先輩
戦線を下げてからしばらくすると、空気が少しずつ変わり始めた。
さっきまで一気に食い込んできていた圧が、じわじわ薄れていく。
押し返したというより、こちらが無理のない形へ下がったことで、コボルトの流れが散り始めたのだろう。
低い影はまだ動いている。
だが、もうさっきみたいに一箇所へまとまって来る感じではない。
タチバナは前で構えたまま、視線だけを広く流している。
まだ完全には切らない。
一歩間違えれば、また寄ってくる。
そういう仕事なのだと、その背中だけで分かる。
ユウも前を見たまま、来たやつだけを落とす。
短く撃つ。
止まる。
また間が空く。
その繰り返しになっていく。
レンジの位置からも、さっきみたいな連続した発砲は減っていた。
今はたまに短く撃つだけだ。
蓋をし続けるというより、崩れそうなところがないか見ながら、必要な時だけ拾っている。
後ろでは、サエも静かだった。
さっきまでみたいに即座に次を切る声も飛ばない。
撃つ時だけ撃つ。
それで足りるくらいには、戦況が落ち着いてきている。
銃撃音が、少しずつ疎らになる。
ついさっきまであれほど重なっていたのに、今は間がある。
遠くで単発が一つ。
別の方向で短い連射。
また静かになる。
コボルトの唸りも、近くではなくなっていた。
息をする音の方が、少しずつ戻ってくる。
ユイはまだ帽子のつばの下で顔色が良くなかった。
さっきのことが身体に残っているのだろう。
手も少しだけ強く銃を握っている。
それでも前は向いていたし、サエの横で自分の位置も崩していなかった。
それを横目で見て、ユウはようやくほんの少しだけ息を抜いた。
今なら、大丈夫だろう。
そう判断してから、少しだけ声を落として言う。
「大丈夫か? 先輩」
ユイがぴくりと肩を揺らす。
すぐには返事が出ない。
何を言われたのか、一瞬だけ分からなかった顔をして、それからようやく意味が繋がる。
「……それ、今言いますか」
声は小さい。
むっとしている。
けれど、完全に怒っているわけでもない。
さっきまでの張りつめた空気が少しだけ緩んだから出た返しだった。
ユウは前を見たまま、口元だけで少し笑う。
「経験者なんだろ」
それがまた返ってくるとは思っていなかったのか、ユイは帽子の下で一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し遅れて唇を引く。
「……今は、そういうのいいです」
「そうかよ」
短いやり取りだった。
それだけなのに、さっきまでの緊張が少しだけほどける。
ユイは小さく息を吐いた。
まだ完全には落ち着いていない。
それでも、さっきよりはちゃんと声が戻ってきている。
サエが横から静かに言う。
「喋る余裕があるなら、周りも見なさい」
厳しいようでいて、声の温度は少しだけ落ちていた。
さっきみたいに切るための声じゃない。
戻していくための声だ。
「はい」
ユイは素直に頷く。
そして今度は、本当に周囲を見る。
きょろつくのではなく、自分の前と、その少し外を確認するような見方だ。
昨日までのユイなら、そこに気づけなかったかもしれない。
けれど今は、その違いが少しだけ分かるようになっている。
前では、タチバナが小さく手を振って位置を調整していた。
大きな号令はない。
必要な分だけ。
それでもレンジもユウも、それで十分に意味を拾っている。
ファミリーの形はまだ保たれている。
右端を切った判断は正しかったのだろう。
少なくともこちらは、無理に前へしがみつかずに済んでいる。
その代わり、向こうがどうなったかはもう見えない。
見えないということ自体が、答えに近かった。
レンジが中間から少しだけ首を巡らせて、こちらへ小さく笑う。
「先輩、だそうですよ」
ユイが小さく睨む。
「レンジさんまで言わないでください」
「いやあ、だって本人がそう名乗ってたんで」
「それは」
言い返しかけて、言葉が止まる。
多分、自分でも思い出したのだろう。
銀月で少し得意げに言ったことを。
その時は本当に少し知っているだけで嬉しかった。
でも今は、その“少し知っている”がどの程度のものか、ちゃんと分かってしまった。
ユイは小さく唇を結び直した。
「……取り消します」
それに、レンジが肩を揺らす。
「早いなあ」
ユウはそこへ口を挟まず、ただ前を見ていた。
だが、聞こえていないわけでもない。
さっきまで本当に危なかった分だけ、こうして少しでも普通のやり取りが戻ってくるのは悪くなかった。
遠くでまた一発、単発の銃声が鳴る。
それから間。
もう一発。
さっきまでのような重なり方ではない。
完全に、戦闘の山は越え始めていた。
風が土の匂いを運ぶ。
血の匂いも薄く混じっている。
それでも、群れの圧に押し潰される寸前だった時と比べれば、空気はずっと軽い。
ユイはそこで、本当に小さく言った。
「……助かりました」
前を向いたままの声だった。
誰に向けたのかは、言わなくても分かる。
ユウもそのまま前を見たまま、短く返す。
「まだ終わってねえ」
それは事実だった。
礼を言うにはまだ早い。
まだここは戦場の中だ。
けれど、言外にそれだけで済ませたのは、受け取ったという意味でもあった。
ユイはそれ以上何も言わない。
ただ、さっきまでより少しだけ銃の握り方が落ち着いていた。
サエがその変化に気づいたのか、何も言わずに前を見たまま小さく息をつく。
レンジもまた、自分の持ち場へ意識を戻している。
前ではタチバナが、ようやく少しだけ肩の力を落としたように見えた。
ほんのわずかだ。
それでも、ここからさらに押し込まれる形ではないと読んだのだろう。
銃撃音は、さらに疎らになっていく。
一発。
沈黙。
遠くで短く二発。
また静かになる。
空気の張り方が、さっきまでとは違う。
まだ切れない。
でももう、崩れる寸前の張りではない。
その中でユイは、帽子のつばの下から一度だけ前を見た。
その先には、まだユウの背中がある。
少し低く構えて、何でもないみたいな顔で前を見ている。
さっき自分の前へ滑り込んだ時と、ほとんど同じ姿勢だった。
さっきまでは、その背中しか見えなかった。
今は少しだけ、そこから視線を外して周りも見られる。
それでも一番強く残っているのは、やはり目の前へ入ってきたあの瞬間だった。
静かになりかけた戦線の上で、ファミリーはそのまま形を保ち続ける。
崩しかけたところから下げて、切って、守って、ようやく持ち直した線だ。
だから誰も、完全には気を抜かない。
戦場はまだ終わっていない。
けれど、崩れる時間はもう過ぎていた。




