同行希望
朝食の皿が半分ほど空いた頃には、朝の騒ぎも一応は落ち着いていた。
落ち着いてはいる。
だが、完全に元通りというわけでもない。
サエはもういつもの静けさへ戻っているし、レンジもスープを飲みながら何でもない顔をしている。
ユイも反省はしたらしく、今は声を抑えている。
ただ、タチバナだけがまだ少し渋い顔のままだった。
ユウはパンをちぎりながら、その空気が完全には抜けていないのを横目で見ていた。
朝の件はもう終わった。
少なくとも表向きは。
だからこそ、そろそろ今日やるべきことへ戻した方がいい。
ユウは水を一口飲んでから、タチバナへ向かって言った。
「昨日、言われた通り、これから寝床の様子を見てくる」
仕事の話に戻す声だった。
タチバナの目がその一言で切り替わる。
娘の話、生活の話、朝の騒ぎ。
そういうものを一度横へ置く顔になる。
やはりこの男は、仕事へ戻る時だけは早い。
「痕跡を消しておけ」
返答もすぐだった。
「後を付けられないようにしろ。道も変えろ。いつも通り行くな」
短い。
だが必要な線だけは全部ある。
いつものタチバナだ。
ユウも頷く。
「分かった」
その一往復で、卓の空気がほんの少し仕事寄りへ戻る。
戻った、はずだった。
「……じゃあ、私も行きます!」
元気な声がそこへ差し込んだ。
空気が止まる。
ユウは思わずそちらを見る。
ユイがまっすぐこちらを見ていた。
声は朝よりちゃんと抑えている。
けれど、勢いだけはそのままだ。
しかも顔は明るい。
善意百パーセントの立候補だった。
タチバナが固まる。
ほんの一瞬だが、完全に止まった。
さっきまで仕事の顔へ戻っていた男が、その一言でまた父親の困る顔へ戻される。
サエは小さく息を吐き、ほんの少しだけ天井を見る。
どうしたものか。
そのまま顔に出ていた。
ユウは一番先に現実へ戻る。
「……いや、危ねえからやめておけ」
まずそこだった。
感情ではなく、単純な危険の話。
寝床の様子を見に行く。
痕跡を消す。
後を付けられないようにする。
そこへユイを連れていく理由は薄い。
少なくとも、ユウの中ではそうだった。
だがユイは引かない。
むしろきょとんとしたあと、胸を張るみたいに言う。
「私だってロストですし、ユウ君より経歴は長いんですよ」
その言い方に迷いがない。
事実としてはそうだ。
実戦の重さや中身は別としても、在籍や肩書きだけを切り出せば、確かにユイの方が長い。
しかも本人は、それをただの反論材料じゃなく、真面目な根拠として出している。
だから余計に厄介だった。
ユウは一瞬だけ言葉に詰まる。
確かに、ロストではある。
無関係な一般人ではない。
だから“危ないから駄目”だけでは切りにくい。
そこでタチバナが何か言おうとする。
「ユイ、お前は――」
出かかった声が、途中で止まる。
能力の問題じゃない。
ロストとしての資格だけでもない。
本当に止めたい理由は、多分別のところにある。
だがそれを娘の前でどう言葉にするのか、その答えが見つからない顔だった。
ユイはその言い淀みを、自分が押せる隙だとは思っていない。
ただ純粋に、自分の言い分がまだ届いていないと思っているだけらしい。
「一人で行くより、二人の方がいいですよね?」
にこにこしている。
本気で善意だ。
「それに、昨日も案内しましたし」
そこまで言われて、レンジの肩がとうとう震えた。
吹き出しはしない。
だが笑いを堪えているのは誰が見ても分かる。
サエはこめかみの辺りを軽く押さえた。
止めたい。
でもユイが悪いことを言っているわけではない。
そこが全部を難しくしていた。
ユウは無言でタチバナを見る。
視線だけで十分だった。
――なんとかしろよ。
タチバナはその視線を正面から受けて、ほんの一瞬だけ黙る。
それから、きれいに目を逸らした。
完全に逃げた。
レンジがそこでついに小さく吹きそうになる。
慌ててスープの器を口へ運んでごまかしたが、間に合っていない。
ユウは内心で小さく息を吐いた。
この男、仕事では絶対に視線を逸らさないくせに、娘絡みだとこういう逃げ方をする。
分かりやすすぎる。
しばらく黙っていたタチバナが、結局ユウの方へだけ低く言った。
「……信じてるぞ」
ユウは目を細める。
来た。
まさにそれだった。
さらに重ねるように、タチバナが言う。
「分かってるな?」
遠回しだった。
遠回しにしか言えない。
娘の前でそれ以上具体的にできないからだ。
だからこそのこの一言。
ユイは案の定、すぐに反応する。
「何がですか?」
タチバナの顔がさらに渋くなる。
そして間髪入れずに、ユイは嬉しそうに続けた。
「ユウ君って、お父さんから信用されてるんですね。すごいです」
完全に逆方向へ受け取った。
レンジが今度こそ顔を伏せる。
肩が揺れている。
サエは片手で目元を押さえた。
笑ってはいない。
ただ、もう止める言葉の順番が見つからない顔だった。
タチバナはそれを真正面から受け、今度は逸らせなかった。
逸らせない代わりに、苦虫を何匹もまとめて噛み潰したみたいな顔になる。
ユイはそんな空気には気づかず、さらに首を傾げる。
「分かってるって、何をですか?」
そこでサエが静かに口を挟んだ。
「ユイ」
声は穏やかだったが、そこは切るという線がきちんと入っている。
「今のは、その……外に出る時の注意の話よ」
ユイはそちらを見る。
「注意?」
「ええ。勝手な動きをしないとか、余計なところへ行かないとか、そういうこと」
完全な嘘ではない。
でも全部でもない。
その絶妙な濁し方に、タチバナが助かった顔をするのがかえって情けない。
ユイはまだ少し不思議そうだったが、最終的には素直に頷いた。
「分かりました」
本当に分かったかどうかは怪しい。
だが、それ以上掘る気配が消えただけで、この場では十分だった。
ユウはそこでようやく小さく息を抜く。
面倒だ。
けれど、ここまで来ると呆れ半分で受け流すしかない。
そもそも、この流れを作った原因のかなりの部分は、目の前で渋い顔をしている男にある。
タチバナは一度だけ喉を鳴らし、それから仕事の声へ戻ろうとする。
「……ユイ、お前は」
そこでまた止まる。
行かせない、と言えば早い。
だが、今の流れでそう切るとまた説明が要る。
しかもロストとしての立場を真っ直ぐ出された後だ。
簡単には戻せない。
サエがその沈黙を見て、低く言った。
「同行するなら条件がいるわね」
レンジがようやく顔を上げる。
まだ少し笑いを堪えているが、口調は整っていた。
「たとえば、お父さんの言うことをちゃんと聞く、とか?」
「違うわ」
サエは即座に切る。
「ユウの言うことを聞く、よ」
その一言で、今度はタチバナが目を動かした。
サエは淡々と続ける。
「今回はユウが寝床を見に行くの。道も、痕跡も、危険の線も、現場ではユウの判断を優先する。それができないなら行かない」
ユイは少しだけ真面目な顔になる。
考えている。
けれど、反発ではない。
やがて、しっかり頷いた。
「できます」
その返答は早かった。
ユウはそこでまたタチバナを見る。
今度は、どうする、というより、もうお前が決めろ、の視線だった。
タチバナはしばらく黙ったまま、皿の残りへ一度だけ目を落とす。
考えているのか、時間を稼いでいるのか、その両方かもしれない。
やがて、低く言う。
「……余計なものは持たせるな」
それが答えだった。
許可でもない。
だが否定でもない。
完全に押し切られたわけではない顔をしながら、実質的には通している。
ユイの表情がぱっと明るくなる。
「はい!」
嬉しそうだった。
本当に嬉しそうで、その顔を見ると、また強く切りにくくなる理由も少し分かる。
ユウはパンの欠片を指先で弄びながら、低く言った。
「……面倒なことになるな」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、卓の全員にちゃんと届いた。
レンジが小さく笑う。
「今さらでは?」
サエは黙ったまま、しかし否定しない。
タチバナも何も返さない。
返せないのかもしれない。
朝の拠点には、まだスープの湯気が残っている。




