案内
食事が終わる頃には、卓の皿はほとんど空になっていた。
ユウは最後に残ったパンを水で流し、何も言わずにタチバナを見る。
返事を出すのは、どう考えてもそっちだった。
タチバナは相変わらず苦い顔をしている。
その横で、ユイだけが沈黙を待ち時間みたいに扱っていた。
「じゃあ、行きましょうか」
あまりにも自然だったので、ユウは一瞬だけ返事を忘れた。
まるでもう話が決まったみたいな調子だ。
押しつけているわけではない。
本気で、その流れ以外を考えていない声だった。
タチバナの眉間が深くなる。
「勝手に決めるな」
「まだ決めてなかったんですか?」
ユイは素直に首を傾げる。
その返しがあまりにもまっすぐで、ユウは思わず視線を逸らした。
駆け引きではない。
本気で、どうしてそこで止まるのか分かっていない顔だった。
タチバナは短く息を吐いた。
「そういう話じゃない」
「そういう話じゃないなら、どういう話なんですか?」
言葉は丁寧なのに、引く気配がない。
声も少しは抑えている。
さっき指摘されたからだろう。
直すところは直す。
でも押すところは押す。
その加減が、妙に遠慮なくて強い。
ユウは小さく言った。
「……決まってねえだろ」
半分は自分に言い聞かせるみたいな声だった。
ユイはすぐにそちらを見る。
「でも、だめとも言ってませんよね」
「それは」
その返しに詰まる。
確かにそうだった。
タチバナはずっと濁しているだけで、はっきり切ってはいない。
だから余計に、この場が前へ進んでしまう。
タチバナがユウへ目を向ける。
その顔に、助けを求める色はない。
だが、説明しろと言われても困る、という色は少しだけあった。
仕事の時には見ない顔だ。
ユウは小さく肩を動かしてから、結局また聞いた。
「……こうなってるけど、どうする?」
それを言った瞬間、ユイの目もまたタチバナへ戻る。
二人分の視線を受けて、タチバナはしばらく黙ったままだった。
銀月の奥では、別の卓で椅子が鳴る。
カウンターの向こうではマスターがグラスを拭いている。
いつもの夜の音だ。
その中で、この卓だけが妙に静かだった。
やがて、タチバナが言う。
「……案内だけだ」
低く、渋い声だった。
ユイの顔がぱっと明るくなる。
だが、タチバナはすぐに続けた。
「帽子を取るな。余計な声を出すな。寄り道もするな」
「分かりました」
ユイは嬉しそうに頷いた。
その嬉しさに作りがない。
本当に、案内できること自体が嬉しい顔だ。
ユウはそこで、ようやく観念に近い息を吐いた。
ユイはもう席を立つ準備みたいに帽子のつばへ指をやり、少しだけ向きを直している。
行動が早い。
決まったら迷わない。
それもまた、善意に迷いがないからだろう。
タチバナがそれを見て、さらに苦い顔になる。
「まだ立つな」
「はい」
返事は素直だ。
けれど座り直した姿勢がもう前のめりなので、全然落ち着いて見えない。
ユウは思わず小さく言う。
「……そんなに嬉しいのか」
ユイはきょとんとして、それからすぐに笑った。
「嬉しいですよ」
あまりにもあっさりしていた。
「歳の近い人って、あまりいませんし」
その言葉に、ユウは一瞬だけ黙る。
異性だとか、そういう温度ではない。
ただ単純に、近い年頃の誰かが自分たちの中へ入ってくる。
そのことをまっすぐ喜んでいる。
そういう声だった。
だから、余計にやりにくい。
ユウは目を逸らし、水を一口飲んだ。
「……そうかよ」
それだけしか返せない。
それ以上の言葉を足すと、何かが変に近くなりそうだった。
タチバナが立ち上がる。
「行くぞ。案内だけだ」
「はい」
ユイは素直に頷いた。
けれど、その足取りはもう弾んでいる。
マスターが空いた皿を下げに来る。
何も言わない。
何も聞かない。
ユウは椅子から立ちながら、ふと自分の寝床を思い出した。
武器。
水。
最低限の道具。
それ以外、持ち出すものはほとんどない。
その軽さが、今だけ少しだけ落ち着かなかった。




