い物の時も、もう少しちゃんと説明してくれてもよかったと思います」
「ああ」
「それに、助けてもらった後も、あまり何も言わないじゃないですか」
そこでようやく、ユイの眉が少しだけ寄った。
返事の調子が、全部同じだと気づいたらしい。
ユウはARの部品を並べ、順番を確認する。
今はそこが大事だった。
ユイの話が聞こえていないわけではない。
ただ、全部へ同じ深さで返す気がないだけだ。
少しの沈黙のあと、ユイが試すように言った。
「今日はいい天気ですね」
「ああ」
即答だった。
そこでユイがぴたりと止まる。
ユウはやはり顔を上げない。
ボルトの噛み合わせを見ている。
しばらくしてから、ユイは静かに、だが妙にはっきりした声で言う。
「……聞いてませんね?」
「聞いてる」
「聞いてる人の返事じゃないです」
「そうか」
「今のも適当です」
何を言ってもだんだん同じ流れになる。
ユウはようやく小さく息を吐いた。
「今、手を止めると順番飛ぶ」
それは本当だった。
頭の中では追っている。
だから余計な方へ意識を割きたくない。
だが、ユイはその説明を受けても不満そうな顔を崩さない。
むしろ、何かを考え始めた顔になる。
嫌な予感がした。
ユウがそれを口にする前に、ユイはふっと笑った。
にこり、と言っていいくらい綺麗な笑みだった。
「じゃあ」
その声の調子だけで、少し危ないと分かる。
「今度から銀月に行くときは、ユウが一緒に行ってくれるんですね。約束ですよ?」
ユウの手が止まる。
今、何か変な方向へ話が飛ばなかったか。
「……は?」
顔を上げる。
ユイはもうご機嫌だった。
まるで、自分の中で筋の通った結論へ辿り着いたみたいな顔をしている。
「今、返事しましたから」
「してねえだろ」
「しました」
「してねえ」
「しました」
会話が無駄に強い。
ユイはにこにこしたまま畳みかける。
「約束しましたからね?」
言いながら、わざわざ念押しするみたいに指まで立てる。
「ロストは信用が第一って、お父さんが言ってました。約束破るなんてダメなんですからね!」
そこにタチバナの教えを持ってくるのか、とユウは一瞬だけ本気で呆れた。
しかも理屈としては妙に通っているのが最悪だった。
「いや、待て」
「待ちません」
「待て」
「待ちません」
全く聞く気がない。
さっきまで“ちゃんと対応すべき”と熱弁していたくせに、今はもう完全に自分の都合のいい結論だけを抱えている。
ユウはそこでようやく、今の流れのまずさに気づく。
適当に返事を流した。
その隙を突かれた。
しかも相手は、色恋でも駆け引きでもなく、本当にまっすぐな善意と親愛の延長でこれをやっている。
だから厄介なのだ。
ユイはもう勝った顔をしていた。
「じゃあ次からそういうことで」
「どういうことだ」
「銀月に行くときは一緒です」
「勝手に決めるな」
「決まってます」
「決まってねえ」
「決まりました」
全然話が進まない。
しかも本人は本当に機嫌がいい。
押し切った自覚だけはあるらしい。
ユウはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……お前な」
「はい」
返事だけは良い。
「そういうの、勝手に決めるな」
そこでようやく、ユイは少しだけきょとんとした顔になる。
だが、その理由は分かっていないらしい。
何が問題なのか、本気で分かっていない目だった。
「でも、約束って大事ですよね?」
「大事だな」
「じゃあ」
「今のは約束じゃねえ」
そこだけは切る。
するとユイはほんの少しだけ考え込み、そしてまたにこっと笑った。
「じゃあ、今からちゃんと約束してください」
話を戻しただけだった。
駄目だ、と思う。
この手の押し方は、多分タチバナにも効いているのだろう。
だからあの男は、娘案件になるとすぐ渋い顔で固まるのだ。
ユウは静かに思う。
父娘で似てるんだな。
固まる方と、押し切る方で。
「今日はもう遅い」
とりあえずそう返す。
完全な拒否ではない。
かといって承諾でもない。
できるだけ曖昧に流す。
だがユイは、その曖昧さを都合よく解釈する才能だけはあった。
「じゃあ、今度ちゃんと約束してくださいね」
にこにこしている。
もう半分以上、自分の中で確定事項らしい。
ユウはそれ以上この話を伸ばすのを諦めた。
諦めて、またARへ視線を戻す。
分解の途中だ。
本当に順番が飛ぶ。
「帰れ」
「嫌です」
即答だった。
「何でだ」
「まだイルカ見てません」
そう言って棚の方を見る。
もう十分見ただろうと思うが、本人の中ではそうではないらしい。
「ちゃんと大事にされてるか確認しないと」
「置いたままだって言っただろ」
「その“置いたまま”が大事なんです」
またその理屈だ。
ユウは何も返さず、部品をひとつ戻す。
噛み合わせは悪くない。
動きも素直だ。
やはりこのARは使える。
その横でユイは、まだ何か言いたそうにこちらを見ている。
「……ユウ」
「何だ」
「今のはちゃんと聞いてましたか?」
「聞いてる」
「ほんとですか?」
「ああ」
「じゃあ、次から一緒ですね」
「違う」
即答した。
その返しにユイは一瞬だけ止まり、それからまた笑う。
「今日は進歩しました」
「何がだ」
「ちゃんと返してくれました」
そこを評価するのか、とユウは本気で少しだけ脱力した。
さっきまで何を熱弁していたのかと思う。
だが、本人が満足しているなら、もうそれでいい気もしてくる。
良くはない。
でもこれ以上まともに相手をするのも疲れる。
ユイはやがて本当に満足したらしく、立ち上がった。
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ」
「イルカ、大事にしてくださいね」
「分かってる」
「約束のことも忘れないでください」
「忘れる」
「駄目です」
最後まで勝手だった。
それでも扉へ向かう足取りは軽い。
完全に機嫌を直したどころか、むしろ最初より上がっている気がする。
扉のところで振り返り、またにこっと笑う。
「おやすみなさい、ユウ」
今度は返事を待たずに出ていった。
扉が閉まる。
静かになる。
ユウはしばらく、その閉まった扉を見ていた。
面倒だと思う。
実際、面倒だ。
だが、それでも追い出す気にはならなかった。
ユウは小さく息を吐き、またARへ視線を戻す。
分解の続き。
順番。
噛み合わせ。
そちらへ意識を戻す。
それでも、視界の端には棚の上の青い置物が入る。
いるか。
海にいたらしい、よく分からない生き物。
その横で、今しがた勝手な約束を置いていった声まで、妙に残っている。
「……面倒だな」
小さく零す。
けれどその声には、嫌悪だけではない何かが少しだけ混じっていた。
部屋は相変わらず静かだった。
ベッドは空いたまま。
壁際には整備中のAR。
棚には青い置物。
そこへ、勝手な約束だけが一つ増えた。
ユウはそれを改めて否定するでもなく、ただまた部品へ手を伸ばした。
夜の静けさの中で、金属の小さな音だけが、またひとつ部屋へ落ちた。




