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銀月のロスト  作者: taka
第5章 内側の少女
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大人たち

 ユイとユウの足音が二階の奥へ消えてから、リビングの空気は少しだけ静かになった。


 階段の方を見ていたレンジが、そこでようやく肩の力を抜くみたいにソファへ深くもたれた。


「いやあ……」


 わざとらしく間を置いてから、口元だけで笑う。


「随分あっさり懐かれましたねえ」


 タチバナは壁際へ寄ったまま、短く息を吐いた。


「懐いたわけじゃない」


「そうですか?」


 レンジは片眉を上げる。


「同年代のお友達は初めてです、って顔してましたけど」


 そこでサエがキッチン側から静かに入る。


「実際、そうなんでしょう」


 声は低い。


 だが、否定ではない。


「年齢の近い相手と、ああやって自然に話せる機会がほとんどなかったんだと思うわ」


 タチバナは返さない。


 返さないが、否定もしない。


 それだけで十分に答えになっている。


 レンジが小さく笑う。


「まあ、分かりますよ。あの子に悪気がないのは」


「悪気があったら止めてる」


 タチバナの返しは即座だった。


 それが逆に、今いちばん厄介なところをよく表している。


 悪意も計算もない。


 ただ善意で近い。


 近いことの意味をまだ整理しきれていない。


 だからこそ強く切りにくい。


 サエが棚へ手を伸ばし、空いたグラスを一つ持ち上げる。


「ユウも軽い子じゃないわね」


 その言い方に、タチバナの目が少しだけ動く。


「……見て分かるか」


「見ていれば、ね」


 サエはグラスを拭きながら続けた。


「戸惑ってはいたけれど、余計なことはしなかった。変に受け流して遊ぶでもないし、距離を詰めようともしない。そういう意味では扱いやすい方でしょう」


 レンジもそこで頷く。


「下層の子にしては、かなりちゃんとしてますよ。もっと軽く受けるか、逆に過剰に警戒するかのどっちかでもおかしくないのに、ちゃんと止めるところは止めてましたし」


 その「止めるところは」という言い方に、タチバナが一度だけ視線を向ける。


 レンジは肩を竦める。


「外でユイちゃんが前へ出た時のやつです」


 口元が少しだけ緩む。


「……前に立つな。攫われるぞ、でしたっけ。あれ、かなり下層の感覚出てましたよね」


 タチバナは何も言わない。


 だが、否定しない時点で、同じことを思っていたのだと分かる。


 サエが静かに言う。


「あなたの代わりに言わせたんでしょう」


 その一言に、レンジが思わず吹き出しかける。


「言わせたっていうか、あれは図星を刺された顔でしたよ」


 タチバナが低く返す。


「黙れ」


「はいはい」


 レンジは両手を軽く上げる。


 けれど、口元の笑いまでは消えない。


「でも実際、あそこで止めるのは悪くなかったと思いますよ。あの子、自分が前に出ることの意味をまだ身体で分かってませんし」


「分かってないから困る」


 タチバナの声は低いままだった。


「知っていてやるなら切れる。知らないから切りにくい」


 その言い方に、サエが少しだけ目を細める。


「あなたがそう育てたのよ」


 まっすぐな言葉だった。


 レンジが黙る。


 ここは笑って流すところじゃないと思ったらしい。


 タチバナはしばらく返さなかった。


 それから短く言う。


「分かってる」


 その一言に、言い訳はない。


 サエはそれ以上そこを責めない。


 代わりに話を切り替えるように言う。


「ユウの方は」


 タチバナがそちらへ意識を戻す。


「使える」


 短い答えだった。


「線も守れる。役目も飲み込む。荒いが、場で崩れない」


 レンジがそこで少し身体を起こす。


「蹴りのことです?」


「あれも含めてだ」


 タチバナの声は平らだった。


 レンジは頬杖をつき、少し楽しそうに言う。


「悪くないと思いますよ。綺麗じゃないですけど、実戦じゃちゃんと機能してました」


 サエが続きを拾う。


「綺麗じゃない、というより、整理されていないのね」


「そうです、そうです」


 レンジが指を鳴らしかけて、サエに一瞥されてやめる。


「知識と技術がまだ追いついてないだけです。身体はもう先に分かってる感じですね。止め方としては成立してる。だから訓練積めば普通に武器になると思います」


 タチバナはその評価へ、今度ははっきり否定しなかった。


「今はまだ癖だ」


「癖でも当たりを引いてるなら十分ですよ」


 レンジが笑う。


「下手に綺麗ぶるより、よっぽどマシです」


 タチバナはそこで初めて、ほんの少しだけ渋さを緩めた。


「まあな」


 その一言だけで、十分だった。


 サエがグラスを置く。


「生活の方は?」


 その問いに、今度はタチバナが少しだけ考える間を置く。


「薄い」


 答えは簡潔だった。


「荷物もない。部屋の感覚も薄い。寝床の延長でしか見てない」


「でしょうね」


 サエはすぐに頷く。


「部屋を見た時の顔で分かるわ。ああいう子は、“空間を自分のものとして使う”ところから教えないと駄目」


 レンジが少しだけ笑う。


「そこでユイちゃんが食いつくんでしょうねえ」


 タチバナの顔がまた苦くなる。


「もう食いついてる」


「見てました」


 レンジが素直に言う。


「かなり本気で嬉しそうでしたよ。同年代の相手ってだけで、あそこまで顔に出るんだなってくらい」


 サエも静かに頷いた。


「あの子にとっては、“正式に入った人”ってだけじゃなくて、“歳の近い人が内側へ来た”のが大きいんでしょう」


 そこまではタチバナも否定しない。


 否定しないどころか、分かっているからこそ困っている顔だ。


 レンジが少し声を落とす。


「で、どうするんです?」


「何がだ」


「どうするも何も、そのまま懐かれますよ」


 軽い言い方だった。


 だが、中身はかなりまっすぐだ。


「あなたが止めない。ユウ君は軽くない。しかも、あの子から見れば“危ない時に止めてくれる、歳の近い正式メンバー”です」


 レンジは肩を竦めた。


「懐く条件、割と揃ってません?」


 タチバナは答えない。


 答えないが、その沈黙がもう答えに近い。


 サエが淡々と言う。


「少なくとも、あなたが思っている以上には早いでしょうね」


 レンジが小さく笑う。


「もう始まってる気もしますけど」


「黙れ」


 今度の「黙れ」は少しだけ重かった。


 さすがに図星だったのだろう。


 レンジはそれ以上は茶化さない。


 ただ肩を竦め、ソファへ深くもたれる。


「まあでも、悪いことじゃないですよ。少なくとも、ユイちゃんが相手として安全なのは大きいですし」


 タチバナが低く返す。


「安全なのは今だけだ」


 その一言に、レンジもサエもすぐには何も返さなかった。


 今だけ。


 その中には多分、ユウが軽くないことへの信頼も、娘の距離感への不安も、その両方が入っている。


 サエが少しだけ柔らかい声で言う。


「だったら、今のうちに覚えさせるしかないわね。ユウにも、ユイにも」


 タチバナは壁へ寄りかかったまま、短く息を吐いた。


「分かってる」


 またその一言だった。


 けれど今度の「分かってる」には、さっきより少しだけ重さがある。


 階段の上では、微かに床の鳴る音がした。


 ユイがまだ何か話しているのか、それともユウが部屋の中を見ているだけなのか、ここからでは分からない。


 レンジがその音へ耳だけを向けてから、ぽつりと言う。


「……まあ、少なくとも」


「何だ」


「今夜、あの部屋を見て“普通だ”と思ってるのはユウ君だけでしょうね」


 サエが小さく頷く。


「ええ。あの子の“何もない”は、きっとユイには相当珍しいはず」


 タチバナはその言葉に、少しだけ目を伏せた。


 荷物もない。


 私物もない。


 部屋を部屋として使う感覚も薄い。


 その差を、娘はこれから嫌でも見ることになる。


 やがてタチバナが身体を起こす。


「今日はもういい」


 仕事の区切りを告げる声だった。


 レンジが軽く手を上げる。


「了解」


 サエも静かに頷く。


「おやすみなさい」


 タチバナはそれに短く返し、階段の方へ目をやった。


 二階の先には、正式加入したばかりの新入りと、善意で距離を詰める娘がいる。


 拠点の一階には、生活の匂いと、仕事の残り香が静かに混じっていた。


 その上で、二階の床が一度だけ小さく鳴った。

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