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銀月のロスト  作者: taka
第6章 部屋ではなく、寝床
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知らなかった普通

 自分の部屋へ戻って帽子を外した時、ユイはようやく一つ大きく息を吐いた。


 白い髪が肩から背へ落ちる。


 つばの下へ押し込めていたせいで、少しだけ癖がついていた。


 指で梳きながら、鏡の前へ立つ。


 今日は長かった。


 朝のこと。


 起こしに行って、驚かせてしまったこと。


 下でサエに叱られたこと。


 それから外へ出て、ユウと並んで歩いたこと。


 ガレージストリートの人たちに勝手な意味をつけられて、何がそんなにおかしいのかよく分からなかったこと。


 そして、その先で見た寝床。


 一つずつ思い返そうとすると、どこから手をつけていいのか分からない。


 けれど、最初に胸へ浮かぶのは、やっぱり嬉しかった、という感情だった。


 同年代の友達と一緒に外を歩く。


 ただそれだけのことが、自分にはほとんどなかった。


 だから最初は、帽子のつばを少し下げて、声を抑えて、それでもどこか楽しくて仕方なかった。


 ユウはずっと気を張っていたのに。


 そのことを思い出して、ユイは少しだけ眉を下げる。


 心配しすぎだと思っていた。


 言いすぎだとも思っていた。


 壁際へ寄るな。


 声を出すな。


 見るな。


 止まるな。


 離れるな。


 あんなに何度も言わなくてもいいのにと、最初は本気でそう思っていた。


 でも、路地へ入ってからは違った。


 言葉が減った。


 代わりに、手を引かれた。


 肩を寄せられた。


 何かが起きる前に、もう動いていた。


 それがどういう意味か、全部はまだ分からない。


 でも少なくとも、自分が“危ないかもしれない”位置にいたんじゃなくて、何も知らないまま危ない場所へ足を置いていたことだけは分かった。


 もし、あの時ユウがいなかったら。


 そこまで考えて、ユイは鏡越しの自分を見た。


 帽子を被って、コンタクトを入れて、服をだぼつかせても、足りないものはある。


 それは多分、歩き方とか、声の置き方とか、近づき方とか、そういう知識の外側にあるものだ。


 守られてきたのだと思う。


 知っていたつもりだった。


 でも今日初めて、その意味を少しだけ身体で知った。


 鏡から離れ、ベッドへ腰を下ろす。


 やわらかい。


 いつもの感触だ。


 それなのに、今日は昼間に見たあの寝床のことが頭から離れない。


 扉もない。


 屋根も欠けている。


 壁も、壁と呼んでいいのか分からない。


 何もない。


 本当に何もない。


 昨日、ユウの部屋を見て「寂しい部屋ですね」と言った。


 あの時は、それでも部屋だと思っていた。


 何もなくても、部屋は部屋だと。


 でも今日は違った。


 あれは部屋じゃなかった。


 寝床だった。


 身を寄せるためだけの場所。


 眠るためだけの場所。


 そこへ“何もない”という感想を置くのも、少し違う気がした。


 ユイは膝の上へ手を重ねる。


 ユウは、その寝床を見ても何も言わなかった。


 恥ずかしそうにも、怒ったふうにもならなかった。


 ただ普通に片付けて、普通に痕跡を消していた。


 あの場所が特別じゃなく、当たり前みたいに。


 そこが一番、ユイには不思議だった。


 自分なら、多分もっと嫌だと思う。


 悲しいとか、寂しいとか、そういう感情が先に出る。


 でもユウにはそれがなかった。


 少なくとも、そう見えた。


 よく分からない。


「……友達、か」


 小さく自分で呟いてみる。


 口にすると少しくすぐったい。


 でも、間違っているとも思わない。


 嬉しかったのは本当だ。


 一緒に歩けたのも嬉しかった。


 話せたのも嬉しかった。


 ただ、その相手のことを自分はまだ全然知らない。


 部屋を見て、寝床を見て、外を歩いて、少しだけ分かった気になったのに、むしろ前より分からなくなった気もする。


 どうしてあんなふうに起きるのか。


 どうしてベッドじゃなく壁際で眠るのか。


 どうして“何もない”を平気な顔で片付けられるのか。


 知りたい、と思う。


 それはまだ、恋だとかそういうものではない。


 もっと単純で、もっとまっすぐな感情だった。


 同じくらいの歳なのに、全然違う。


 自分の知らない普通を持っている。


 だから、もう少し知ってみたい。


 ユイはベッドへ身体を横たえる。


 天井を見上げる。


 静かな部屋。


 整った寝具。


 閉まる扉。


 今日見た寝床とは、何もかもが違う。


 その違いの中へ、自分はずっといたのだと思う。


 少しだけ胸が重い。


 でも、それ以上に、今日外へ出てよかったとも思う。


 知らないままでいるより、ずっとよかった。


 ユウは今ごろどうしているんだろう、とふと思う。


 もう部屋で眠っているのか。


 それとも、まだベッドには慣れずに壁際へ座っているのか。


 そう考えて、ユイは小さく瞬きをした。


 そして、少しだけ笑う。


「……やっぱり、変な人」


 悪口ではなかった。


 むしろその逆に近い。


 今日見たこと、聞いたこと、感じたこと。


 その全部が、ユイの中でまだきちんと形にならないまま、静かに積もっていく。


 ユイは目を閉じた。


 目を閉じても、今日見た暗い路地と、そこを迷わず歩くユウの背中だけが、しばらく消えなかった。


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