寂しい部屋
階段を上がる間も、ユイの足取りは軽かった。
帽子はもうない。
白い髪が、階段の灯りの下で静かに揺れている。
拠点の中へ入ってからは、外で見せていた遠慮が少しだけ薄れていた。
二階の空気は、一階より少しだけ乾いていた。
生活の匂いはある。
けれど、下のリビングほど人の気配が濃くない。
壁も床もきちんと手入れされていて、下層の建物にありがちな埃っぽさが薄い。
必要なものだけを整えて、余計なものは増やさない。
そういう家だった。
ユイは廊下の途中で一度だけ振り返る。
「こっちです」
言い方まで少し弾んでいる。
案内しているだけなのに、何か自分のことのように嬉しそうだ。
ユウは短く返す。
「……分かってる」
分かっている。
分かっているが、そうでも言わないと落ち着かないだけだ。
廊下の一番奥に近い扉の前で、ユイが立ち止まった。
「ここです」
そのまま、迷いなくノブへ手をかける。
躊躇がない。
この部屋を自分の場所の延長として扱っている感じが、その動きだけで分かる。
扉が開く。
ユウはその中を見て、少しだけ足を止めた。
部屋は広くない。
だが、狭すぎるわけでもなかった。
壁と床。
小さな棚。
窓はなく、上の方に通気口が一つ。
部屋の中央寄りには、ベッドが置かれていた。
それだけだった。
ユウは黙ったまま中へ入る。
靴の裏が床を軽く鳴らす。
寝るには十分だ。
雨風は防げる。
鍵もかかる。
一人で横になるには広すぎるくらいのベッドまである。
それなのに、妙に落ち着かない。
寝床なら、もっと雑でよかった。
壁と屋根があって、すぐ武器が取れれば十分だった。
そういう場所に身体が慣れている。
それが最初から「部屋」として整えられていると、逆に何をどう置いていいのか分からなくなる。
ユウは部屋を見回したまま、ぼそりと漏らす。
「……ほんとに部屋だな」
ユイはその言葉の意味が分からなかったのか、小さく首を傾げる。
「部屋ですよ?」
「そういう意味じゃねえ」
そう返しながらも、自分でも何が言いたいのか少し曖昧だった。
寝る場所ではある。
けれど、寝床とは違う。
多分、その違いに身体の方が先に戸惑っている。
ユイはそんなユウの様子をしばらく見てから、部屋の中へ一歩だけ入った。
白い髪が肩の上で揺れる。
興味津々というほど露骨ではない。
けれど、見ている。
この人はこういう部屋にどういう顔をするんだろう、と、そのまま見ている目だ。
やがて、ぽつりと言った。
「……寂しい部屋ですね」
責める声ではない。
本当にそう思っただけの、素直な感想だった。
ユウはそちらを見た。
「そうか?」
「そうですよ」
ユイは即答した。
「ベッドしかないです」
言われて、ユウはもう一度部屋を見た。
ベッドがある。
空の棚がある。
机も椅子も、飾りも、私物もない。
使う人間の気配が、まだ何も乗っていない部屋だった。
けれどユウからすると、最初からそれで足りている。
「寝るには十分だろ」
本気でそう思って言う。
ユイは少しだけ目を丸くした。
「それだけですか?」
「それだけって」
ユウは眉を寄せる。
「他に何が要るんだ」
その問いに、ユイは少しだけ考えた。
「えっと……」
視線が部屋の中をさまよう。
「棚とか」
「ある」
「机とか」
「なくても困らねえ」
「あと、何か……落ち着くものとか」
その言い方に、ユウは少し黙った。
落ち着くもの。
その発想自体があまりない。
寝床に必要なのは安全と最低限だ。
ユイはその沈黙を見て、さらに続ける。
「部屋って、もう少しその人の感じが出るものだと思ってました」
その言葉が、妙に真っ直ぐ入ってくる。
この部屋には、確かにユウの感じなんて何もない。
それどころか、誰の部屋にも見えない。
ユウは低く言う。
「部屋なんて、そんなもんじゃないのか」
「違いますよ」
ユイはまた即答した。
そこに迷いがない。
「少なくとも、私の部屋はもう少しあります」
それを聞いて、ユウはなんとなく納得する。
そりゃそうだろう。
この子の部屋と、自分の部屋が同じ顔のはずがない。
ユイは部屋の中をぐるりと見てから、少しだけ声を落とした。
「でも」
そこで一拍。
「こういうの、初めて見ました」
その言い方は、さっきの「寂しいですね」と少し違った。
哀れむでもなく、笑うでもなく、本当に知らなかったものを見た時の声だ。
ユウは扉の近くへ立ったまま、壁へ軽く背を預ける。
「何がだ」
「部屋があるのに、部屋として使う前のままっていうか」
言葉を探しながら、ユイは指先で空中に小さく形を描く。
「寝る場所、なんですね」
その言い方に、ユウは小さく息を吐いた。
「まあ、そうだな」
それが一番近い。
部屋じゃなく、寝る場所。
そう言われると、すっと腑に落ちる。
多分、今まで自分が持っていた感覚はずっとそっちだった。
ユイは嬉しそうに頷いた。
「やっぱり」
なぜそこで少し嬉しそうなのか、ユウにはよく分からない。
「何がやっぱりだ」
「ユウ君って、思ってたよりずっと違うんだなって」
言われて、ユウは少しだけ眉を動かした。
違う。
何と比べているのかは分からない。
だが、少なくともユイの中で、自分は何か新しいものとして映っているらしい。
それが好奇心だということくらいは分かる。
ただ、その向けられ方にはまだ慣れない。
「……楽しそうだな」
半分呆れ、半分そのままの感想で言うと、ユイは本当に楽しそうに笑った。
「同年代のお友達は初めてですから!」
あまりにも迷いのない答えだった。
ユウは一瞬だけ言葉を失う。
友達。
その言葉自体が、自分の中ではまだ少し浮く。
これまでの関係に、そういう名前をつけて考えたことがあまりない。
一緒にいた相手はいる。
長く付き合った相手もいる。
それでも、わざわざ「友達」と言い切る感覚は馴染みがなかった。
だから、こうして嬉しそうに言われると、どう返していいのか分からなくなる。
結局、短く返すしかない。
「……そうかよ」
それだけ言うと、ユイはまた素直に頷いた。
「はい」
そこで止まるのも、逆に困る。
もっと何か言われる方が楽だったかもしれない。
でもユイは本当に、本音をそのまま置いただけらしい。
部屋の中に少しだけ沈黙が落ちる。
ユイはその沈黙を嫌がるでもなく、部屋をもう一度見回した。
「とりあえず、今日はここで休めますね」
現実的な声だった。
「寝るだけなら、困らないと思います」
「寝るだけならな」
「でも」
またその「でも」だ。
ユウはうっすら嫌な予感がした。
案の定、ユイは真面目な顔で言う。
「何か少しずつ増やした方がいいと思います」
「何を」
「部屋っぽいものを」
その答えに、ユウは思わず壁へ後頭部を軽く当てた。
ユイは本気だ。
この部屋が寂しいと思っているし、それを少し何とかしたいとも思っている。
善意で。
限りなく善意で。
ユウは部屋の中をもう一度見る。
ベッドが一つ。
空の棚。
静かな空気。
確かに寝るには十分だ。
それ以上は、今まで必要なかった。
けれど今はもう、寝るだけの場所じゃないのかもしれない。
そう考えた瞬間、少しだけ落ち着かなくなる。
ユイは扉のところまで戻り、そこでもう一度振り返った。
「今日は休んでください」
声は柔らかい。
でも押しつけがましくはない。
「足りないものは、また考えましょう」
また、という言い方が妙に自然だった。
今日だけで終わらない。
これから先も続くみたいな言い方だ。
ユウは少しだけ間を置いてから頷いた。
「……ああ」
それで十分だった。
ユイはそれを聞くと、小さく笑って廊下へ出る。
白い髪が灯りの中で静かに揺れ、扉の外へ消える直前、また楽しそうに言った。
「おやすみなさい、ユウ君」
ユウは返事を少し遅れて返す。
「……おやすみ」
扉が半分ほど閉まる。
部屋の中がまた静かになる。
ユウはしばらくその場に立ったまま、何もない部屋を見ていた。
寂しい部屋。
寝る場所。
同年代のお友達。
どれも、自分にはまだ少し馴染みが薄い。
ベッドへ目を向ける。
たしかに寝るには十分だ。
なのに、それだけじゃ済まなくなっていく気配が、もう部屋の中へ入り始めていた。




