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銀月のロスト  作者: taka
第6章 部屋ではなく、寝床
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心配しすぎ

 拠点を出ると、朝の下層はもう動き始めていた。


 湿った空気。


 鉄と油の匂い。


 ユウが先に立つ。


 半歩でも一歩でも前がいい。


 後ろを連れて歩くなら、その方が見やすい。


 視界の端にユイを置き、通りと路地と、脇道へ溜まる人影をまとめて切る。


 ユイはちゃんと少し後ろへついてきていた。


 帽子も深い。


 声も今のところは出していない。


 サエに言われたことは、一応守る気でいるらしい。


 そこまではいい。


 そこまではいいのに、歩いている顔が楽しそうだった。


 初めて歳の近い相手と外を歩く。


 しかも、自分の側の人間として。


 そういう嬉しさが、本人の中ではそのまま表へ出ている。


 それがユウには、どうしても落ち着かない。


 細い路地を一つ抜けたところで、ユイの足が少しだけ壁際へ寄った。


 癖みたいな動きだった。


 別に深い意味はないのだろう。


 ただ、ユウの目にはそれでも十分危ない。


「そっちに寄るな」


 ユイがすぐ顔を上げる。


「え?」


「近いと引き込まれるぞ」


 短く言う。


 説明を長くしている余裕はないし、長くしたところでこの辺りでは意味が薄い。


 距離を切る。


 寄らない。


 視線を合わせない。


 それだけで生き残る確率が変わる場所なのだ。


 ユイは一拍遅れて頷く。


「分かってます」


 言いながらも、口元にはまだ小さく笑みが残っていた。


 分かってない。


 ユウはそう思う。


 少なくとも、身体の方ではまだ全然分かっていない。


 角を一つ曲がる前に目をつけられ、声を掛けられ、脇へ寄せられる。


 明日には見るも無残な姿で見つかってもおかしくない。


 下手をすれば、その「明日」すら来ない。


 そういう場所だ。


 なのにユイは、ちゃんと気をつける気ではいるくせに、その根のところがまだ軽い。


 また少し歩く。


 ガレージストリート方面へ近づくにつれて、通りの空気はさらに変わっていく。


 開きかけたシャッター。


 錆びた看板。


 工具の音。


 修理途中の車両の匂い。


 朝の油と金属の匂いが濃くなる。


 その中に混じる視線の重さも、ユウには分かる。


 ユイが小さく、抑えた声で言った。


「朝って、夜より静かなんですね」


 声量はちゃんと控えている。


 それだけは昨日より良くなっていた。


 だが、内容の方がのんきすぎる。


「静かなだけだ」


 ユウは前を見たまま返す。


「消えたわけじゃねえ」


「消えたわけじゃない?」


「人が減っただけだ」


 それで会話を切るつもりだったが、ユイは少しだけ考え込むみたいに黙る。


 そして、また一歩こちらへ近い方へ寄りそうになる。


「寄るな」


 今度はもっと短く言う。


 ユイがすぐに足を戻す。


「……ユウは心配しすぎです」


 帽子のつばの下から、少しだけ不満そうな声が返る。


 けれど、表情の方はまだ明るい。


 本気で反発しているわけじゃない。


 ただ、ここまで言われるほど危ないと実感できていないだけだ。


 ユウは小さく息を吐く。


「心配してるんじゃない」


「違うんですか?」


「見えてるだけだ」


 その言い方に、ユイは一瞬だけ黙る。


 見えてる。


 多分それが、ユイにはまだ掴みにくい。


 危ないかもしれない、じゃない。


 危ないものとして、もう見えている。


 その差がある。


 通りの向こう、半開きのシャッターの奥に座る男が一人、こちらをぼんやり見ていた。


 ただ見ているだけにも見える。


 だが、ユウはそうは取らない。


 目線の残り方が長い。


 帽子のつば。


 白い毛先。


 細い輪郭。


 そういうものを一瞬で舐める目だ。


 ユウはわざと一歩だけ角度を変え、そいつとユイの間へ身体を入れる。


 ユイがそれに気づいて、小さく言う。


「……今の人ですか?」


「見返すな」


「まだ見てないです」


「見ようとするな」


 言うたびに、自分でも口数が増えているのが分かる。


 普段ならここまで喋らない。


 一人ならもっと黙って歩く。


 必要な時だけ止まり、必要な時だけ動く。


 なのに今は、その都度口へ出さないと危ない。


 ユイは少しだけ頬を膨らませた。


「……そんなに危ないんですか」


 それでも笑っている。


 本当に、どこか楽しそうなのだ。


 その笑顔を見るたびに、ユウの背筋は逆に冷える。


 何も知らない顔で笑って歩けること自体が、ここでは危うい。


 路地を一つ曲がる。


 ユウは足を止めずに言う。


「あまり声を出すな」


「今もそんなに大きくないです」


「まだ大きい」


「これでですか?」


「十分だ」


 ユイはまた小さく「むずかしいですね」と漏らす。


 その言い方が、まるで本当に勉強でもしているみたいで、ユウは少しだけ眉を寄せた。


 むずかしい、で済む話じゃない。


「路地の奥、見るな」


「……はい」


 今度は返事だけだった。


 少しずつ、言葉の意味そのものは入ってきている。


 ただ、その重さの方はまだ薄い。


 だから表情が消えない。


 ユウは前を見たまま、無意識に舌打ちしそうになるのを抑えた。


 手間が増える。


 正直に言えば、かなり増える。


 でも、その面倒さの中には、単に苛立ちだけじゃないものも混じっている。


 放っておけない。


 放っておけば本当にまずい。


 そういう現実感があるから、口が増える。


 ユイはそんなことまでは知らず、また帽子のつばを少しだけ押さえ直した。


「……でも」


「何だ」


「こうして外を歩くの、ちょっと嬉しいです」


 その言葉に、ユウは一瞬だけ返事を忘れた。


 帽子の下の口元が、少しだけ笑っている。


 明るくはない。


 でも、ちゃんと嬉しそうだった。


「同年代の友達とこういうふうに歩くの、初めてですから」


 またそれだ。


 友達。


 その言葉が、相変わらず少し浮いて聞こえる。


 けれど、ユイがそれを本気で言っていることだけは分かる。


 だから余計に、雑に切れない。


 ユウは前を向いたまま、低く言った。


「……そうかよ」


 それだけだった。


 ユイはそれで満足したらしく、嬉しそうに頷く。


 その素直さに、またどこか気が抜けそうになる。


 だが、ここで気を抜けるほど、この辺りは甘くない。


 ガレージストリート寄りの匂いがさらに濃くなる。


 油。


 熱の抜けた鉄。


 洗浄剤。


 古いゴム。


 朝の整備場みたいな匂いだ。


 人の流れも変わる。


 夜の顔つきとは違うが、だから安全というわけではない。


 ユウはそこで少しだけ歩幅を落とし、後ろを見ないまま言った。


「離れるな」


「はい」


「立ち止まるな」


「はい」


「返事だけしてろ」


 それには少しだけ笑いを含んだ声が返る。


「はい」


 やっぱり楽しそうだった。


 ユウは小さく息を吐く。


 この辺りで一人で歩かせれば、本当に一分も持たない。


 それくらいはっきり分かる。


 だからこそ、隣でも後ろでもなく、ちゃんと視界へ置いて歩くしかない。


 同じ道を歩いているのに、見えている世界が全然違う。


 ユイにとっては、新しい友達と並ぶ朝の道。


 ユウにとっては、一歩ずれれば終わる危険地帯。


 その差を抱えたまま、二人はガレージストリート方面へ歩き続けた。

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