出発前の点検
朝食の皿が半分ほど空いた頃には、もう話は実質まとまっていた。
まとまっている、というより、誰かが止める前に流れの方が先へ進んでしまった形に近い。
ユイは完全に出るつもりでいるし、サエももう「行かせるならどう整えるか」の顔になっている。
タチバナだけが、まだ少しだけ渋いままだった。
サエが最初に立った。
「ユイ、こっちへ」
その呼び方だけで、もうサエがこの場を仕切る側だと分かった。
ユイは素直に椅子を引く。
「はい」
声は明るい。
叱られている空気ではない。
遠足の準備を始める前の子どもみたいに、むしろ少し浮いている。
ユウはその様子を見て、無意識にタチバナへ目を向けた。
――本当にいいのか。
視線だけでそう送る。
タチバナはすぐに意味を受け取った顔をした。
受け取った上で、わずかに眉間を寄せる。
けれど、もうここで「やっぱり無しだ」とは言えない。
その程度には流れが出来上がってしまっている。
ユウは小さく息を吐いた。
サエはそんな男二人の空気など気にせず、ユイの前へ立つ。
「帽子は?」
「あります」
「被って」
ユイはすぐ帽子を手に取り、白い髪をまとめるようにして被り直した。
サエはそれを横から見て、つばの角度を少しだけ指で直す。
「髪、耳の後ろが出てる」
「えっ」
ユイが慌てて押し込む。
「ちゃんと隠しなさい。外じゃそれだけでも目立つわ」
「はい」
「替えのコンタクトは?」
「持ちました」
「見せて」
ユイがポケットからケースを出す。
サエは一目だけ確認して頷いた。
「よし。声の大きさは?」
「……抑えます」
「抑えるじゃなくて、“必要な時だけ出す”」
「必要な時だけ出します」
「勝手に前へ出ない」
「はい」
「変だと思ったら止まる」
「はい」
「ユウの言うことを聞く」
そこだけで、ユイが少しだけ瞬いた。
それでもちゃんと頷く。
「はい」
素直すぎる返事だった。
その横でレンジがソファにもたれたまま、口元を押さえる。
笑っている。
声に出すと刺されると分かっているから抑えているだけで、肩の揺れまでは隠せていない。
「……お前な」
タチバナが低く言う。
レンジはすぐ両手を上げた。
「いや、だって」
「だってじゃない」
「すみません。でも」
そこでまた笑いを噛み殺すみたいに息を詰める。
「いやもう、出る前の点検そのものじゃないですか」
サエが振り向きもせずに返す。
「出発前だから確認してるの」
その言い方に無駄がなかった。
レンジはそこで観念したらしく、背もたれへ戻る。
「はいはい」
ユウはまたタチバナを見た。
今度はさっきよりはっきりしている。
――本当に行かせるんだな。
タチバナはその視線を受け、今度は逸らさなかった。
逸らさずに、ただ渋い顔のまま立っている。
だが、止めない以上は同じことだ。
ユイの方はすっかり支度の気分になっている。
帽子を被り直し、服の裾を整え、忘れ物がないかまで自分で確認している。
言われたことをちゃんとやる。
そこは本当に素直だ。
サエが最後に問う。
「武器は」
「持ってます」
ユイが小さめの拳銃を見せる。
サエは頷いたあと、視線を少しだけ細くする。
「使う前に、まず止まること。今日は撃つために行くんじゃない」
「はい」
「“ロストだから行ける”と、“今日行く意味がある”は別よ」
そこだけ、サエの声が少しだけ低くなった。
ユイも真面目な顔で頷く。
「分かってます」
多分、本当に分かろうとはしている。
ただ、その“分かる”の中身がまだ少し薄いだけだ。
ユウはそのやり取りを聞きながら、またタチバナへ目を向ける。
タチバナはほんの一瞬だけ目を閉じ、それから開く。
完全に観念した顔だった。
「……余計なことはするな」
それはユイへ向けた言葉でもあり、半分は自分へ言い聞かせるようでもあった。
ユイはすぐ返す。
「しません」
元気よく言い切る。
その自信がいちばん不安なのだが、誰もそこには突っ込まない。
レンジがぼそりと漏らす。
「いやあ……」
サエが横目で牽制する。
「何」
「いや、ほんとに行くんだなって」
「見れば分かるでしょ」
「ですよね」
レンジはそれ以上言わない。
けれど顔だけはまだ面白がっている。
ユウは椅子から腰を上げる。
ジャケットの裾を直し、手癖のように武器の位置を確認する。
その動きひとつで、今からやるのが遊びでも散歩でもないことが改めて分かる。
ユイもそれを見て、少しだけ背筋を伸ばした。
浮かれているだけじゃないと示したいのかもしれない。
ただ、その肩にまだ微妙な張り切りが残っているのは隠しきれていなかった。
サエが最後に一度だけユイの帽子へ手を伸ばす。
「つば、少し下げる」
「はい」
「それから」
そこでサエの目がほんの少し柔らかくなる。
「ちゃんと帰ってきなさい」
その一言に、ユイは小さく笑った。
「はい」
そこでタチバナがようやく口を開く。
「ユウ」
低い声だった。
ユウがそちらを見ると、タチバナは少しだけ間を置いてから言う。
「……信じてるぞ」
来た、と思った。
さらに重ねるように、タチバナが続ける。
「分かってるな?」
ユイは案の定、すぐそちらを見る。
「何がですか?」
その反応の速さに、レンジがまた口元を押さえる。
サエは小さく息を吐き、タチバナは今度こそ本気で固まった。
ユウはタチバナへ、呆れを隠さず視線を送る。
――だからそれを言うなって顔してるだろ。
タチバナは、今度は綺麗に目を逸らした。
完全に逃げた。
レンジの肩が大きく震える。
声を出したら終わるから必死で堪えているのが分かる。
サエはとうとう天井を見上げた。
どうしたものか。
本当にそう顔へ書いてある。
ユイだけが真面目に待っていた。
「……何がですか?」
二度目は少しだけ小さい。
それでも本気で聞いている声だ。
ユウはそこで、もう助ける気を失くした。
助ける義理もない。
代わりに、わざと事務的に言う。
「外で勝手なことをするなって話だろ」
それがいちばん丸い。
いちばん丸いが、それでも十分伝わる。
ユイはすぐに頷いた。
「分かってます」
今度はタチバナもそこへ乗るしかない。
「そういうことだ」
声が妙に平らだった。
助かった、という顔まではしていない。
だが、地雷が一歩手前で止まった安堵くらいはあった。
レンジがそこでようやく小さく言う。
「今さらだろ?」
その一言に、空気が少しだけ緩む。
タチバナがすぐに睨む。
「黙れ」
「はい」
レンジは素直に引っ込む。
だが笑いはまだ残っていた。
サエは首を振り、小さく言う。
「もう行きなさい。これ以上ここで止まってると、また余計な話になるわ」
それは完全に正しい。
ユウもそう思う。
ここに長くいればいるほど、別の地雷が増えるだけだ。
ユイは小さく頷き、扉の方へ向き直る。
そこで一歩前へ出かけて、ふと止まった。
それからユウを見て、少しだけ迷う。
今朝までなら、そのまま先に立っていたはずだ。
だが今は違う。
外では前に出るな、と言われたことをちゃんと覚えている。
「……どう並べばいいですか?」
その問いに、ユウは少しだけ目を細める。
「俺が先に出る」
「はい」
「お前は少し後ろ。勝手に脇へ逸れるな」
「分かりました」
素直だった。
そこだけは、朝より少し進んでいる。
サエが最後にもう一度だけ言う。
「普通に歩いて、普通に話しなさい。静かにしようとしすぎない」
その一言に、タチバナの顔がまた少しだけ渋くなる。
完全に今朝の件を刺されている。
しかもその通りだから反論できない。
ユイはそこでも素直だった。
「分かりました」
レンジが最後に手を振る。
「いってらっしゃい。まあ、気をつけて」
気楽そうな言い方だったが、目だけはちゃんと仕事の色を残している。
ユウが先に扉へ向かう。
その後ろへ、今度はちゃんとユイがつく。
真ん中でも前でもなく、少し後ろ。
そこまでできるなら、まだましだろう。
出る直前、ユウは振り返らずに言った。
「行ってくる」
誰に向けたというほどでもない。
けれど、タチバナたちにはそれで十分だった。
「戻れ」
タチバナの返事は短い。
サエは小さく会釈し、レンジは軽く手を上げる。
扉が開く。
拠点の中の生活の匂いが切れ、外の湿った空気が流れ込んでくる。
下層の朝はもう始まっている。
昨日の寝床へ戻るだけのはずなのに、やけに気の重い同行者が一人ついてくる。
面倒なことになる。
その予感だけは、最初から消える気がしなかった。




