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銀月のロスト  作者: taka
第6章 部屋ではなく、寝床
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黙って歩け

 ガレージストリートの表通りを抜けると、空気の質がまた変わった。


 広さが消える。


 視線の逃げ場が減る。


 朝の整備音も少しずつ背後へ遠ざかり、代わりに路地の湿り気と、壁の向こうに溜まった生活の気配だけが濃くなる。


 ここから先は、表の理屈があまり通じない。


 ユウはそこで一度だけ足を緩め、振り返らずに言った。


「ここから黙れ」


 声は低い。


 短く、余計な説明を挟まない。


 ユイも今度は素直だった。


「……はい」


 さっきまでの明るさは、まだ完全には消えていない。


 けれど、表通りを離れるにつれて、その上に薄く緊張が乗り始めている。


 多分ようやく、空気の違いが言葉じゃなく身体に入り始めたのだろう。


 ユウはその返事を聞くと、もうそれ以上は何も言わずに歩き出した。


 路地は細い。


 壁と壁の間へ無理やり道を通したみたいな幅しかない。


 濡れたコンクリ。


 剥がれた塗装。


 頭上には配管が走り、見上げた先の空はほとんど切れている。


 人が立てばそれだけで通り道になる。


 人が消えれば、そのまま穴になる。


 ユウの口数は、そこで目に見えて減った。


 さっきまでなら、寄るな、声を落とせ、見るなと、その都度言葉で切っていた。


 今は違う。


 言うより先に見て、見た瞬間に身体が動く。


 ユイの足が少しだけ左へ寄る。


 壁際。


 そこは一見ただの陰だ。


 だが、奥行きの浅い隙間に見えて、身体一つ引き込むには十分な暗さがある。


 ユウは何も言わず、後ろへ手を伸ばした。


 手首を取る。


 びくり、とユイの身体が小さく震える。


 だが声は出さない。


 そのままぐっと引き寄せ、進む角度を一歩分だけ右へ変える。


 ユイは引かれるまま、無言でついてくる。


 そこでようやく、路地の奥に沈んでいた人影が一つ、わずかに動いた。


 本当にわずかだ。


 見ていなければ見逃す程度。


 だが、ユウにはそれで十分だった。


 視界の端で確認し、そのまま速度を少しだけ上げる。


 今のは声にする話じゃない。


 いちいち説明していたら間に合わない。


 後ろの気配が少し近くなる。


 ユイも引かれた意味までは分からなくても、今は黙ってついてきた方がいいと身体で察したらしい。


 一つ角を曲がる。


 朝の光がさらに薄くなる。


 代わりに、昨日の寝床へ繋がる流れが少しずつ濃くなっていく。


 この辺りからはもう、顔見知りか、そうでなければ完全に知らない目しかいない。


 ユイの歩幅が半拍だけずれる。


 足元を見たのだろう。


 濡れた床か、割れた瓶の欠片か、何かに気を取られた。


 その遅れがこの幅では十分に危ない。


 ユウは今度は肩口を掴んで引き寄せた。


「っ……」


 息だけが小さく漏れる。


 ユイの身体が半歩分、こちらへ近づく。


 壁へぶつけるのではなく、通りの真ん中へ戻すための動きだった。


 そのまま二歩、三歩。


 歩く速度を落とさない。


 ユイは何も言わない。


 言えないのかもしれない。


 少なくとも今は、言葉より手の方が早くて正確だと分かり始めている。


 路地の途中、頭上の配管から水が細く垂れていた。


 その下を抜ける時、ユイが反射で顔を上げかける。


 ユウはすぐに顎だけで前を示す。


 見るな。


 声にしなくても、その動きだけで十分だった。


 ユイはすぐに視線を戻す。


 連れて進むために歩いている。


 二人の間に会話はほとんどない。


 あるのは、靴音と、服の擦れる気配と、時々ユウが進路を変える時の無言の力だけだ。


 細い通路を抜ける。


 右の壁際に、潰れた椅子と錆びた缶が積まれている。


 その向こうは行き止まりに見える。


 だが実際には、人一人通れるほどの抜け道がある。


 知らない人間なら目に入らない。


 知っている人間だけが使う穴だ。


 ユウはそこを避けるように外側を取る。


 その瞬間、後ろからまた足が少し遅れる。


 ユイの帽子のつばが配管へ軽く触れた。


 ただそれだけのことで、肩が一瞬止まる。


 ユウは振り向かずに、今度は直接手を引いた。


 細い指先が自分の手の中へ収まる。


 少し冷たい。


 力を入れすぎないよう、必要な分だけ引く。


 ユイの方も、驚いたのは一瞬だった。


 次の瞬間には何も言わず、そのまま引かれるままに歩幅を合わせてくる。


 もう、この辺では言葉が入る余地がない。


 一つ間違えれば止まる。


 止まれば見られる。


 見られれば寄られる。


 その順番をユウは知っている。


 その全部を、考えるより先にやっていた。


 背後で、誰かの気配が一度だけ壁へ寄った。


 本当に一瞬だ。


 試しに近づこうとしただけかもしれない。


 だが、ユウが振り返らずに進路を変え、ユイを引き寄せたことで、その気配はそれ以上寄ってこなかった。


 ユイの息が少しだけ上がっている。


 怖がっているというより、ついていくので精一杯なのだろう。


 さっきまでの楽しそうな余裕はもうない。


 その代わり、ちゃんと黙ってついてきている。


 それで十分だった。


 やがて路地の曲がり方が変わる。


 ここから先は、ユウにとって見覚えのある流れだ。


 寝床へ近づいている。


 完全に安全とは言わない。


 だが、さっきまでよりは把握できる場所になる。


 そこでようやく、ユウは足を少しだけ緩めた。


 手を離す。


 離されたあとも、ユイはすぐには何も言わなかった。


 ただ、二歩ほど遅れてようやく小さく息を吐く。


「……さっきの」


 声はかなり抑えている。


 朝の部屋や表通りとは違う。


 ちゃんと学んでいる声だった。


 ユウは前を見たまま返す。


「何だ」


「引き込まれるって、ああいうことですか」


 その問いに、ユウは一拍だけ黙った。


 多分、完全には分かっていない。


 でも、さっきまでよりはずっと近いところまで来ている。


「そうだ」


 短く答える。


 ユイはまた黙る。


 それで終わる。


 余計な感想も、怖かったですも、出てこない。


 多分まだ言葉になっていないのだろう。


 ユウもそれでいいと思った。


 少ししてから、今度は本当に小さな声でユイが言う。


「……心配しすぎじゃなかったんですね」


 ユウは鼻で息を吐く。


「最初からそう言ってる」


 それだけ返すと、ユイは今度こそ何も言わなかった。


 路地の奥、昨日までの寝床へ続く気配が近づいてくる。


 背後の空気はまだ重い。


 けれど、さっきまでのような軽さはもうユイから消えていた。


 表通りでは笑っていた。


 友達だと嬉しそうに言っていた。


 だが今は、足音が少しだけ重い。


 それでいい。


 一度で全部は分からない。


 けれど、少しずつでも身体へ入れば、次はましになる。


 ユウは前を見たまま、もう一度だけ歩幅を調整する。


 後ろの気配が、今度はちゃんとそれに合ってきた。


 そのことにだけは、何も言わずに少しだけ安堵した。

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