↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀月のロスト  作者: taka
第6章 部屋ではなく、寝床
PR
45/69

帰還報告

 拠点へ戻った頃には、ユウの肩から力がかなり抜けていた。


 外ではずっと張っていた。


 路地に入ってからはなおさらだ。


 寝床の周囲を切り、入る瞬間を見て、痕跡を消し、戻るまでずっと気を抜けなかった。


 一人ならもっと早い。


 もっと静かに済む。


 だが今日は違う。


 後ろへ一人つけて歩いた分だけ、神経の削れ方も違っていた。


 リビングへ入るなり、ユウは空いていた椅子へ腰を落とす。


 深く息を吐く。


 それだけで、さっきまで張っていた身体の芯がようやく少しだけ緩んだ。


 拠点の中には、遅い時間の食事の匂いがまだ残っている。


 温め直したスープ。


 切ったパン。


 湯気の消えかけた皿。


 昼を少し過ぎたのか、あるいは夕方へ差しかかる手前なのか、窓のないこの家では光の色だけでしか分からない。


 ただ、もう朝ではなかった。


 一方で、ユイの方はまだ熱が残っていた。


 帽子を外し、白い髪を軽く整えると、そのままサエの方へ寄っていく。


 足取りまで少し早い。


 興奮を隠していない。


 まるで外から戻った娘が、そのまま母親へ出来事を話しに行くみたいだった。


「本当に何もなかったんです」


 ユイが言う。


「部屋、じゃなかったです。寝床って感じで……」


 サエはキッチン側へ寄りかかったまま、落ち着いた顔でその話を受ける。


「そう」


「壁もちゃんとした壁じゃなくて、屋根も欠けてて、扉もなくて」


 ユイは言いながら、まだ自分の中で整理しきれていないのだろう。


 手まで少し動く。


 見たものを言葉にして追いかけようとしている感じだった。


「本当に、何もなかったんです」


 昨日、部屋を見て「寂しい部屋ですね」と言った時とは明らかに温度が違う。


 今はもう、単なる感想じゃない。


 知識ではなく実感として入ってきた重さがある。


 サエは頷くだけで急かさない。


「でしょうね」


「でも」


 ユイが少しだけ視線を泳がせる。


「それなのに、ユウ君は全然普通みたいに片付けていて」


 その言葉に、サエの目がほんの少しだけ細くなる。


「そういう場所が普通だったのよ」


 静かな言い方だった。


 ユイはそこで少し黙る。


 分かるような、まだ全部は分からないような顔だ。


 その横で、タチバナが壁際に立っている。


 口は挟まない。


 挟まないが、完全に無関心でもない。


 娘が何を受け取っているかも、ユウが何を見せたかも、全部分かっている顔だった。


 ただ、その話題に自分から入る余地があまりないだけだ。


 ユイはさらに続ける。


「それに、途中で何回か引っ張られて」


 そこで一瞬だけ、視線がユウへ飛んだ。


 本当に一瞬だけだ。


 けれど、その一瞬だけは妙にはっきりしていた。


「壁際に寄った時とか、狭いところで」


 今度は肩の辺りへ無意識に手が触れる。


「こう……寄せられて」


 その言い方自体は何でもない。


 ただ、そこでまた一度だけユウへ目が向く。


 そこだけ印象が強かったのだろう。


 タチバナの顔が、ほんの少しだけ渋くなる。


 何も言わない。


 言わないが、聞こえていないふりもできていない。


 完全に自分の胃にくるやつだと分かっている顔だった。


 ユウはその気配を横目で察しながら、何も言わずに水を口へ運ぶ。


 レンジがその隣へ、笑いを噛み殺した顔で腰を下ろした。


「……お疲れさん」


 声は小さい。


 少なくともユイとサエの方へは届かせないつもりらしい。


 ユウは短く返す。


「疲れた」


 それが一番正確だった。


 レンジは肩を揺らし、さらに声を落とす。


「で」


 口元だけで笑った。


「……手、出さなかったか?」


 冗談だった。


 そういう軽口だと分かる。


 分かるが、内容が内容なので、ユウは半分呆れながらそちらを見る。


「出すわけねえだろ」


 即答だった。


 レンジは「ですよねえ」と小さく言いながら、それでも笑いを消しきれていない。


「いや、念のためさ」


「何の念だよ」


「ほら、年近いし、あの距離感だし」


 レンジは肩を竦める。


「先輩として奢ってやろうか。三花街だけどな」


 声はさらに小さかった。


 完全に内緒話の音量だ。


 ユウは興味なさそうに水を置く。


「……必要ねぇよ」


「いやいや」


 レンジはそこで少しだけ真面目な顔になる。


「そういうのって、経験ないと判断間違えると思ってな」


 その言葉に、ユウは一拍だけ黙った。


 別に言う必要はない。


 言わなくても流せる。


 けれど流すには少し面倒くさくなっていたのかもしれない。


 低く返す。


「経験はある」


 レンジが止まる。


 ユウは前を見たまま続けた。


「金を使ってまでしたいと思わないだけだ」


 言ってから、無意識にユイの方を見る。


 聞かれていないかを確認するためだった。


 最近の経験で分かっていた。


 こういう話を拾われると面倒なことになる。


 今はサエへ何かを説明する方に意識が向いているらしく、こちらには気づいていない。


 それを確認して、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。


 レンジは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。


「……悪い。振り方、間違えたな」


 軽口のつもりだったのだろう。


 けれど返ってきたのは、笑いにしにくい下層の普通だった。


 ユウはそれ以上何も足さない。


 足すほどの話でもないし、ここで広げたい話でもなかった。


 レンジもそれ以上は掘らなかった。


 向こうではまだ、ユイがサエへ話している。


「路地の途中で、本当に誰かいたんです」


「見えたの?」


「ちゃんとは……でも、ユウ君が先に引っ張って」


 またそこで視線がユウへ飛ぶ。


 その一瞬の意味を、本人はまだきちんと整理していないのかもしれない。


 ただ、今日の出来事の中でそこが強く残っているのは確かだった。


 サエはそれを聞いて、小さく頷く。


「あなた一人だったら、気づく前に終わってたかもしれないわね」


 その言い方に、ユイが少しだけ息を呑む。


 今朝から何度も聞いてきた危険の話が、ようやく現実の線で繋がったのだろう。


 ただ怖がるのではなく、実際に自分がどれだけ守られた位置にいたかを、少しずつ理解し始めている顔だった。


 タチバナはそのやり取りを聞きながらも、まだ口を挟まない。


 言いたいことは多分いくつもある。


 だが、今ここでそれを自分が言うより、サエの方がうまく届くと分かっているのだろう。


 そういう黙り方だった。


 レンジが隣で小さく呟く。


「いやあ……」


 今度は笑いではなく、半分感心したみたいな声だった。


「ほんと、朝から情報量多いな」


 ユウはそれにだけ小さく鼻で息を吐いた。


 疲れるわけだ、と思う。


 正式加入したばかり。


 寝床を見に行くだけのつもりだった。


 それが気づけば、ユイを連れて歩き、下層の現実を見せ、ガレージストリートで冷やかされ、今は拠点へ戻ってその報告を聞いている。


 ユイはそこでようやく一息ついたらしく、小さく肩を落とした。


「……でも、ちょっとだけ分かりました」


 サエが静かに問う。


「何が?」


 ユイは少し考えてから答える。


「一人で歩いてたら、本当に危なかったんだなって」


 その言葉には、朝の無邪気さより少し重いものがあった。


 サエはそれを聞いて頷く。


「それなら十分よ」


 タチバナも、そこでほんの少しだけ目を伏せる。


 多分、それだけはちゃんと伝わってほしかったのだろう。


 ユウは椅子へ深く座ったまま、また一つ息を吐いた。


 まだ気は抜けない。


 けれど、今日の外歩きが無駄ではなかったことだけは分かる。


 その横で、レンジはまだ少しだけ複雑な顔をしていた。


 さっきの「経験はある」が頭に残っているのだろう。


 それをもう掘らないあたり、空気は読んでいた。


 ユイはサエの隣で、見てきたものを思い出すように黙っている。


 ユウは椅子の背に身体を預けた。


 外で張っていた神経だけが、まだ少し遅れて戻ってこなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。