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銀月のロスト  作者: taka
第8章 新しい銃
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勝手な約束

 夜、部屋へ戻ると、棚の上の青い置物がまず目に入った。


 あのよく分からない生き物――いるか、と言うらしい――は、相変わらず場違いな顔で棚の真ん中に収まっている。


 部屋に何もなさすぎるせいで、余計に目立つ。


 目立つが、もう昨日ほど違和感はなかった。


 ユウはジャケットを脱ぎ、壁際へ寄せる。


 それからテーブル代わりの低い台へARを置いた。


 今日見た分解手順を、頭の中でもう一度なぞる。


 順番。


 力の掛け方。


 外す場所。


 戻す時の噛み合わせ。


 古い型だが、悪くない。


 いや、むしろこの方が自分には合っているのかもしれない。


 構造が素直で、触ればどこがどう噛んでいるか分かる。


 整備性がいいというのは、こういうことだろう。


 ユウはボルト周りへ手を掛け、部品をひとつ外す。


 金属の小さな音。


 それだけが部屋の中へ落ちる。


 その時、控えめなノックがした。


 前と同じだ。


 今度はもう、誰かまで分かる。


「何だ」


 扉の向こうから、少しだけ弾んだ声が返る。


「ユイです」


 やはりそうだった。


「入っていいですか?」


「……ああ」


 返すと、扉が開いた。


 ユイはもう遠慮なく部屋へ入ってくる。


 ただし、ちゃんとノックはする。


 そこだけは前より進歩しているのかもしれない。


 ユイは扉を閉めると、まず棚の上を見た。


 青い置物はそのまま、ちゃんと真ん中に置いてある。


 それを確認して、少しだけ満足そうに笑った。


 やはり見に来たのか、とユウは思う。


「大事にしてくれてますね」


「置いたままなだけだ」


 ユウはARから目を離さずに返す。


「それを大事にしてるって言うんですよ」


 何がどう違うのか分からない理屈だった。


 だが、本人は満足しているらしい。


 ユイはそのままベッドの端へ腰を下ろし、足を揃えた。


 部屋の主より自然に居座っている気がするが、今さらそこへ突っ込むのも面倒だった。


 ユイはしばらく、棚の上のイルカを眺めていた。


 満足しているようにも見える。


 けれど、それだけではない。


 何かを言うかどうか迷っている顔だった。


 やがて、ベッドの端に腰を下ろしたまま、少しだけ背筋を伸ばす。


「ユウは、もっと私にちゃんと対応すべきだと思います」


 突然だった。


 ユウは手を止めない。


「……ああ」


「今日だって、買い物は付き合ってくれましたけど、途中からずっと必要なことしか言ってませんでしたし」


「ああ」


 部品をひとつ置く。


 次を外す。


「訓練もそうです。教えてくれるのはいいんですけど、何か、こう……」


 言葉を探すように、ユイの手が少し動く。


「ちょっと冷たいです」


「ああ」


 同じ返事が返る。


 ユイはまだそれに気づいていない。


 気づいていないまま、少しずつ熱が入っていく。


「私はちゃんと聞いてるのに、ユウはたまに適当ですし」


「ああ」


「買い物の時も、もう少しちゃんと説明してくれてもよかったと思います」


「ああ」


「それに、助けてもらった後も、あまり何も言わないじゃないですか」


 そこでようやく、ユイの眉が少しだけ寄った。


 返事の調子が、全部同じだと気づいたらしい。


 ユウはARの部品を並べ、順番を確認する。


 今はそこが大事だった。


 ユイの話が聞こえていないわけではない。


 ただ、全部へ同じ深さで返す気がないだけだ。


 少しの沈黙のあと、ユイが試すように言った。


「今日はいい天気ですね」


「ああ」


 即答だった。


 そこでユイがぴたりと止まる。


 ユウはやはり顔を上げない。


 ボルトの噛み合わせを見ている。


 しばらくしてから、ユイは静かに、だが妙にはっきりした声で言う。


「……聞いてませんね?」


「聞いてる」


「聞いてる人の返事じゃないです」


「そうか」


「今のも適当です」


 何を言ってもだんだん同じ流れになる。


 ユウはようやく小さく息を吐いた。


「今、手を止めると順番飛ぶ」


 それは本当だった。


 頭の中では追っている。


 だから余計な方へ意識を割きたくない。


 だが、ユイはその説明を受けても不満そうな顔を崩さない。


 むしろ、何かを考え始めた顔になる。


 嫌な予感がした。


 ユウがそれを口にする前に、ユイはふっと笑った。


 にこり、と言っていいくらい綺麗な笑みだった。


「じゃあ」


 その声の調子だけで、少し危ないと分かる。


「今度から銀月に行くときは、ユウが一緒に行ってくれるんですね。約束ですよ?」


 ユウの手が止まる。


 今、何か変な方向へ話が飛ばなかったか。


「……は?」


 顔を上げる。


 ユイはもうご機嫌だった。


 まるで、自分の中で筋の通った結論へ辿り着いたみたいな顔をしている。


「今、返事しましたから」


「してねえだろ」


「しました」


「してねえ」


「しました」


 会話が無駄に強い。


 ユイはにこにこしたまま畳みかける。


「約束しましたからね?」


 言いながら、わざわざ念押しするみたいに指まで立てる。


「ロストは信用が第一って、お父さんが言ってました。約束破るなんてダメなんですからね!」


 そこにタチバナの教えを持ってくるのか、とユウは一瞬だけ本気で呆れた。


 しかも理屈としては妙に通っているのが最悪だった。


「いや、待て」


「待ちません」


「待て」


「待ちません」


 全く聞く気がない。


 さっきまで“ちゃんと対応すべき”と熱弁していたくせに、今はもう完全に自分の都合のいい結論だけを抱えている。


 ユウはそこでようやく、今の流れのまずさに気づく。


 適当に返事を流した。


 その隙を突かれた。


 しかも相手は、色恋でも駆け引きでもなく、本当にまっすぐな善意と親愛の延長でこれをやっている。


 だから厄介なのだ。


 ユイはもう勝った顔をしていた。


「じゃあ次からそういうことで」


「どういうことだ」


「銀月に行くときは一緒です」


「勝手に決めるな」


「決まってます」


「決まってねえ」


「決まりました」


 全然話が進まない。


 しかも本人は本当に機嫌がいい。


 押し切った自覚だけはあるらしい。


 ユウはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。


「……お前な」


「はい」


 返事だけは良い。


「そういうの、勝手に決めるな」


 そこでようやく、ユイは少しだけきょとんとした顔になる。


 だが、その理由は分かっていないらしい。


 何が問題なのか、本気で分かっていない目だった。


「でも、約束って大事ですよね?」


「大事だな」


「じゃあ」


「今のは約束じゃねえ」


 そこだけは切る。


 するとユイはほんの少しだけ考え込み、そしてまたにこっと笑った。


「じゃあ、今からちゃんと約束してください」


 話を戻しただけだった。


 駄目だ、と思う。


 この手の押し方は、多分タチバナにも効いているのだろう。


 だからあの男は、娘案件になるとすぐ渋い顔で固まるのだ。


 ユウは静かに思う。


 父娘で似てるんだな。


 固まる方と、押し切る方で。


「今日はもう遅い」


 とりあえずそう返す。


 完全な拒否ではない。


 かといって承諾でもない。


 できるだけ曖昧に流す。


 だがユイは、その曖昧さを都合よく解釈する才能だけはあった。


「じゃあ、今度ちゃんと約束してくださいね」


 にこにこしている。


 もう半分以上、自分の中で確定事項らしい。


 ユウはそれ以上この話を伸ばすのを諦めた。


 諦めて、またARへ視線を戻す。


 分解の途中だ。


 本当に順番が飛ぶ。


「帰れ」


「嫌です」


 即答だった。


「何でだ」


「まだイルカ見てません」


 そう言って棚の方を見る。


 もう十分見ただろうと思うが、本人の中ではそうではないらしい。


「ちゃんと大事にされてるか確認しないと」


「置いたままだって言っただろ」


「その“置いたまま”が大事なんです」


 またその理屈だ。


 ユウは何も返さず、部品をひとつ戻す。


 噛み合わせは悪くない。


 動きも素直だ。


 やはりこのARは使える。


 その横でユイは、まだ何か言いたそうにこちらを見ている。


「……ユウ」


「何だ」


「今のはちゃんと聞いてましたか?」


「聞いてる」


「ほんとですか?」


「ああ」


「じゃあ、次から一緒ですね」


「違う」


 即答した。


 その返しにユイは一瞬だけ止まり、それからまた笑う。


「今日は進歩しました」


「何がだ」


「ちゃんと返してくれました」


 そこを評価するのか、とユウは本気で少しだけ脱力した。


 さっきまで何を熱弁していたのかと思う。


 だが、本人が満足しているなら、もうそれでいい気もしてくる。


 良くはない。


 でもこれ以上まともに相手をするのも疲れる。


 ユイはやがて本当に満足したらしく、立ち上がった。


「じゃあ、おやすみなさい」


「ああ」


「イルカ、大事にしてくださいね」


「分かってる」


「約束のことも忘れないでください」


「忘れる」


「駄目です」


 最後まで勝手だった。


 それでも扉へ向かう足取りは軽い。


 完全に機嫌を直したどころか、むしろ最初より上がっている気がする。


 扉のところで振り返り、またにこっと笑う。


「おやすみなさい、ユウ」


 今度は返事を待たずに出ていった。


 扉が閉まる。


 静かになる。


 ユウはしばらく、その閉まった扉を見ていた。


 面倒だと思う。


 実際、面倒だ。


 だが、それでも追い出す気にはならなかった。


 ユウは小さく息を吐き、またARへ視線を戻す。


 分解の続き。


 順番。


 噛み合わせ。


 そちらへ意識を戻す。


 それでも、視界の端には棚の上の青い置物が入る。


 いるか。


 海にいたらしい、よく分からない生き物。


 その横で、今しがた勝手な約束を置いていった声まで、妙に残っている。


「……面倒だな」


 小さく零す。


 けれどその声には、嫌悪だけではない何かが少しだけ混じっていた。


 部屋は相変わらず静かだった。


 ベッドは空いたまま。


 壁際には整備中のAR。


 棚には青い置物。


 そこへ、勝手な約束だけが一つ増えた。


 ユウはそれを改めて否定するでもなく、ただまた部品へ手を伸ばした。


 夜の静けさの中で、金属の小さな音だけが、またひとつ部屋へ落ちた。

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