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銀月のロスト  作者: taka
第6章 部屋ではなく、寝床
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寝床

 路地の流れがさらに細くなる。


 表通りの音はもう背後で薄く砕け、ここまで来ると足音ひとつでも壁に近い。


 湿ったコンクリ。


 欠けた配管。


 頭上の空は細く、朝の光もまともには落ちてこない。


 人が住むために作られた場所というより、隙間に生き残った空間みたいな通路だった。


 ユウはそこで足を止めた。


 もう寝床は近い。


 近いからこそ、ここで一度切る必要がある。


 振り返らずに、視線だけを左右へ流す。


 入口手前。


 壁の陰。


 配管の奥。


 積まれた廃材の隙間。


 人が一人潜めるだけの穴はいくつもある。


 ここで止まって屈む瞬間、背中を向ける瞬間、片方が中へ入り片方が外へ残る瞬間。


 そういう時が一番危ない。


 今はどうだ。


 左の壁際に溜まった影はただのガラクタ。


 右の窪みには気配なし。


 奥から近づく足音もない。


 朝の空気はまだ重いが、今この一拍で掴まれる線までは来ていない。


 それを見てから、ようやくユウは低く言った。


「帽子押さえとけ」


 ユイがすぐ片手をつばへやる。


「はい」


「頭下げろ。右、引っかける」


 ユイは言われるまま少し屈む。


 素直だ。


 そこだけは本当に助かる。


 ユウはさらに続ける。


「先に入る。お前は後から来い」


「分かりました」


 それで話は済む。


 寝床の入口は、入口と呼ぶのも少し大げさだった。


 崩れた壁材と歪んだ鉄骨の隙間。


 人一人が身を横へして通れるくらいの幅しかない。


 扉はない。


 閉めるものもない。


 ただ、外から一目で“ここで寝てる”と分かりにくい形になっているだけだ。


 ユウは一度だけ背後の気配を意識してから、自分の身体をその隙間へ滑り込ませた。


 肩を少し回し、頭を低くし、慣れた角度で抜ける。


 中へ入ってからすぐ振り返り、ユイの入る位置と周囲の隙を同時に見る。


「今だ」


 ユイが帽子を押さえたまま身を縮めて入ってくる。


 白い髪が帽子の中へ収まっていることを、ユウは無意識に確認していた。


 そこで引っかけて落ちるのが、今この場でいちばん面倒だった。


 ユイは思ったより器用に身体を通し、最後に肩を少しだけ擦らせながら中へ入った。


 帽子は落ちない。


 そこだけで、まずは十分だった。


 そして中へ立ち上がった瞬間、ユイの動きが止まる。


 言葉が出ない。


 それも無理はなかった。


 そこは部屋ではなかった。


 壁はある。


 だが、壁らしい形で四方を囲っているわけじゃない。


 半分は崩れたコンクリのまま、残りは板や鉄屑を無理やり立てて風を切っているだけだ。


 屋根も同じだ。


 一応、頭上を覆う形にはなっている。


 けれど、端の方は欠けていて、光も雨もその気になれば普通に入る。


 扉はない。


 閉じるものもない。


 中にあるのは、床へ寄せた毛布と、空のボトルと、補修に使ったらしい布切れと、少しの工具。


 それだけだった。


 本当に、何もない。


 ユイはしばらくその場に立ち尽くしていた。


 昨日見た“部屋”は、何もなくても部屋だった。


 壁があった。


 屋根があった。


 扉があった。


 ベッドもあった。


 でも、ここにはそれすらない。


 寝るために、身を寄せるために、最低限だけ残した場所。


 それだけだ。


 生活の形をしたものが、ほとんどない。


 ユウはそんなユイの沈黙を気にした様子もなく、すぐに壁際へしゃがみ込んだ。


 まず毛布を畳む。


 残してもいいが、同じ形のまま置いておくのはよくない。


 次にボトル。


 まだ使える方は回収。


 空の方は潰して布へ包む。


 補修用の布と小さな工具も、手癖みたいな動きでまとめる。


 そこに感傷はない。


 惜しむでもなく、急ぐでもなく、ただ“片付けるべき場所”として処理していく。


 ユイはその横顔を見ながら、ようやく小さく言葉を零した。


「……本当に、何もないんですね……」


 責める声ではなかった。


 驚きと、呆然と、そのままの感想が混じっただけの声だ。


 ユウは手を止めない。


「寝るだけなら足りる」


 短く、それだけ返す。


 ユイは言い返せなかった。


 ユウは小さな隠し場所へ手を伸ばし、板の裏から弾の箱を一つ抜いた。


 位置を覚えている手つきだった。


 そのままジャケットの内へ収める。


「そこ、昨日まで使ってたんですか」


 ユイが聞く。


 ユウは頷きもしない。


「そうだ」


「毎日?」


「だいたいな」


 その答えの軽さが、逆に重かった。


 毎日。


 この場所で。


 この隙間で。


 扉もなく、屋根も欠けた場所で。


 そうやって眠っていたのかと想像した瞬間、ユイの中で何かが言葉にならずに沈む。


 ユウはようやく一度だけ周囲を見回した。


 痕跡はまだ少し残っている。


 床の擦れ。


 寄せていた毛布の形。


 壁際の癖。


 完全に消すのは無理でも、“まだ使っている”と思わせない程度には崩していく必要がある。


 板をずらし、布の位置を変える。


 中に人の体温が残っている感じを消す。


 動きに迷いはない。


 ユイはそれを見て、昨日の部屋との違いをあらためて思い出す。


 ユイは帽子のつばを押さえたまま、小さく息を吐いた。


「寂しいとか、そういう感じでもないですね」


 思わず出た言葉だった。


 ユウはそこで初めて少しだけ手を止める。


「何だそれ」


「昨日の部屋は、寂しいって思ったんです」


 ユイはゆっくり言う。


「でも、ここは……」


 言葉を探す。


 寂しい、じゃ足りない。


 生活が薄いとか、何もないとか、それとももっと別の何かか。


 うまくまとまらない。


 ユウはそれを待たずにまた手を動かした。


「寝床だ」


 それが結論だった。


 部屋でも、家でもない。


 寝床。


 一晩しのぐための場所。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 ユイはその言葉を、今度はすぐに否定しなかった。


「……そうですね」


 小さく答える。


 多分、少しだけ分かったのだろう。


 昨日の“部屋”と、ここでの“寝床”が、まるで別物だということを。


 ユウは回収したものをまとめ終えると、入口の方へ顎を向けた。


「もう出る」


 長居する場所じゃない。


 見に来るだけでも危ないのに、立ち尽くしていればもっと危ない。


 ユイもすぐ頷く。


「はい」


 ユウは入口手前でもう一度だけ周囲を切る。


 さっきと同じ。


 人がいないか。


 見ている目が増えていないか。


 ここで二人まとめて挟まれないか。


 今のところは大丈夫だ。


「先に出る」


 ユイは帽子を押さえ直す。


 もうそこは言われなくても動くようになっていた。


 ユウは狭い隙間を抜け、外へ出る。


 続いてユイも出てくる。


 路地の空気がまた二人を包む。


 まだ危ない。


 まだ全然安全ではない。


 けれど、ユイの中の何かは、さっきまでと確かに違っていた。


 ユイは黙ってその後ろへついてくる。


 来た時より、足音が少しだけ重かった。


 ユウはそれを横目で確認するでもなく、ただ前を向いたまま歩き出した。


 言うことはもう多くない。


 必要なものは、さっきので十分入ったはずだ。


 ユイも黙ってその後ろへついていく。


 さっきまでの楽しそうな空気は、まだ全部は消えていない。


 でもその上に、初めて知った下層の現実が薄く重なっている。


 背後で、崩れた壁材と鉄骨の隙間が、またただの暗がりに戻っていった。

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