小崩れ
最初の散発戦がしばらく続いたあと、空気が変わった。
きっかけは右寄りだった。
「おい! 何か急に増えてきてねえか!」
若い声が張る。
その直後、あちこちで発砲の間隔が一気に詰まった。
乾いた単発ではない。
短い連射が重なる。
草と瓦礫の奥で、いくつもの影がまとめて動いていた。
四足の低い姿勢。
地面へ擦りつくような速さ。
野犬に似ているが、前肢の爪だけがやけに長い。
低く走るたび、コンクリ片を引っかき、白い筋を残していく。
あれを足に入れられれば、フレッシュの身体なんて簡単に持っていかれる。
薄い補強材程度なら、止める壁にもならない。
コボルトたちが、今度は群れの形で押し寄せてくる。
風が草を逆立てた。
そのざわめきの下で、低い唸り声が一度に増える。
「来るぞ!」
タチバナの声が飛ぶ。
それに合わせるように、前の線が一段深く構え直した。
散発で肩を慣らしていた時間は、そこで終わる。
先頭の一匹をタチバナが落とす。
乾いた一発。
頭を弾かれた個体がそのまま土を滑り、崩れた壁際へ転がる。
だが、その後ろからすぐ別の影が出る。
倒れた穴を埋めるみたいに、低い身体が滑り込んできた。
ユウは前へ出ない。
タチバナを抜けたものだけを見る。
引きつける。
短く撃つ。
転がる。
追わない。
次を見る。
SMGの連射は必要最小限だ。
撃ちっぱなしにはしない。
来たやつを切る。
線を保つ。
それだけに絞る。
コボルトは弱い。
一体だけなら、火力を集中すれば落とせる。
だから新人向けだと言われる。
けれど、それは線がある時の話だ。
複数で囲い、前で止め、抜けを潰せるから新人でも入れる。
一匹でも懐へ入れば話は変わる。
爪が届く距離まで来られたら、雑魚ではなくなる。
レンジは中間で、発砲より先に流れを見ていた。
右。
中央。
前へ出すぎる足。
交換のタイミング。
崩れそうな位置。
その目が動くたび、短い発砲がどこかへ差し込まれる。
軽く見えるのに、撃つ場所に迷いがない。
後ろではサエが落ち着いて撃っていた。
数がまとまってきた分、狙うべき相手もはっきりする。
抜けそうな個体へ絞り、無理に前へ届かせないように切る撃ち方だ。
ユイも撃っていた。
ハンドガンの音は軽い。
それでも、ただ震えているだけではない。
照準を合わせ、引き金を引く。
当たる弾もある。
だが、当てることと止めることは別だった。
ユイの弾が一体の肩へ入る。
身体が跳ねる。
毛と皮膚が裂け、低い影が一瞬だけぶれる。
けれど、止まらない。
傷を負ったまま、コボルトは地面を擦るように走ってくる。
前肢の爪が瓦礫を噛み、白い線を残す。
当たった。
それでも、まだ来る。
「次を見なさい」
サエの声が飛ぶ。
次の瞬間、サエの一発がその個体の首元へ入った。
コボルトはようやく横へ崩れ、草の中へ転がる。
ユイは一度だけ深く息を吸った。
そのあと帽子のつばの下で目を戻す。
群れは止まらない。
前へ出た線の分だけ押される。
一匹を落としても、次が来る。
散発戦とは違う。
余裕があるように見えても、少しずつ弾と呼吸が削られていく。
右側の若い連中の声が、今度は緊張を混ぜ始めた。
「来すぎだろ!」
「前、前! 止めろ!」
「撃てって!」
本格化してから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに、もう言葉の温度が変わっていた。
右側配置の中央寄りにいた一人が引き金を引く。
乾いた音が出ない。
一拍。
もう一度。
やはり出ない。
「っ、クソ、ジャムった!」
その声が線の上で浮く。
安物のマガジンか。
砂を噛んだのか。
整備を怠ったのか。
理由は今どうでもよかった。
音が出なかった。
それだけで穴になる。
隣にいた別の男が反射で一歩前へ出た。
助けに入るための動きだった。
判断自体は間違っていない。
その場で見捨てていれば、その穴からもっと早く抜かれていたかもしれない。
だが、その一歩が危うかった。
コンクリ片の陰から、一匹が低く跳ねる。
爪が男の脛へ入った。
布が裂ける。
その下の薄い補強板まで、嫌な音を立てて割れた。
金属が裂ける音。
続いて、肉を引き裂く湿った音。
男の足の形が崩れた。
「が、あ――!」
声が途中で潰れる。
姿勢が落ちる。
次の瞬間には、後ろから来た別の影が、その崩れた身体へ食いつこうとした。
「落ち着け!」
レンジの声が飛ぶ。
同時に、レンジの銃が短く鳴った。
一匹。
二匹。
三匹。
流れ込もうとした先頭の数匹を、ほとんど拍子みたいな間隔で撃ち抜く。
頭か、首の付け根か。
確実に止まる場所だけを拾っている。
レンジは崩れた男を助けるためだけに撃ったのではない。
穴を広げないために撃った。
助かるかどうかは、そこから先の別の話だった。
群れの流れが一瞬だけ乱れる。
そのわずかな乱れへ、周囲のフォローが入る。
ジャムった男の後ろから別のロストが撃ち、裂かれた足を引きずる男を後ろへ引く。
完全に崩れる寸前で、線がどうにか踏みとどまった。
だが、それで終わらない。
レンジが切ったことで外へ流れた数匹が、角度を変えてこちらへ寄る。
「来る」
ユウは小さく呟き、SMGを振った。
レンジの撃ち筋から外れてきた個体だけを拾う。
一匹を短く落とし、そのまま横へ滑る。
二匹目。
低く跳ねたところへ連射を短く差し込む。
三匹目は近い。
距離を詰められる前に銃口を下げ、前足ごと崩す。
止める。
それ以上は追わない。
追えば前へ出る。
今はそれをする場面じゃない。
「そのまま! 線崩すな!」
タチバナの声が前から飛ぶ。
前線の芯はまだ折れていない。
だから全体もまだ持つ。
だが、右の小崩れは後方からでも見えた。
裂かれた足。
引きずられる身体。
止めるのが間に合わなかった一人が、群れに押し倒される。
その胸元へ、コボルトの爪が入った。
薄い装甲板が軋む。
次の瞬間、裂ける。
中身ごと持っていかれるように身体が沈む。
もう一人は立ち上がろうとした瞬間に肩口へ食いつかれ、そのまま影の中へ消えかけた。
近くのロストが必死に腕を掴み、引き戻す。
戻ってきた足は、膝から下がまともな形をしていなかった。
ユイの肩が小さく強張った。
目の前の敵へ撃つのとは違う。
人が崩れ、人が食われる。
その流れを、その距離で見るのは別の衝撃だった。
思わず視線が逸れそうになる。
「前を向きなさい」
サエの声が、今度はさっきより強く飛ぶ。
ユイの肩がびくりと揺れる。
それでも、言われた通り前を見る。
帽子のつばの下で、唇がきつく結ばれていた。
「見るの」
サエは続けた。
「見て、撃つ」
ユイは何も言わず、ただ小さく息を吸う。
そのまま次の個体へ照準を戻した。
後方へ抜けようとした一匹の肩へ弾が入る。
止まりきらない。
だが、勢いは落ちる。
そこへサエの一発が重なり、個体が横倒しに転がった。
右側はまだ荒れていた。
けれど、完全に抜かれたわけではない。
レンジの介入と、中央寄りのフォローが間に合った。
一人は倒れた。
二人は重傷。
それでも線そのものは、辛うじて残っている。
タチバナが前で撃ちながら、短く言う。
「持ち直せる」
それは命令というより確認に近かった。
誰に向けたわけでもない。
だが、ファミリーの人間にはそれで十分だった。
レンジはまた短く撃つ。
今度は崩れた位置そのものではなく、その周囲へ寄る影だけを拾う。
蓋をする撃ち方だった。
ユウもそれに合わせ、抜けた個体だけを切る。
前へ出すぎない。
戻れる位置で止める。
それだけを崩さない。
少しして、右の流れがようやく落ち着いた。
完全に静かになるわけではない。
群れはまだ来る。
だが、さっきまでのように一点へ流れ込む形ではなくなる。
小崩れは、どうにかそこまでで済んだ。
「くそ……」
「血、止めろ!」
「交換しろ、今のうちだ!」
右の方から怒鳴り混じりの声が飛ぶ。
さっきまでの軽さに比べれば、ずっとまともな声だった。
整備不良ひとつ。
一歩の前進ひとつ。
それだけで人は食われる。
その現実が、ようやく全体へ入ったのだろう。
ユウは短く息を吐く。
ユイも、もうさっきみたいな小さな喜びは浮かべていない。
帽子のつばの下で顔色は少し悪い。
それでも前を向いている。
だが、目を逸らさなかっただけでも今は十分だった。
群れはまだ続く。
本格戦闘は、まだ終わっていない。
ただ、この段階ではまだ線は保たれていた。
崩れかけても、支えられる。
穴が開いても、塞げる。
ユウは前を見たまま、次に抜けてくる影を待つ。
右側の怒鳴り声はまだ荒い。
コボルトの血の匂いも、発砲音も消えていない。
それでも、戦線はまだ繋がっていた。
今はまだ、それで足りていた。




