前に立つな
食事が終わると、ユイが一番に椅子を引いた。
「じゃあ、行きましょうか」
声はさっきより少し抑えている。
一度注意された分だけ、そこは覚えていたらしい。
けれど、動きの早さまでは変わっていない。
話がまとまったものだと信じている人間の立ち方だった。
タチバナはまだ席を立っていない。
苦い顔のまま水を一口だけ飲み、それからグラスを置く。
ユウはその様子を見て、やっぱりこの男は本気で即断したわけじゃなかったんだなと分かった。
だが、もう流れ自体は前へ出ている。
ユイは帽子のつばを指先で直し、何の迷いもなく卓から離れようとした。
その足が、タチバナより前へ出る。
ユウは思わず口を開いていた。
「……前に立つな。攫われるぞ」
言ってから、自分でもかなりそのままの言い方だと思った。
だが、他にもっと柔らかく言い換える余裕もなかった。
ユイがぴたりと止まる。
「え」
本気で予想していなかった顔だ。
下層で生きる人間なら、一度は自分で考える種類のことを、そのまま外から投げ返されたみたいな顔をしている。
ユウはその反応を見て、余計に言葉を足す気が失せた。
説明することじゃない。
前に出るな。
真ん中にいろ。
それだけで十分な話だった。
代わりに、無言でタチバナを見る。
言葉にはしない。
しないが、視線だけで十分伝わる。
――どういう教育してきたんだ。
タチバナは案の定、さらに苦い顔になった。
図星を刺された顔とも言えるし、娘の前で言い返しにくいことまで込みで渋くなっている顔とも言えた。
ユイはまだきょとんとしたまま、小さく首を傾げる。
「前じゃだめなんですか?」
「だめだ」
今度はタチバナが答えた。
短く、迷いなく。
「俺の後ろにいろ」
それだけ言って立ち上がる。
ユイは少しだけ唇を引いたが、反発はしなかった。
自分が何か悪いことをしたとは思っていない顔のまま、それでも言われた位置には素直に従う。
そこがまた、箱入りらしかった。
ユウは椅子を引いて立ち上がる。
銀月の中では、他の卓の空気は相変わらず静かに回っていた。
誰もこちらをまじまじとは見ない。
だが、見ていないわけでもない。
顔見知りばかりだからこそ、茶化さずに流している。
その程度の配慮はあるらしい。
マスターがカウンターの向こうから一度だけ目を上げた。
「いってらっしゃいませ」
いつもの穏やかな声だった。
タチバナが短く返す。
「ああ」
ユイは小さく「いってきます」と言い、ユウは会釈だけで済ませた。
扉を開ける。
外の空気は、やはり中より冷たい。
湿気と鉄の匂い。
遠くで鳴る換気ファンの低い唸り。
どこかで車両の古いエンジンが咳き込むように震えている。
夜の下層は相変わらず暗く、相変わらず眠っていない。
タチバナが先に出る。
そのすぐ後ろへ、今度はちゃんとユイが付く。
ユウは最後尾についた。
タチバナ、ユイ、ユウ。
守る側から見れば、一番無難な並びだ。
前で道を切る人間。
真ん中で守るべき人間。
後ろで追尾と死角を見る人間。
下層では、それだけで生存率が変わることがある。
ユイは二歩ほど歩いたところで、少しだけ肩越しに振り返った。
「……そんなに危ないですか?」
声は抑えている。
だが、内容の方はまだ本気で腑に落ちていないらしい。
ユウは前を見たまま答えた。
「危ないから言ってる」
それで会話を切るつもりだった。
けれど、ユイは少し考えてから、今度は前を向いたまま言う。
「ここ、銀月のすぐ近くですよ」
「だから何だ」
「近いなら、少しは大丈夫かと」
その返しに、ユウは思わず鼻で息を吐いた。
「近い方が狙う奴もいる」
ユイが黙る。
そこでようやく、言葉の意味が少しだけ沈んだらしい。
銀月の近くなら安全、ではなく、銀月から出てくるところを拾う奴もいる。
そういう線があることまでは、まだ身体へ入っていなかったのだろう。
タチバナは何も言わない。
ただ前を歩く速度だけは変えない。
会話を聞いていないわけがないのに、あえて割って入らない。
多分、今のやり取りはユウにさせた方がいいと思っている。
細い路地を二つ折れる。
銀月の灯りはもう背後で細く切れ、代わりに建物の隙間を抜ける夜気が頬を撫でる。
表通りのざらついた喧騒は少し遠くなり、換気ファンの低い唸りだけが耳に残った。
ユイは真ん中を歩いている。
前へ出たがる気配はもうない。
けれど、代わりに周囲を少し気にし始めているのが、背中の硬さで分かった。
素直なのだ。
言われれば意識する。
ただ、それが最初から身についていないだけで。
ユウはその後ろ姿を見ながら、少しだけ妙な気分になる。
ユイがふいに小さく言った。
「……気をつけます」
前を向いたままの声だった。
ユウは少し間を置いてから返す。
「そうしろ」
それで十分だと思った。
必要以上に柔らかく言う気もないし、追い打ちをかける気もない。
前のタチバナは相変わらず何も言わない。
だが、その無言がさっきまでより少しだけ重くない。
少なくとも、ユイが前に出たまま歩くよりはずっとましだと、同じことを思っているのだろう。
しばらく歩くうちに、路地の空気が少し変わる。
表からは見えにくい位置。
壁は塗り直されていて、下層にしては妙に整っている。
だが窓がない。
明かりの漏れる隙間も、覗けるような甘い継ぎ目もない。
普通に見えるのに、普通じゃない建物。
ああ、ここか、とユウは短く理解した。
シャッター付きの建物の前で、タチバナが足を止めた。
ユイも自然に止まり、その後ろでユウも立つ。
タチバナが端末を取り出す。
短い電子音。
鈍い駆動音と一緒に、シャッターがゆっくり上がっていく。
中には車両が一台、影を落として停まっていた。
黒い車体の輪郭だけが、天井灯の冷たい光に浮いて見える。
外から見た時の無機質さと、中の管理された空気が噛み合っていた。
ユイが少しだけ振り返る。
帽子のつばの影で表情は半分隠れている。
それでも、さっきまでより少しだけ落ち着いた顔になっているのが分かった。
「……こっちです」
今度は声を張らない。
先に立ちすぎもしない。
タチバナの横へ出ず、その半歩後ろで言う。
そこまで直るなら、十分だろうとユウは思う。
タチバナが先に中へ入る。
ユイがその後。
ユウも最後に続いた。
シャッターが背後で閉まり、外の音が途切れる。
空気が一段静かになる。
タイヤの匂い。
金属。
少しだけ洗剤の匂い。
床には油の染み一つなく、下層の建物なのに妙に整っている。
その静けさの中で、さっきまでの銀月のざわめきが遠くなる。
タチバナは振り返らずに言った。
「今日はここまでだ」
仕事の区切りとしての声だった。
ユウは短く返す。
「……ああ」
ユイはそのまま中の扉の前へ進み、今度は先走らずに立ち止まった。
どうやら本当に、さっきの一言は頭へ入ったらしい。
ユウはその後ろ姿を見ながら、小さく息を吐く。
善意。
近さ。
危うさ。
そして、言えばちゃんと直そうとする素直さ。
面倒な相手だな、と少しだけ思う。
悪い意味だけではなかった。
タチバナが内側の扉を開ける。
ユウはまだ何も言わず、その向こうを見た。




