帰還報告
拠点へ戻った頃には、ユウの肩から力がかなり抜けていた。
外ではずっと張っていた。
路地に入ってからはなおさらだ。
寝床の周囲を切り、入る瞬間を見て、痕跡を消し、戻るまでずっと気を抜けなかった。
一人ならもっと早い。
もっと静かに済む。
だが今日は違う。
後ろへ一人つけて歩いた分だけ、神経の削れ方も違っていた。
リビングへ入るなり、ユウは空いていた椅子へ腰を落とす。
深く息を吐く。
それだけで、さっきまで張っていた身体の芯がようやく少しだけ緩んだ。
拠点の中には、遅い時間の食事の匂いがまだ残っている。
温め直したスープ。
切ったパン。
湯気の消えかけた皿。
昼を少し過ぎたのか、あるいは夕方へ差しかかる手前なのか、窓のないこの家では光の色だけでしか分からない。
ただ、もう朝ではなかった。
一方で、ユイの方はまだ熱が残っていた。
帽子を外し、白い髪を軽く整えると、そのままサエの方へ寄っていく。
足取りまで少し早い。
興奮を隠していない。
まるで外から戻った娘が、そのまま母親へ出来事を話しに行くみたいだった。
「本当に何もなかったんです」
ユイが言う。
「部屋、じゃなかったです。寝床って感じで……」
サエはキッチン側へ寄りかかったまま、落ち着いた顔でその話を受ける。
「そう」
「壁もちゃんとした壁じゃなくて、屋根も欠けてて、扉もなくて」
ユイは言いながら、まだ自分の中で整理しきれていないのだろう。
手まで少し動く。
見たものを言葉にして追いかけようとしている感じだった。
「本当に、何もなかったんです」
昨日、部屋を見て「寂しい部屋ですね」と言った時とは明らかに温度が違う。
今はもう、単なる感想じゃない。
知識ではなく実感として入ってきた重さがある。
サエは頷くだけで急かさない。
「でしょうね」
「でも」
ユイが少しだけ視線を泳がせる。
「それなのに、ユウ君は全然普通みたいに片付けていて」
その言葉に、サエの目がほんの少しだけ細くなる。
「そういう場所が普通だったのよ」
静かな言い方だった。
ユイはそこで少し黙る。
分かるような、まだ全部は分からないような顔だ。
その横で、タチバナが壁際に立っている。
口は挟まない。
挟まないが、完全に無関心でもない。
娘が何を受け取っているかも、ユウが何を見せたかも、全部分かっている顔だった。
ただ、その話題に自分から入る余地があまりないだけだ。
ユイはさらに続ける。
「それに、途中で何回か引っ張られて」
そこで一瞬だけ、視線がユウへ飛んだ。
本当に一瞬だけだ。
けれど、その一瞬だけは妙にはっきりしていた。
「壁際に寄った時とか、狭いところで」
今度は肩の辺りへ無意識に手が触れる。
「こう……寄せられて」
その言い方自体は何でもない。
ただ、そこでまた一度だけユウへ目が向く。
そこだけ印象が強かったのだろう。
タチバナの顔が、ほんの少しだけ渋くなる。
何も言わない。
言わないが、聞こえていないふりもできていない。
完全に自分の胃にくるやつだと分かっている顔だった。
ユウはその気配を横目で察しながら、何も言わずに水を口へ運ぶ。
レンジがその隣へ、笑いを噛み殺した顔で腰を下ろした。
「……お疲れさん」
声は小さい。
少なくともユイとサエの方へは届かせないつもりらしい。
ユウは短く返す。
「疲れた」
それが一番正確だった。
レンジは肩を揺らし、さらに声を落とす。
「で」
口元だけで笑った。
「……手、出さなかったか?」
冗談だった。
そういう軽口だと分かる。
分かるが、内容が内容なので、ユウは半分呆れながらそちらを見る。
「出すわけねえだろ」
即答だった。
レンジは「ですよねえ」と小さく言いながら、それでも笑いを消しきれていない。
「いや、念のためさ」
「何の念だよ」
「ほら、年近いし、あの距離感だし」
レンジは肩を竦める。
「先輩として奢ってやろうか。三花街だけどな」
声はさらに小さかった。
完全に内緒話の音量だ。
ユウは興味なさそうに水を置く。
「……必要ねぇよ」
「いやいや」
レンジはそこで少しだけ真面目な顔になる。
「そういうのって、経験ないと判断間違えると思ってな」
その言葉に、ユウは一拍だけ黙った。
別に言う必要はない。
言わなくても流せる。
けれど流すには少し面倒くさくなっていたのかもしれない。
低く返す。
「経験はある」
レンジが止まる。
ユウは前を見たまま続けた。
「金を使ってまでしたいと思わないだけだ」
言ってから、無意識にユイの方を見る。
聞かれていないかを確認するためだった。
最近の経験で分かっていた。
こういう話を拾われると面倒なことになる。
今はサエへ何かを説明する方に意識が向いているらしく、こちらには気づいていない。
それを確認して、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。
レンジは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……悪い。振り方、間違えたな」
軽口のつもりだったのだろう。
けれど返ってきたのは、笑いにしにくい下層の普通だった。
ユウはそれ以上何も足さない。
足すほどの話でもないし、ここで広げたい話でもなかった。
レンジもそれ以上は掘らなかった。
向こうではまだ、ユイがサエへ話している。
「路地の途中で、本当に誰かいたんです」
「見えたの?」
「ちゃんとは……でも、ユウ君が先に引っ張って」
またそこで視線がユウへ飛ぶ。
その一瞬の意味を、本人はまだきちんと整理していないのかもしれない。
ただ、今日の出来事の中でそこが強く残っているのは確かだった。
サエはそれを聞いて、小さく頷く。
「あなた一人だったら、気づく前に終わってたかもしれないわね」
その言い方に、ユイが少しだけ息を呑む。
今朝から何度も聞いてきた危険の話が、ようやく現実の線で繋がったのだろう。
ただ怖がるのではなく、実際に自分がどれだけ守られた位置にいたかを、少しずつ理解し始めている顔だった。
タチバナはそのやり取りを聞きながらも、まだ口を挟まない。
言いたいことは多分いくつもある。
だが、今ここでそれを自分が言うより、サエの方がうまく届くと分かっているのだろう。
そういう黙り方だった。
レンジが隣で小さく呟く。
「いやあ……」
今度は笑いではなく、半分感心したみたいな声だった。
「ほんと、朝から情報量多いな」
ユウはそれにだけ小さく鼻で息を吐いた。
疲れるわけだ、と思う。
正式加入したばかり。
寝床を見に行くだけのつもりだった。
それが気づけば、ユイを連れて歩き、下層の現実を見せ、ガレージストリートで冷やかされ、今は拠点へ戻ってその報告を聞いている。
ユイはそこでようやく一息ついたらしく、小さく肩を落とした。
「……でも、ちょっとだけ分かりました」
サエが静かに問う。
「何が?」
ユイは少し考えてから答える。
「一人で歩いてたら、本当に危なかったんだなって」
その言葉には、朝の無邪気さより少し重いものがあった。
サエはそれを聞いて頷く。
「それなら十分よ」
タチバナも、そこでほんの少しだけ目を伏せる。
多分、それだけはちゃんと伝わってほしかったのだろう。
ユウは椅子へ深く座ったまま、また一つ息を吐いた。
まだ気は抜けない。
けれど、今日の外歩きが無駄ではなかったことだけは分かる。
その横で、レンジはまだ少しだけ複雑な顔をしていた。
さっきの「経験はある」が頭に残っているのだろう。
それをもう掘らないあたり、空気は読んでいた。
ユイはサエの隣で、見てきたものを思い出すように黙っている。
ユウは椅子の背に身体を預けた。
外で張っていた神経だけが、まだ少し遅れて戻ってこなかった。




